いつかの約束
「ホントに、ごめんなさい!!!」
「あー、うん、いいのよー、気にしないでー」
平謝りする結名に、柊子は上滑りする「気にしないでー」を発した。それはもう、気にするしかない。結名ははぅーと溜息をつく。沈む頭を、柊子は苦笑しつつも撫でた。
「いいのいいの。ねえ、丈おかしくない? こんな短いの初めてなんだけど」
軽く裾を摘まむ柊子に、結名は頬を紅潮させて断言した。
「すっごくかわいいですよ! 足キレイ!」
「いえ、そこはいいの。お願い黙って……」
鞄が膝を隠すように動いているのは、慣れないものを着用しているからに他ならない。一人暮らしを始めてから全自動ダイエットになってしまい、あまり肉付きのよくない身体だと認識している柊子は、気恥ずかしそうに視線を逸らした。
柊子の服装は、皓星が勝手に購入したライトブルーのワンピースに、以前見た濃紺のカーディガンだった。結名の都合上、ランチだけでいいから!というやや無理やりな柊子の呼び出しの結果である。明日はいよいよ例のゲームショウに行くので、その前に何とか約束を果たしておきたかったらしい。例の、お揃いでという話である。
しかし、ゲームショウでお揃いとばかり思っていた結名は、もともと詩織と耐久カラオケの予定が入っていたので、ラフな黒ジーンズ姿だった。ふたりきりで延々と数時間歌い続けるのである。休みは互いが歌っているあいだか、ドリンクバーのドリンクを取りに行くなど離席する時のみ……! そこで、戦いに臨むにあたり、白いベストに薄い緑の水玉のシャツを合わせた。この初夏めいた暑さで、既に室内にエアコンが入っていることもあるので、寒暖の差に耐えうるチョイスである。エアコンなしでも、多少熱が入っても腕まくりをするか、ベストを脱げばいいので楽なのだ。
「あー、でも、ホントもったいないですよ。明日なら、皓くんも小川くんも来るのに……」
「だから、今日がよかったのよ。あ、ほら、結名ちゃんあんまり時間ないんだし、お店入りましょう?」
前回と同じ改札前で待ち合わせ、今回は柊子の行きつけのお店に行くという話になっていた。皇海市内ではそこそこ知名度のある、飲食店グループの中のひとつ、ファリーヌである。オープンから午後二時までモーニングサービスを注文できるという、時間的にはモーニングではないことで有名な店だった。
ベルを鳴らして扉を潜れば、すぐに従業員が禁煙席と喫煙席、希望はどちらと尋ねてきた。柊子に応対を任せて、結名は入りなれない喫茶店をキョトキョトと見回す。拓海のバイト先とは違い、半地下、中二階と客席が分かれているようだ。案内された半地下の禁煙席は、石造りの壁が幻界を思い出させた。観葉植物とアンティーク調の雑貨がニッチに並び、空間を装っている。ゆったりとした四人掛けのソファ席を示し、「こちらのお席でよろしいでしょうか」と、落ち着いた臙脂色のワンピースにエプロンを纏った従業員が柊子に尋ねる。彼女はひとつ頷いて、結名に「どうぞ」と先に座るよう促した。
座り心地のよいソファに腰を下ろすと、目の前にメニューが開かれる。柊子の微笑みがその向こうに見えて、結名はありがたくそれを受け取った。
やはり有名なモーニングサービスに一ページ取っているが、それ以外のメニューも充実している。土日祝も日替わりランチがあり、本日のメインはチーズインハンバーグだということなので、これから先の戦いに備えるべく、結名はそちらを注文することにした。さすがにどれだけ有名でも安くても、モーニングサービスにしては充実している内容でも、四つ切トースト半分とサラダ、コーン・ポタージュ、ゆで卵、ミニゼリーにドリンクだけでは五時間も戦えない。
逆に、柊子はにこやかにモーニングサービスを注文していた。実は、待ち合わせの一時間前まで眠っていたという。
「ほら、やっぱり気が張ってたのかも。ぐーっすり眠れたって感じ」
ポタージュのカップを手に、柊子は嬉しそうに言う。
彼女が解放された夜、一角獣の酒場は双子姫の目覚めや不死鳥幼生の加入などもあり、まさにクラン結成時以来のお祭り騒ぎになっていた。あの日はマールテイトも待っていてくれて、皆で喜びを分かち合ったのである。賑やかで楽しい夜だった、と結名も思い出して微笑む。
「わたしも、バージョンアップからずっとログインしっぱなしなので……ちょっと、寝過ぎかも?」
「幻界だとあれだけ動き回ってるのにね」
「長時間戦い続けても、リアルの身体は寝てるのと一緒ですから」
だからこそ、母も出かけるという結名に大賛成してくれたのだと思う。あの事件以降、一人での外出は認められなかったのだが、土屋ももう県内にはいない頃合いだ。そう心配しなくてもよいと、結名は安易に考えていた。それでも、カラオケの帰りには皓星が迎えに来ることになっているが。
起きてから、何も食べていなかった柊子はあっという間にドリンクとミニゼリーを残してすべてたいらげた。チーズハンバーグを頬張る結名を見て、彼女はちらりと腕時計に視線を走らせる。焦げ茶色のベルトに小さなアンティーク調の文字盤のそれは、もうすぐ正午を告げようとしていた。
その様子を見て、アイスカフェオレで喉を潤した結名が詫びる。
「すみません、あんまり時間なくて」
「ふふ、無理言ったのは私のほうよ。約束の時間には間に合うように、出ましょうね」
結名の次の待ち合わせ場所は、ここから歩いて五分ほどのカラオケ店と確認済みの柊子である。抜かりはなかった。
その前に、と本題に入る。
「今日、結名ちゃんに声かけたのはね」
そのまなざしが、悪戯っぽく笑う。
「女の子同士の秘密のお話、したかったからなの」
かつて、どこかで聞いたことばだった。
ぼんやりと幻界でのことを思い出しながら、結名は首を傾げる。
「秘密、ですか?」
「うんうん。だから、片桐くんにも、小川くんにもナイショ」
皓星と拓海にも秘密という念押しに、結名に緊張が走る。ナイフとフォークを置くほどの覚悟の決め方に、柊子は注意を飛ばした。
「あー、もう。食べてね? 私が勝手に喋ってるから、結名ちゃんは聞いててくれるだけでいいし」
「は、はい」
再びナイフとフォークを握り直し、残ったチーズハンバーグを大きな一口にしてしまう。それを見た柊子がふふっと声を出して笑い、次いで口を開いた。
「去年の夏……幻界ってクローズドβしてたの。まあ、今よりも相当えげつないチュートリアルやらイベントやらが目白押しで、今の幻界には殆どスキルとか、NPCのAIくらいしか仕組みが残ってない気がするくらい、そのころは違うゲームだったわねー」
結名は受験生だった。ちょうど、夏期講習が始まったころで、皓星はクローズドβテストに当選したと聞いて、うらやましいながらも勉学に励んでいた時期である。そういえば、もともとPTとしての一角獣の面々は、ベータテスター時代の知り合いだったはずだ。ハンバーグの名残をアイスカフェオレで飲み込みつつ、結名は柊子を見た。
「私はまだ、エスタや、ロ……ぺるぺると戦ってて。最初のころはシリウスとは同じPTになることもなくって」
「そうなんですね」
「楽しいよ、結名もやればいいのに」と言う彼の表情が、とても暗い時期があった。「結名がいたら違ってたのにな」という、嬉しくさせる割につらいことばを聞いた。受験のない受験生と、受験のある受験生で、あのころは隔たりを大きく感じていた気がする。反発して、結構ひどいことも口走っていたのではないだろうか。言われたことは覚えていても、自分が何を言ったのかはもう殆ど覚えていない。
皓星から、クローズドβの内容までは聞いていなかった。ただひたすらあの頃は誘われては断るを繰り返していた。だからこそ、柊子の続いたことばは、結名を驚かせた。
「たまにレイドで一緒になってたくらいだったの。でも、初めて会ったころに比べて、その時には本当に殺気立ってて……だから、ずっと気になってたのよね」
β2でも、その殺気立った感は拭えなかったという。いつフレンドリストを見てもログインをしている始末で、だからこそ、当初アシュアはシリウスのことを廃人だと思っていたらしい。ニートのように、四六時中家でログインしているのではと。実際、クローズドβのころは夏休みで、β2のころは……自由投登校のころではないだろうか。ニートと思われても仕方がない気がする。普通、大学受験生はゲームをしない。
「まあ、いろいろあって春先には同じ大学だってことがわかったりしてね。そのころにはもう、なんていうか、今の片桐くんな感じだったわ」
「そんなに、違ってました?」
「そりゃあもう。今思えば、答えは簡単なんだけどね」
笑みを深める柊子を見つめ、ことばの続きを待つ。だが、彼女はその答えは口にせず、ただ結名を見つめ返すだけだった。しばしの沈黙のあと、柊子は「ふふ」と笑って視線を逸らし、ミニゼリーを掬い、食べ始める。
どうしてシリウスが幻界において殺気立っていたのか、当時の幻界のシリウスを知らない結名には、想像もできなかった。成績が悪いとか、希望の学部に進学できなかったとか、そのような話はなかったはずだ。
困惑する結名へと、柊子は自分のミニゼリーを一口、差し出す。
「うんうん、ごめんね。私が知りたかったことはもうわかったから、いいの。結名ちゃん、ちゃんと食べておいてね」
自分の分のミニゼリーもあるのだが、と断るような真似はせず、しっかり結名はいただいた。
そこから先は、明日の待ち合わせの確認などに話が飛んでいき――トイレに離席している間にお会計は終わっていた。呼び出したのは私だから、と柊子に昼食をごちそうになってしまった結名は恐縮しながら礼を言う。
「そうそう。明日は偶然、いろんなひとと会うかもしれないけど、気にしないでね」
別れ際、とんでもない爆弾を投げて、笑顔で柊子は踵を返した。それはいつかの、皓星の手口ではなかろうか。
背後から、詩織の呼び声が聞こえる。結名は意識をカラオケに向けた。
「詩織ちゃん、わたし、がんばる!」
「うん、私だってガンガンいっちゃうからね!」
そして、ふたりの女子高生は、日暮れまでカラオケ店から出ず、声が枯れるほど歌い続けたのだった――。




