闇に揺蕩いしもの
最も状況を理解し、戦闘開始を即断したシャンレンの動きは速かった。
不死伯爵がまだ実体を保っているうちにと躊躇いなく走り、戦斧を振り上げる。
「戦斧旋舞!」
ほぼ無防備な不死伯爵に対し斧技が発動し、咄嗟に己の身を庇った彼の左腕が宙を飛ぶ。が、その腕は砕け散らなかった。絨毯の上に落ちた腕からは出血はなく、代わりに黒い靄へと変わっていく。
「そう、それでいいんだ」
満足げな言葉に驚愕し、一瞬、シャンレンは下がるタイミングを遅らせてしまう。
その間を不死伯爵は逃さなかった。黒い靄はシャンレンの足へとまとわりつき、その力を奪うべく生気吸収を開始する。聖水を口にしていた効果か、黒い靄と聖属性の光が弾け、光のほうが力を失ったかに見えたが、生気を奪われるスピードは速いものではない。それでもじわり、と目に見えてシャンレンのHPバーが減り始めた。
アシュアは聖域結界を組むべく、術石を握りしめる。聖属性付与を予め行なっていなかったのは、自分の甘さと驕りだと唇を噛む。割り切りなさい、と自身を叱咤しつつ、彼女はその場に術石を撒いた。
「聖なる光を帯びしもの
――留まれ聖域の加護」
法杖を掲げて聖句を紡ぎ、立て続けに聖属性付与と防御神術を行なう。聖なる光はシャンレンの全身を包み込み、更に戦斧にも力を与える。合わせて、神官自身とユーナの足元に神術陣が広がった。黒い靄から守るために発動されたそれらは、正しく威力を発揮する。シャンレンにまとわりついていた黒い靄は彼から離れ、再び不死伯爵の手元へ戻った。左腕が再生する。
その様子を見てもなお、ユーナはまだ動けなかった。
――どうにかならないの?
ただのNPC、魔物と割り切るには、彼のことばは辛すぎた。
今、彼が敵として立っているのは、人にとっては当たり前である「眠りたい」という欲望と、自分たちが前に進むために必要な「カードルの印章」を与えるためだけではないか。考えることさえ辛い時間を、どれだけ過ごしてきたのだろう。どうか主をと願った骸骨執事の気持ちを思い出し、カードル伯の赤い眼差しが痛くて、ユーナは手の中の水鉄砲を向けることができないでいた。
「ユーナちゃん?」
構えることさえしないユーナにアシュアも違和感を覚え、名を呼ぶ。
その間にもシャンレンは戦斧を掲げ、再度攻撃を開始していた。聖なる光を疎むように、不死伯爵の全身が闇に融けていく。星明かりの下であるにも関わらず闇が深くなる様に、彼は一旦離れて間を取る。視線を神術陣に走らせた時、状況を悟って眉を顰めた。
圧倒的にクエスト経験が足りないユーナに、この内容はきつかったのだろう。不死者の悲哀に触れる物語の流れは、確かに迷いを生じさせる展開に違いない。それはもう完全に意図的なもので、シャンレンも気の毒だなとは思う。思うが、それだけだ。彼自身が今の時点でできることを述べて、それを実行に移している。十分フラグは立った。あとは倒すだけだと、この先の転送門開放クエストを複数こなしてきたシャンレンやアシュアならば理解できるが、今の彼女には……。
シャンレンは戦斧を利き手に握り、もう片方の手で用意していた聖水入り水袋を外し、口を緩めて靄へと投げつける。撒き散らすというほどのことはできず、殆ど絨毯に浸み込んでいくだけだったが、それでもゆっくりとこちらへ近づこうとしていた靄は動きを止めた。
そして、絨毯の上の水袋を見て、ユーナもようやく覚悟を決める。今は戦闘中で、相手は敵で、今自分がしなければいけないことは何なのかを彼女は正しく認識した。無言であっても、シャンレンの動きが彼女を動かしたのだった。
「すみません、大丈夫です」
そしてユーナは、水鉄砲を噴射した。
高く、勢い良く発された水飛沫は、黒い靄へと確実にかかっていく。
急速に靄は収束し、絨毯の上の聖水を避けるように応接セット側へと実体化した。今度は水袋の中身を直接吹き付けるように狙い打たれ、不死伯爵は更に下がる。
「やるじゃない。私もがんばらないとね。天の祝福!」
聖句はシャンレンの上に光の輪を描き、祝福を与えて彼のステータスを増大させる。
アシュアの誉め言葉に応えるべく、ユーナは座り込んで水鉄砲の中身を補充する。こればかりは時間がかかる。
シャンレンはもう一つ水袋を出し、直接不死伯爵に掛けるべく走った。投げつけるだけのつもりが、逆に距離を詰められる。なんと、不死伯爵はステッキを出現させ、水袋を叩き落とした。そのまま、シャンレンの不得手な間合いに入られてしまう。顎を狙って繰り出されたステッキの動きに、アシュアの防御神術が発動した。
「――来たれ聖域の加護!」
攻撃と神術が交錯し、弾かれるようにふたりは距離を取る。だが、シャンレンは下がった瞬間に前へと身を躍らせた。両手で握った戦斧が右手下方から振り上げられ、不死伯爵の脇腹へと打ち込まれた。その名がオレンジに変わり、ダメージが相当入ったことがわかる。実体化していた不死伯爵は執務机へとその身を叩きつけられ……る前に、黒い靄へと変化していく。
ユーナは水鉄砲を構えて走り出した。神術陣からでは、執務机まで水鉄砲の中身は届かない。彼女の判断はその点において正しかったが、不死伯爵はその機会を見逃さなかった。
靄へとの変化をやめ、実体化したのだ。そのままユーナへと近づく。あわてて動きを止めたユーナは、絨毯に浸み込んだ聖水に足を滑らせてしまった。倒れかかった彼女の腕を取り、強く引き寄せ、不死伯爵は全身を抱え上げる。
ヒュッ、とユーナの喉が鳴った。
呆気なく聖なる光は打ち砕かれ、生命吸収によってユーナのHPが減り始める。そのスピードは驚異的で、シャンレンの時とは比べ物にならない。ユーナと彼のHPが瞬く間に黄色に変わった時。
「聖なる光を帯びしもの!」
ユーナ自身にアシュアの聖属性付与がかけられ、その輝きに不死伯爵はユーナを手放す。絨毯の上に力なく座り込んだ彼女の手から、水鉄砲が転がり落ちた。不死伯爵のステッキが水鉄砲を打ち、あっけなくがらくたとなった。駆け寄るシャンレンに、不死伯爵は聖水に濡れたステッキを投げつけ、間合いを取る。再び黒い靄へと変わっていく。
ユーナは、道具袋へと手を伸ばした。中から取り出したものは……




