命を選ぶか、生を選ぶか
「戻るぞ」
何を問うでもなく。
老女の発言に、剣士は彼女を抱いたまま身を翻した。当然の如く、一同も祭壇に背を向ける。
しかし、その視界に、あるべきはずのものがなかった。
泉の中央から、橋が消えていた。仮面の魔術師の舌打ちが水面を空しく滑っていく。
「ちょっと、そういうのは先に言ってよ!?」
巫女の怒鳴り声が室内に響く。老女は肩を揺らして笑った。
「何も、そなたたちに犠牲を求めてはおらぬ」
「バカ言わないで」
神官の声が低くなった。本気で怒っているのだ。
ユーナは地狼を見た。
「アルタクス、橋、もう一個作れそう?」
【無理。この石、動かない】
「じゃあ、あっちまで跳べる?」
【それならできるけど……何か意味あるの?】
助走込みでなら、祭壇から対岸にまでは戻れる。だが、意味合いを正しく受け取った地狼は「ひとりで戻ってもしょうがない」ことを指摘した。一応、ユーナは粘る。
「あっちに何か仕掛けとかあったりするかもじゃない?」
【わからないし、ユーナから離れる気はないよ】
結論には対抗できなかった。
しかも、地狼は唸り声を上げながら、老女を睨んでいる。『聖なる炎の御使い』はしわしわの顔を笑んでいるかのように見えた。
「まあ、泳げばいいよね?」
「この水は命を吸う。あちらまで持つかの」
触るな、と言われた理由がわかり、軽く水泳を考えて小首を傾げたユーナは凍り付いた。
老女は軽く、剣士の鎧に触れた。
「下ろしてもらえるか、お若いの」
「いや、ばあさん下ろしたらオレ、このまま泉に蹴り飛ばされそうなんだけど?」
うちの聖女に。
青いまなざしが鋭さを増し、剣士は老女の身体を抱き直す。
その視界に、白い炎が上がった。
老女の翳した手の中に、それが揺らぐ。
「下ろすがいい、お若いの」
しわしわの手は何ら影響がないようだが、ただ老女を抱いているだけにも関わらず、剣士は聖騎士の鎧が融けそうな感覚を味わっていた。じっとりと汗ばむ身体、痛みに近い熱さ。歯を食いしばる様子に、老女は声を上げて笑う。
「ふふっ……若いのぅ」
「おばあちゃん!?」
おもむろに、『聖なる炎の御使い』は自身を抱く籠手に覆われた腕へと、白炎を当てた。一瞬、聖騎士の籠手が白光を放つ。剣士の呻きが零れる中、老女は床に落とされた。左側の腕にあった聖騎士の籠手は、完全に失われている。
装備破壊。
HPこそ削れていないが、シリウスの守備力が減少した。
ゆっくりと、『聖なる炎の御使い』は歩き始める。それは牛歩よりもなお遅く、しかし確かに前に進んでいた。
ユーナは祭壇の中央へ向かう道筋へと立ち塞がった。その前に、地狼が入る。
「ダメだってば! おばあちゃんが死んじゃうなんてイヤだよ!?」
「扉を開かねばどうなるか、わかるじゃろうに……」
「そんなことのために連れてきたんじゃないわよ!」
アシュアが叫ぶ。白銀の法杖を構え、いつでも神術を放てる姿勢で彼女はことばを続けた。
「癒しでも、聖域使いながらでも――何とかして戻りましょう。普通に出て、短剣使ってごねながら行けばいいわ。こんなところで鍵代わりに命使うなんてもったいないでしょうが」
「そうだよ! アークエルドだって、まだ全然、おばあちゃんと話してないのに……っ」
従魔使いの叫びに。
影が動いた。
しまった、と思った時にはもう遅かった。
銀糸の刺繍が施された外套を翻し、彼は姿を見せる。擬装のままだが、HPなどのステータスは、一角獣の酒場で見た時よりも数値が落ちている気がした。
薄い月色のまなざしが、『聖なる炎の御使い』を捉えた。
ふぅ、と疲れたように老女は息を吐き、歩みを止める。
「心優しき従魔使いよ……その剣を収めておくれ。
この婆とて、死にゆく姿を誰もに見せたいわけではないのでな」
「誰の命でも構わぬのなら――この命でも、よかろう」
老女のことばを裂くように、アークエルドは感情の篭らぬ声を発した。
白濁とした目が、偽りの生の輝きを映し出す。
交わされたまなざしに互いを認めると――アークエルドは老女に背を向けた。そのまま紫水晶を捉えて微笑む。
ユーナはかぶりを横に振った。何言ってるの。
歩き出したアークエルドは、そのまま、ユーナの隣を抜けていく。
「何でこんなに死にたがりが多いのよ……」
「もう死んでいるからな」
アシュアの法杖の前を素通りして、彼は歩き続ける。ほんの少しでもそれで叩けば、擬装中のアークエルドは化けの皮を剥がされ……聖域の中で、息絶えることを、アシュアは悟っていた。楽しげに言い返し、アークエルドはなおも進む。
祭壇の中央。
白い穴のほうへと近づく彼を止めたのは、また白炎だった。
「ならぬ、アークエルド。少しおとなしくしておれ」
「おばばさま……っ」
アークエルドの正面に、白炎の柱が打ち上がる。
咎めるように振り向いた彼は、一角獣の面々の周囲に取り巻く白炎の渦を見た。少しでも身じろげば、その身体が白い炎に巻かれてしまう。蒼白になったユーナの姿に、アークエルドもまた動きを止めた。
「余計な力を使わせおって……すぐ終わる。待つがいい」
息も絶え絶え、といった様子で、老女は声を発する。まるで身体を引きずるような歩き方で、一歩一歩前に進んでいく。全身で辛さを表しながらも、白炎は消えない。
どうして、死ななければならないのだろう。
いつかやってくる終わりを、今迎えなければならない理由なんて、ないはずなのに。
それほどまでに、望んでいるの?
彼女が白い穴の縁へと足を入れる。
ユーナは、叫んだ。
「やだ……やだよ、おばあちゃんっ!
――満たせ純粋な水!」
左手に込められた祈りに、水霊が応える。水の霊術陣が宙に描かれ、滝のような水が白炎と重なる。水蒸気が発生し、周囲の視界を白へと包み込んだ。
多少の水で、鋼を焼き尽くす白炎を止められるとは思っていなかった。それでも、渦から出る間だけ、ほんの少しでも火力を押しとどめられたら。
「来たれ方円聖域の加護!」
アシュアの祈りが聖域を生む。アークエルドを除く、全員の周囲に聖域結界が張り巡らされた。
ユーナはふらつく頭で、そのまま一歩前へ、痛みを覚悟して足を踏み出す。彼女を包む聖域結界は、容易く砕け散る。
しかし、――悲鳴は上がらなかった。
灼かれると思っていた痛みも、なかった。
同時に、何かが床を打つ。
耳を叩くような音に振り向くと、紅蓮の魔術師の術杖が、振り下ろされていた。
老女の背が、震える。
「炎を織り交ぜた幻惑か、やってくれるじゃないか」
苛立ちの声が響く。
彼の姿は、何もない……命を溶かす水が揺蕩う泉の真上、空中に立っていた。
そして、怒りのままに紅蓮の魔術師は術杖を撫で、術式を放つ。
「――炎の矢!」
一本の炎の矢が、命脈の泉の上を走る。
白幻のバランスが崩れ、橋が姿を現した。
「少しも待てぬとは……困ったものよのぅ」
困ったというよりも、どこかうれしそうに、『聖なる炎の御使い』は呟いた。
白濁としたまなざしは、何を見ているのかわからなかった。
あと少し、というところまでユーナが駆け寄った時、その開かれた両手に、それぞれ白炎を乗せる。
「おばあちゃんだって、待ってくれてないよ!?」
「もう、待ちくたびれての。死を待つよりはよかろうて」
「よくない!」
両手でマルドギールを握り、ユーナはかぶりを振った。
「一緒に行こうよ……こんな、とこでお別れなんて、イヤだよ……っ」
ぱたぱた落ちる雫が、マルドギールの赤の宝玉を濡らす。
煌く炎の証に、『聖なる炎の御使い』は目を細めた。
「――わかっておるよ。我が心、偽るつもりはない。
うら若き従魔使いよ、そのことば、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
【テイム、並びに説得成功。
名前を決めて下さい】
出現したウィンドウと、流れたアナウンスに。
ユーナは目を瞠った。
そのさなかに、『聖なる炎の御使い』の手の上で、白い炎が踊り始める。
「炎霊よ、新たなる我が主の前に道を拓き給え――」
厳かな祈りの中、老女は赤い液体へ、小さな白を落とす。
白い神官服に赤い帯を佩いた『聖なる炎の御使い』は、己の白炎の中へと呑まれていった。




