解き放て
以前昇った時には、ただ尖塔の先にしか意識が向かなかった。そこには四畳半程度の広さの空間と、時の聖印があるのみで、異空間への扉が開く、などということもなく、大聖堂を俯瞰できただけだった。同じ高さの尖塔が三つ、正三角形に存在するため、同じ高さに同じ広さの小部屋があり、それぞれめぐるのは疲れたが楽しかった。
螺旋階段を昇る途中、どの塔にも幾つか小部屋があるように見えたが、勝手に他の部屋に入ってよいはずもなく、そもそも閉まっているという前提だったので、開けたいとも思わなかったのだ。
木製の扉には、真鍮製の取っ手がついていた。アシュアは手を伸ばして取っ手に触れ、扉を叩く。ドアノブに触れたままでなければ、通常、鍵のかかった部屋の中まで声は響かない。旅行者としては慣れた仕草で、彼女は声を掛けた。
「おばあちゃん、いる?」
問いかけを続けようとして、アシュアは口ごもった。
そう。彼女はことばを話さないのだ。返事を期待しても、応えはない。
「鍵はかかっていないはずだが」
聖騎士マリスの声が、躊躇うアシュアの背を押す。
そのことばの通り、取っ手を軽く捻ると、あっさりと解錠の音が響いた。
室内は、明るかった。アシュアの開いた扉とで風の抜け道ができたようで、一瞬、視界を突風が襲う。術衣が大きな音を立てたが、飛ばされるほどではなかった。火照った身体には心地よいくらいだ。その風が弱くなると、ようやく部屋を見回すことができた。
正面にあるはめごろしの大きな窓から射し込む光はあたたかいが、今は少し回避したいかもしれない。その両脇に木戸があり、そこから風が抜けていた。視線を正面の窓から奥へと向けると、小部屋と思っていた部屋が意外と広いことに気付いた。アシュアの居室並みだが、居間と寝室が一体化している作りになっている。
そして、『聖なる炎の御使い』は居間のソファに座っていた。
「何で他に誰もいないのよ?」
「『聖なる炎の御使い』は、大神殿においでになられたころから一人を好んでおられたと聞く。そのせいではないか?」
「だからって扉の前に護衛の一人もいないのってありえなくない?」
「彼のお方を誰だと思っている……」
「おばあちゃんでしょ」
確かに、『聖なる炎の御使い』を害そうと思えば、白炎に耐えねばならない。鉄すら一瞬で蒸発させる火力に対し、護衛など飾りにしかならないというのもわかる。よって、護衛は不要という理屈だろう。
それでも、アシュアは冷たいまなざしを聖騎士マリスに向けて答えた。あきらめたように、また聖騎士マリスは息を吐く。
広々とした室内は、どこまでも白で彩られていた。アシュアの居室には花が飾られており、色彩の差を感じた。初めてアシュアはこの時、あのカレンディラという女神官が、アシュアのために花を飾ってくれていたのだと知る。逆に、ここまで花を生けに来る者はいなかったということもわかり、それがせつなかった。『聖なる炎の御使い』の目は白濁とし、ことばはない。よってこれもまた不要と断じられたのかもしれない。
今、老女は。
日射しと、ひとが増えたことによって温かさを得ているように見えて、アシュアは少しほっとした。目の前に身を屈め、声を掛ける。
「えーっと、おばあちゃん? 私、アシュアだけど、わかるー?」
高校時代に亡くなったひいおばあちゃんに話しかけているような気分である。別段、彼女の耳は遠いわけではなかったと思い出したのは、しわしわの顔がこちらに向けられた時だった。
「『聖なる炎の御使い』に、不遜なことだ」
「親しげって言いなさいよ。
おばあちゃん、私帰るんだけど、おばあちゃんも来る?」
不満げに口を開く聖騎士マリスに釘を刺し、アシュアは老女の手を取り、誘いをかけた。しわしわの手は、とてもやわらかだ。
だが、その内容に、剣士と巫女は思わず声を上げる。
「――アシュア?」
「――アシュアさん?」
呼びかけに、そう言えばまったく事情を説明していなかったとアシュアは思い至る。
「おばあちゃんはね、私がここに来ちゃったから……私の命を盾にされて、この塔に入ったのよ。
聖女っていう肩書は、おばあちゃんを繋ぎ留めるための、私への餌。
本当はおばあちゃん、どこにいってもいいんですって。おばあちゃんの気持ち一つで、何してもいいって聞いたの。
ねえ、連れて帰りましょうよ。おばあちゃん、ごはん食べられないわけじゃないし、幻界はトイレないし、お風呂だってユーナちゃんに頼めば……」
「貴様、本気か」
怒りに満ちた声音に、アシュアは内心舌を出した。
どうでもよすぎて忘れていた。聖騎士マリスは、あくまで聖騎士なのだ。
だが、視線を頭上に向けてもなお、その名は緑のままだった。
「本気じゃなきゃ、言えないわよ。こんな寂しいとこ、十日いただけの私でも嫌だったもの。おばあちゃん、二十年近くいるんでしょう? もういいじゃない。解放してあげなさいよ」
「――愚かな」
聖騎士マリスは吐き捨てた。
そのまなざしが、アシュアを射抜く。
「『聖なる炎の御使い』は、死をお望みなのだ。彼のお方を真に解放するのであれば、それしかない」
アシュアは、その視線を逸らさず、怒鳴りつけた。
「寝ぼけたこと言わないでよ! アンタいったい何の神に仕えてるの!?」
「命の神の教義を忘れたのは貴様だ! 泉下は安らぎの地だろうが!」
「おばあちゃんはまだ生きてるじゃないの!」
『聖なる炎の御使い』とて、食べて、眠り、目覚めるのだ。
貴賓棟で過ごした時間、アシュアは毎日、全員の健康診断めいたことも行なっていた。少しでも異常があれば、投薬し、回復を祈る。その日々の中、老女には熱病がかかることはないと知っていても、その手を取って尋ねていたのだ。
「おばあちゃん、元気? しんどくない? どこか痛かったりしない?」
アシュアの問いかけには、いつも柔らかな握り返しの答えが届けられた。
しわしわの手は、自分よりも少しひんやりとしている時もあったし、逆にほのかに温かい時もあった。ことばのないやりとりの中で、それでもアシュアは「大丈夫」という返事を受け取っていた。
今も。
今も、触れた手はこんなにもあたたかいのに。
アシュアの叫びに。
聖騎士マリスは、唇を噛んだ。
「ヴェーレン殿があきらめるはずがない。貴様は仲間をも危険に晒す気か」
「あのなあ……危険だとかって、王家の霊廟にオレたちを放り込んだおまえには言われたくないんだけど」
「少しの犠牲で多くが助かるのであれば、聖騎士として私は正しい道を選ぶ」
呆れ返った口調で指摘するシリウスに、自身の正しさをマリスは主張した。
アシュアは口元を歪めて、マリスを嗤う。
「悪いけど、私は選ばないわよ。聖女として正しい道がそれなら、絶対に聖女なんかになるものですか。
何もなくしたくないの。全部、守りたい――そのために、私は祈ってるのよ!」
瞬間。
西日が遮られ、室内に影が走る。
空が曇ったものとも違う状況に、視線が窓へ向いた。
大きな窓に、一本の影が重なっていた。三つの尖塔は正三角形に配置されているため、この西日の時間帯には、中央塔であるここに、影が入ることはありえないのに。
しかも、その影は徐々に――太く、なっていく。
「伏せろ!」
「アシュアさん!」
シリウスが、老女を抱え込む。
ソルシエールの柔らかな感触が、アシュアを包んで押し倒す。
はめごろしのはずの窓ガラスが割れた音と共に、室内へと飛び込んできたのは、人影。
風が吹き荒れる中、アシュアは見た。
ソルシエールによく似た黒い髪は、メッシュのように栗色が入り。
漆黒のまなざしには、一筋、紫が煌いている。
同じ色合いの狼耳と尾が、ぴくりと揺れて、身体をこちらに向けた。
小柄な少女の腕の中にも、人がいる。
驚きで、声が出ない。
ユーナがお姫様抱っこをしている相手は、何と……紅蓮の魔術師だった。
幻界のクロスオーバーのクローズドベータバージョン、シリウス視点にて連載中です。
今の幻界と違う、かつての幻界のチュートリアルからスタートです。
受験生なシリウスが受験じゃないとこでやさぐれていて、
ダークな分だけ、細かくゲームシステムが語られております。
不定期更新ですが、最低でも週一は更新したいなーと思って昨日も更新しましたよー!
というわけで、幻界のクロスオーバーβ~剣士誕生~のほうも是非是非よろしくお願いします!!




