朽ち果てるまで
地狼の口元へ、命の丸薬を運ぶ。自力で動けないほど、傷は深い。飲ませようとしても、その身体も口も、反応しなかった。ユーナが薄く開いた口から丸薬を入れようとすると、牙に当たって指先に小さな傷がついた。痛みで手を引く間に、大きな刀傷から流れ続けていた血が止まり、深い傷だけが残った。
地狼が、うっすらと目を開ける。HPも瞬時に黄色にまで回復し、ユーナが傍にいる今、その色合いは薄い緑に移り変わろうとしていた。
【――ごめん】
「ううん」
血の味を感じたのか、地狼が珍しくも謝った。その顔を撫でる。乾いてこびりついた血のかたまりが剥がれて、落ちていく。心地よさそうに、地狼はその手に頭をこすりつけた。
壁際から、ユーナは視線を巡らせた。自分を守るように立つ不死伯爵の向こうで、父王と対峙するソレアードが見える。その表情は苦痛に歪んでいた。扉側にはアシュアがシリウスへと治癒を施している。その前に、盾士と狩人が身構えていた。扉の外……もっと離れたところにいると思っていた骸骨執事は、かなり扉近くにまで歩み寄っていた。腕に老女を抱えている。
『ホント、ごめんね……』
『謝るなって』
同じようなやりとりが、PTチャットでも繰り広げられていた。
シリウスが失った左腕は、ちょうど関節部分を断ち切られていた。部分欠損を回復するためには、本来神殿か施療院にて治療を受けなければならない。もしくは、治療に長けた神官職が触媒を用いることで治癒できる。アシュアも部分欠損の治癒は可能だが、問題は、その触媒だった。聖属性の木材「イレックス」とクエストボスが落とす魔力の宝珠を組み合わせたものは、エスタトゥーアによって『白の媒介』と名付けられていた。そのエスタトゥーア謹製の触媒は、例のホルドルディール戦ですべて使い切ってしまったのである。
傷自体は癒すことができても、腕は戻らない。剣は未だにソレアードの胸に突き刺さったままである。
シリウスは道具袋から、予備の片手剣を取り出した。エスタトゥーアによる強化を受けていない、ただのアルカロット産の代物である。左腕がなくとも、これならば取り回せる。アシュアの手を借りて腰に佩き、引き抜く。今までの長剣に比べると、細身の片手剣はかなり軽く感じた。
『なあ、今のうちに逃げるのもありじゃないか?』
ふと、フィニア・フィニスが声を上げた。
不死王ふたりが対峙して身動きが取れない今、あらゆる意味で最大のチャンスである。逃げるにしても……戦うにしても。
『何ていうかさあ……話が通じすぎてて、気持ち悪いんだよな。ホルドルディールとか、ああいう類じゃないだろ?』
『NPCだから、ですか?』
『んー、あんまり、NPCって感じがしないんだよ。アークエルドもだけど……ボクたちと、一緒じゃないか。演者っぽいっていうか』
ことばに迷いながらも、フィニア・フィニスの手は戦いに向けて矢を装填している。気が進もうが進まなかろうが、ここは戦場である。そのシビアさはわかっていた。油断なく、盾士も盾を構えていた。
そして、「NPC」ということばに、ユーナは表情を曇らせた。話題に出たアークエルドを見ると、彼は変わらず、視線をふたりの不死王に向けている。話は聞こえているはずだが、特に気にしていないようだ。
『幻界のひとって、みんなそうじゃない? わたし、おしゃべりしててもパターン化したのとか、聞いたことないよ』
愛想がないひとは確かにいたが、定型文をそのまま繰り返す者はいなかった。アニマリートやイグニス、グラースに至っては、旅行者と言われても信じてしまうだろう。そして、フィニア・フィニスがテイマーズギルドで彼らに意識を向けなかったことを思い出した。関わり方次第、なのかもしれない。
ユーナのことばにアークエルドが首を傾げ、視線をちらりとこちらに向けた。
『同じことばを繰り返す者なら、自動人形ならあるが』
『えーっと、そうじゃなくって……』
『幻界の住人ってことでしょ。魔物と、元人間の不死者の違いじゃないかしら。ただ倒す対象って言うには――迷うわよね』
アシュアもまた、NPCという認識よりも、更に踏み込んで考えていたようだ。住人という呼び方に、ユーナも気が楽になる。
そして、ユーナにとっても、ソレアードに対する認識としては、正直「迷う」ということばがしっくり来た。幻術で共倒れを狙ったことや、アークエルドに対する暴言、シリウスの腕など、実際に敵に回っているのだから、躊躇わずに戦うのが正しい選択肢なのだろうとは思う。それでもアシュアや自身が「迷う」のは……かつて、カードル伯と戦った記憶があるせいかもしれない。
地狼が立ち上がる。腹部から脚には、べっとりと血がついていた。しかし、HPは緑にまで戻っている。従魔回復の影響で、近くに立つアークエルドもまた回復していた。この驚異の回復支援力が、ユーナの従魔使いとしての強みだろう。彼女自身もまた、念のために魔力の丸薬を口にした。
剣士が、片手剣を構える。その視線の先には、親子の姿があった。
不死王同士の攻防は、未だに続いている――。
胸板を貫く聖属性を帯びた剣が、徐々にHPを奪っていく。
不死王ソレアードは、抗っていた。
父王からの支配に。
何があっても、父王にだけは、剣を向けたくなかった。
そのために、怒りの矛先が必要だった。
頭の中身を、素手で掻き回すような感覚。
やがて、頭ごと握り潰すのだろうと思わせるような力が、父王にはあった。左手の赤い宝玉の指輪が、煌いている。その輝きを目にして、ソレアードは懐かしんだ。自身が、父王の手にはめたものだ。
ぐるぐると回るのは、闇の中では思い出せなかった記憶だった。
熱病で失われた命だから、すぐに埋葬せねばならない。
死者の枕辺で、神官長はそうのたまわった。当初、疫病は焼却せねばならないと訴えられ、それは断固と拒否した挙句のことばだった。国葬をと言える時期ではなく、偉大なる父王を送るには簡素な葬儀になることが、口惜しかった。
王位に就く時、王者のマントが作られる。王の副葬品として埋葬されるものとしては、その王者のマントと、泉下への旅路を無事に辿れるようにと剣が、旅費にと宝石が選ばれるのが常だった。だが、父王の剣はソレアードに下賜していた。父の形見となってしまった剣を埋葬するにはつらく、ソレアードは王家の宝物庫から、父王に釣り合う剣を見出した。そして、多くの宝石を選ぶ中で、唯一、指輪にと命じたものだ。宝石ではなく、魔力を秘めた魔石にしたのは、死出の旅路が少しでも安からんことを祈ったためだ。巨大な宝珠を、錬金術師の力で結晶化したものだと聞いたことがある。
祈った通り、父王は死後の旅路でもその力で戦っている。
その対象がソレアード自身であることが、より彼を哀しませた。
「ソレアード」
父の声が、息子を呼ぶ。父王にすべてを委ねたくなる。心だけではなく……不死王としての役割までも。
既に、食屍鬼は光へと還った。
ヴァルハイトを伴うほどの実力を持つ彼らを、父王が庇うのだ。自身が不死王として狂っていることを合わせても、それだけ高く買っているということだと思う。
心の天秤が傾く。
楽な、ほうへと。
だからこそ、ソレアードは息子として、最後の親孝行をせねばと全力で支配から抗った。険しく、自身にとってはつらい選択を、強いた。
「なりません、父上。この者達を、生かして帰すわけにはいかないのです……!」
命懸けで役目を果たしてくれたであろうおばばさまを思えばこそ、終焉したはずの闇を世に解き放つわけにはいかない。
王家のためではなく、民のためにと願った――在りし日の自分のためにも。
意識が鮮明になる。乱されていた思考が、澄んでいく。
ソレアードは胸板を貫く剣を引き抜いた。左手が、聖なる光によって火で炙られたように爛れている。痛みなど感じないはずの不死者の身体にも影響を及ぼす、神の力だ。だが、爛れる程度ならば、どうということもない。これ以上、聖属性の攻撃を受け止めないために、使わせてもらおう。
右手に、カードル伯の剣を。
左手に、剣士の長剣を。
双剣を携え、彼は父王に向き直る。
「お叱りは……あとで、受けます。お許しを、父上」
奇しくも父が甦らせた記憶こそが、戦うため、怒りに囚われていたソレアードを……本来のソレアードが不死王として在るための戦いへと駆り立てていた。




