裏切り
徐々に、かび臭いだけではない空気が漏れてくる。
ユーナは鼻につくその匂いに顔を顰めた。
「!」
扉が開ききる前に、地図上に赤い光点が表示される。青の神官は打ち合わせたかのように、身を引いた。そこへ、剣士が駆け込む。床近くにいたらしいそれは、飛びかかるように扉の隙間からこちらへ襲い掛かった。
「聖なる光を帯びしもの!」
剣が振り下ろされるより早く、聖句が紡がれる。聖なる光を宿した長剣は、腐肉を抉った。しかし、それは動きを止めない。生きる死体とは異なる敏捷さに、剣士は息を呑む。伸ばされた不死者の腕が彼に届く前に、不死伯爵のステッキが振るわれた。細身から放たれた打撃は、その身体を容易に墓室の内へと戻した。何かが潰れた音はしたものの、未だに赤い光点は消えない。
仲間を犠牲にして。
青の神官は悔いた。
墓室に封じられたものは、先代の王だけではなかったのだ。
増えていく赤い光点を見て、唇を噛む。その動きは、先ほどの不死者と同じく、ゾンビよりも格段に速い。
「下がれ」
不死王フォルティスの声が響く。
途端に、不死者らの動きが止まった。
不死伯爵もまた、その声に従いそうになった。低く、落ち着いた声音は心地よい。従魔使いに再会した折に感じた酩酊感とは違う、命じられることを悦ぶ感情が沸く。
不死王の有するスキル――支配である。
「――父上」
その声は、小さいながらも驚きに満ちていた。懐かしさに駆られながら、不死伯爵はその姿を探す。呼ばれた父王も、また、同様に。
大きく開かれた扉の向こうが、不死者にははっきりと見えた。
たむろする食屍鬼の群れ。
そして、墓室の最奥、石棺の上で座る……もうひとりの、不死王の姿が。
奥まで魔力光は届かず、旅行者の目に「彼」は映らない。
ユーナは、墓室に響いた声音が思ったよりも若いことに、驚いた。
「久しいな、ソレアード」
親しみをこめて、父王は息子を呼ぶ。
その足が、墓室へ踏み入れられた。途端に、四方の魔石の照明が灯く。魔力光と同じくらいの光量だが、薄闇に慣れた目には、じゅうぶんである。それは父王の、旅行者への配慮だった。
不死王ソレアード。
短く刈られた金色の短髪に、豪奢な赤いマントが小柄で細身な青年を包んでいる。その真紅の双眸が、静かに沈んでいくのが見えた。
父王がゆっくりと歩み寄るのを見て、不死王ソレアードは息を詰まらせた。
「墓室から、どうやって――」
「死霊だからな。こことて、祈りの扉であれば出入りできたものを」
薄く透けた身体を示す様子に、ソレアードは目を向ける。そのまなざしが、揺れていた。信じられないとばかりに、かぶりを振る。その視線が、彼を見つけた。
「ヴァルハイト」
そこには、確かに喜びがあった。不死伯爵を呼ぶソレアードの声音に、ユーナはマルドギールを強く握りしめる。彼女の位置からはアークエルドの表情は伺うことができない。縋るようにその背に目を向けていることなど、ユーナ自身は気づいていなかった。ただ、アルタクスには、彼女の不安が感覚でわかった。もっとも、もうひとりの従魔である、当の不死伯爵は……それどころではなかった。
「まったく、そなたを自由にするのに、骨が折れた」
「助かりました、父上。そろそろ食屍鬼の戯れも見飽きていたので」
高貴なる不死者たちの対話に、ユーナは目を剥いた。自分の耳が信じられない。すぐそばにまで下がっていた青の神官もまた、驚きに絶句していた。ユーナの視線を受けて、同じように見返す。瞬きひとつできず、小さく、その頭が横に振られた。
『……まさか……』
PTチャットでの呟きは、ユーナのものでも、アシュアのものでもなかった。フィニア・フィニスもまた目の前の光景を受け入れられず、声を震わせる。
不死王フォルティスが、我が子ソレアードの肩へと手を伸ばす。抱きしめるようにそれは動いた。
「すべてを押しつけてしまったな。本当に、すまなかった……」
「いえ……ご期待に沿えず、申し訳ありませんでした、父上」
親子の再会を間近で見ながら、不死伯爵はふたりの不死王の前に膝をつく。
「お会いしとうございました、殿下」
「ふふ……もう私を『殿下』と呼ぶのは貴殿しかおるまいよ、ヴァルハイト」
父王の腕の中から、笑み崩れながらソレアードは言う。
不死伯爵は、更に頭を下げる。不死王ソレアードの靴へと口づけを落とし、彼は誓う。
「もう二度と、離れません。我が主よ……」
『アイツ……っ』
空色の瞳が怒りを帯びる。フィニア・フィニスが十字弓の照準を不死伯爵に合わせた。
が。
『やめて、フィニ……』
その引き鉄に指を掛けた時、栗色の髪の少女が立ちふさがった。紫水晶の雫が、頬を濡らし――床に落ちる。
『何でだよ!?』
『しょうがないじゃない!』
怒鳴るフィニア・フィニスよりも、更にユーナは大声で怒鳴り返す。
『ずっとずっと、会いたくて、でも、何にもできないって、悔やんでたんだよ! やっと会えたの! 一緒にいたいって思うの、あたりまえじゃない!』
『オマエの従魔だろうが!』
『それしか、別荘から出る方法なかったんだもん! ――しょうがないよぉっ……』
叫ぶ間にも、ぼたぼたと雫が落ちる。ユーナは左手で拭った。革製の手袋は、水分を弾くだけ弾き、ユーナの顔はぐちゃぐちゃになるだけだった。
青の神官は、そのやり取りから視線を逸らした。
PTチャットで今の会話が聞こえているだろう不死伯爵は、既に立ち上がっている。そして、嬉しそうに再度、不死王ソレアードに一礼していた。何の感慨も抱いていない様子に、溜息をつく。高貴なる者の考えることは、本当によくわからない。そんなもの、わかりたくもない。
油断した、と反省した時には、もう遅かった。
高貴なる不死者から、仲間へと視線を巡らせる、と。
「ひ……い……いやあああああああああっっっ!!!!!」
いつのまにか、食屍鬼が剣士や盾士、地狼を組み伏せていた。悲鳴も上げられなかったのだろう。その身体が傷つく様に、青の神官は絶叫する。
命が、流れていく。
ステータス表示を見るまでもない。彼らの瞳に、光はなかった。
前衛の全滅にようやく気付いたふたりは、何もかもが間に合わなかった事実に、ただ、ことばを失っていた。
口の中が渇く。
喉が、ひりひりと痛む。
閉じることすらできない唇は、音もなく否定を叫ぶ。
歪んだままの視界の向こうで、不死伯爵が笑む。
「本当に、感謝している。すべて、貴女のおかげだ」
靴音が響く。
銀糸の外套が翻る。
深紅のまなざしは嘲るように細められ。
その伸ばされた指先は、ユーナの濡れた頬を伝い。
「だから、私の手で、終わりにしよう」
細い頸筋に、巻きつく。
短く、ユーナは息を吐いた。




