まぼろしは現実に
預かった鍵で、重い木製の扉を開ける。聞きなれたドアベルの音が店内に響き渡った。
朝陽が、ブラインドの隙間から射し込む。薄明りの中、染みついた珈琲の匂いが鼻をくすぐった。
荷物は一旦、カウンターに置かせてもらう。
カウンター五席、テーブル十二席を見回す。そこかしこに観葉植物を配置し、家具もまたウッドテイストで揃えられた店内は、いつも通り整えられていた。「来た時よりも美しく」という、マスターとの約束を思い出し、しっかり記憶する。
すると、キッチンのほうに焙煎済みの珈琲豆の小袋が幾つか並んでいるのを見つけた。拓海は貼りつけられたメモを見て、相好を崩す。
「がんばれ」
応援メッセージを受けて、本日は貸切営業、である。
ちょっと、待って……。
今日は地下鉄で行くから、少し早めに出る。
拓海との待ち合わせは地下鉄皇海中央駅東口と聞いていたので、特に不満はない。結名はごくいつも通りのお出かけをイメージして、服も靴もセレクトしてきた。薄いラベンダー色の膝丈スカートに、クリーム色のボートネックである。
が、コレは聞いていない!
「皓くん!」
「ん?」
東改札の外に、彼女がいる。
白のカットソーに濃紺のカーディガンを羽織り、同じく濃紺から薄い青までのグラデーションで作られたチェックのロングのタイトスカートの、女性。足元の水色のパンプスがかわいい。今日はコンタクトなのか、眼鏡は掛けていなかったが、あのお方はまさに。
無表情に紺のカバーに包まれた携帯電話に目を落としていたが、彼女は不意に視線を巡らせた。こちらを見つけて、少しきつめの印象がふんわりと柔らかくなる。
全力で「私はアシュアです」と叫んでいるような柊子の佇まいに、結名は頭がくらくらした。ナニコレわたしをどうするつもりなの!?
声を上げる結名に構わず、とっとと改札を抜けていく皓星を追う。学生証がICカードとしてそのまま使えるのだ。自転車通学の結名にしてみると、慣れていなくて、少しドキドキする瞬間でもある。
「お待たせしました?」
「ううん、今来たとこ。こんにちは、結名ちゃん」
腰ほど長い髪を今日は結わず、まっすぐ下ろしているため、少し頭を傾げるとさらりと肩口から落ちる。その様子にすら頬を赤くしながら、結名は口を開いた。
「こ、こんにちは、柊子さん……」
「えと? あれ?」
思った以上におたおたしている結名の様子に、柊子まで困惑する。皓星は周囲を見回した。それは、すぐに見つかった。絶句して、結名並みに頬を赤くして立ち尽くす小川拓海である。ちょうど柊子の立っていた柱のとなりで彼は待っていた。
皓星の視線の向く先に気付き、柊子は溜息をつく。こいつめ。
「――帰ろうか?」
「すみません、ちょっと調子に乗りました」
普段の低い声音で呟けば、皓星はあっさりと謝った。
「は、はじめまして……姐さん?」
「ふふ、はじめまして」
既にネタ晴らしを受けている柊子にしてみると、レンくんって本当に高校生なんだーという感慨深さがある。幻界と違ってイケメンっぷりが半端ないが。お姉さんと遊ばない?とか言えば本当に犯罪者になれそうだ。この県にも青少年保護育成条例は存在する。淫行条例とも言われるそれに、まともにひっかかる年齢だと気づいて頭がくらくらしそうだった。歳を取ったものだ。
最初、結名と同級生と聞いた時には冗談のように思えたが、二人を並べてみると、確かに、立派な高校生である。ちなみに、皓星を並べても同じく高校生と言われて違和感がないのだが、さすがに本人の前では言わなかった。
恐る恐る口にする拓海に、柊子は笑顔で返す。
黒づくめの皓星に対して、拓海は黒のカットソーの上にライトグレーのメッシュニットを合わせていた。こちらはこちらで眼福だな、と柊子は悦に入る。結名と合わせると立派なダブルデートに見えるだろうか、と考えかけて、視線が遠くなる。自分だけ、いろいろ無理が……。
「黙ってたのは、悪かった」
「ホントだよ! 柊子さん来るなら、わたしもっと可愛い恰好してきたのに!」
「結名ちゃん、すっごく可愛いから! 若さ炸裂してて羨ましいっていうか!」
皓星のことばに、結名が怒り狂う。その発言はその場にいた男性陣との立ち位置を露骨に表現していた上に、柊子の自爆気味なフォローが重なり、拓海は苦笑を洩らすほかなかった。
「まあ、ほら、会いたいって言ってたんだから、いいじゃないか」
「感謝します」
なあ?と問う皓星に、真顔で言う拓海を見て、今度は柊子が苦笑を洩らす番だった。ユーナにしろ、シャンレンにしろ、自分のことを買いかぶりすぎである。
「で、レンくんおススメのお店って、どっちなの?」
「あ、はい、こちらです。行きましょうか」
結名は、拓海の心当たりのお店を皇海センター街のどこかだと想像していた。皇海市中心部の繁華街である。このあたりには様々なセレクトショップだけでなく、喫茶店もたくさんある。あの拓海行きつけともなれば、売買できそうなほどの情報だ。……売らないが。そういう意味でも、多大に結名は期待していた。
「あ、これ、結名ちゃんに似合いそう」
「え、そうですか?」
東改札からすぐの階段を昇り、アーケード街に出る。皓星と拓海が前を歩いて先導するのを世間話をしながらのんびりと追いかけていると、ふと柊子が店頭のマネキンを指さした。首を傾げる結名に、柊子は頷いて隣のハンガーラックに掛かっていた同じ商品を取る。白の膝上丈フレンチスリーブのワンピースに薄いピンクの薔薇のプリントが散っていて、縁取りはすべて白のレースだった。結名の身体に合わせて、彼女はにっこりと笑う。
「うん、似合うー」
「これなら、夏ですね」
「今なら白カーディガン重ねちゃえばよくない? 足元はサンダルかなー」
「柊子さんなら、こっちですか?」
同じハンガーラックにかかっていた、同じ形の薄いライトブルーに白の薔薇のプリントが散るワンピースを手に取る。柊子の表情が強張った。当然、膝上丈である。
「わ、私にはちょっと可愛すぎるかしら……」
「とてもお似合いだと思いますが? 今のカーディガンで、そのまま合わせられますね」
背筋に滝汗を流している柊子に、笑顔で拓海が勧めてくる。後ろが立ち止まっていることに気付いて、戻ってきたようだ。
皓星は結名の手元を見て、柊子に問う。
「サイズ、合うんですか?」
「何気に失礼よね、それ! 合うから! ここのショップ、全部フリーだから!」
「そうですか」
ひょいひょいと二人の持つワンピースを取り上げ、彼は一人、店の奥へ入っていく。
柊子と結名の表情が一瞬消える。ガーリーな店員が飛んできて、皓星の手から商品を奪……受け取っていく。
「ちょっと!」
「この前、昼飯代置いていったでしょう? 仕返しです」
「こっちのほうが高いんだけど!?」
「利息くらい払いますよ」
慌てて止めようとした柊子だったが、よりにもよって相手は皓星である。その切り返しは通じなかった。黒いカードってドラマの中にしかないものだよね?と思いながら、呆気に取られて眺める。
「何でブラックカード持ってるんですか」
「家族カードだから。センチュリオンとか持てないよ」
「え、カードって黒いものじゃないの?」
「普通黒くないからね!?」
素直な疑問を口にした拓海に、ごく普通に答える皓星もすごいが、結名の一般常識レベルがもっと怖い。柊子は正しく注意した。結名の未来の夫は自分に心から感謝するがいい。
端末上でサインして、明細と商品を受け取る。どこから見ていたのか、店員はしっかりと紙袋を二つに分けて持ってきた。袋の口の真ん中を止めるのではなく、ショップテープは紐のほうを止めていて、中が見えるようになっている。青いほうのワンピースを、皓星は柊子に差し出した。
「次が楽しみですね」
「げ……」
会心の笑みを浮かべる彼に、柊子は心底嫌そうに声を上げた。受け取らないので、反対側の手でもう片方の紙袋を結名に差し出す。彼女は、柊子とは真逆に、心底嬉しそうに笑う。
「ありがとう、皓くんっ! 柊子さんとお揃いとかホントしあわせ……わたし、着てきますから!」
「あ、う、うん、えーっと……はい……ありがとう……」
女子高生とお揃いって何の拷問なの。しかも膝上丈。
餌をぶら下げられて追い打ちに協力していることなど露知らず、無邪気に次を強請る結名に、柊子は敗北した。断じて後輩に負けたわけではない。礼を言って受け取る。
「皓くんとウィンドウショッピングすると、早く帰りたくなるらしくてとっとと買っちゃうんですよねー」
「買ってたらウィンドウショッピングじゃないのに……それ、早く聞きたかったわ……」
次の時は結名と二人っきりで会おうと心に決めつつ、柊子は溜息をつく。
すると、拓海が沈んだ彼女の顔を覗き込んできた。そして、笑顔で手を差し出す。
「お持ちしましょうか?」
「軽いからだいじょうぶ!」
――この連中、誰か何とかしてよ!
皓星がいる日常生活に、最近拓海と過ごす時間まで加わった結名には、柊子の嘆きなどわからないのだった……。




