主のために
大規模レイド戦前日ともなると、さすがにクエスト終了間際でも、別荘に向かう旅行者はいないようだった。新規参入者もいるはずだが、このクエストの難易度に足が遠くなってしまうのだろう。
ユーナが初めてこの道を歩いた時、季節は夏に入ろうとしていた。日射しが眩しくて、何のスキルもなくて、ひたすら自分に何ができるのかを考えていた。
今、別荘へ向かう道のりの周囲は広葉樹がその色を変え、葉を散らしつつある。完全に秋に移り変わっていた。
地狼が枯れた葉を踏む。しかし、音はしない。彼にとって大地の全てが、もう己の一部に感じられるのかもしれない。まなざしの中から青は消え、毛並みから緑も消えた。ただ全き黒へと変貌し、新たなる地霊の力を振るう地狼が傍にいることは、ユーナにとってはもう呼吸することと同じように当然になっている。
右手に握ったマルドギールは、エスタトゥーアの手によって遂に強化された。エツィオ山のゴーレムを完全に駆逐してきたのではないかと思われるほど鉱石を取ってきたらしい。エスタトゥーアが精錬に成功した鋼鉄は、メーアの短剣やシリウスの剣を強化してもまだ余り、その恩恵にシャンレンやユーナも預かることができた。重さは変わらず、攻撃力だけが+三まで増している。
大規模レイド戦を想定し、誰もが細心の注意を払い、明日に向けて準備をし、身体を休めている。そんな時に。
「あいつら、間に合うのか?」
「レイドにはね」
先日のユヌヤ強襲戦で、黄色旅行者となったペルソナとセルヴァ。だが、すぐに青色クエストに入るためには、いささかステータスの値がひどすぎた。あの直後に村長宅に駆け込み、まさに平謝りをして青色クエストを受けさせてもらえるように頼んだのだが、まず休めと命じられる始末である。ユヌヤを滅亡から救ったというアシュアと同じPTであることや、その黄色に至る事情を考慮されたクエスト内容になった……という話はユーナも聞いていた。あのふたりは反省するよりも先に、この別荘クエストにも参加を希望していたのだが、まずは青色クエストが先決である。ソルシエールが自主的に見張り役を買って出ていたので、逃げられない。
そして今、剣士と神官が同行し、ユーナは再びこの地を踏んでいた。
今もなお、別荘の壁を這い回る蔦の緑はあのころと変わらず色鮮やかなままだ。この空間だけ時を止めて、彼は……待っている。
「で、何でユーナちゃんは私と目合わせてくれないの?」
「照れてんだろ」
後ろから切なげに問うアシュアの声に、頬が熱くなる。面白くもなさげに、客観的事実をシリウスが述べた。
【何で照れてるの?】
「えーっと……何となく……」
地狼にまで問われて、ユーナは気恥ずかしさに理由をつけられずに答えた。
彼女の正面にまで回り込み、白銀の法杖を肩にかけて、アシュアはにまにまと笑う。
「気にすることないのにー」
「す、すみません」
「ユーナちゃんはどっちでも変わらないわね」
「アシュアも変わらないだろ」
「ちょっと、こっちのほうが女子力高めにしてあるつもりなんだけど」
「理想と現実に差がなくてよかったな」
ふたりの会話は幻界でのいつも通りである。なのに、何故か頭が現実に引きずられそうになり、ユーナはあわててかぶりを振る。そして、気持ちを切り替えるように叫んだ。
「と、とにかく、カードル伯のところまで、よろしくお願いします!」
「今更、丁寧な口調じゃなくったっていいのに。
――で、何か対策、考えてきたの?」
首を傾げる神官の髪が、さらりと肩口で揺れる。ユーナはその青を紫の瞳に映しながら、また頭を横に振った。
「対策っていうか……会ってみるしかないかなって思っています」
「……そうね」
神官は口にしなかった。ただ、ユーナの考えに同意して頷く。
もし、最悪、不死伯爵と事を構えることになったとしても、今のこのメンバーなら倒せる。
腰帯には、エスタトゥーアと自身が錬成した聖属性の術石がたくさん釣ってある。その重さを感じながら、彼女は振り向く。
「行きましょう」
恐らく、これがラストチャンスだと、誰もが理解していた。
星明かりの加護は、闇を柔らかく照らし出していた。
聖属性を付与された武器や地狼も同様の光を放ち、次々と不死者を屠る。かつて脅威に感じた動く甲冑は、地狼がその兜を噛み砕いてしまった。絵画から抜け出てきた死霊、召使スケルトンは、前回通路で見ることがなかったものだ。だが、呆気なくどれも光に還っていく。余りにも手ごたえがない。
「まあ、レベルカンストしてるからな」
以前訪れた時と今で、最も違うのはその点だ。あの当時のシャンレンのレベルよりも、今のユーナのほうが高い。まして、剣士付地狼付である。殆ど一撃で倒していく様子に、アシュアも聖属性付与以外の仕事がない。
「クエスト終了に伴って、ここに来たひとたちの書き込みも見たけど……カードルの印章は殆ど出ないっていう話ね。王都に行けば貴族なんてうじゃうじゃいるから、そのせいでしょうけど」
シリウスを前面に、アシュアを挟んで殿をユーナとアルタクスが務める。狩られずに放置されている別荘である。通路を進む度に不死者に当たるが、じゅうぶん喋る余裕はあった。時折足を止めて、アシュアが聖属性付与を掛け直すくらいである。聖域の出番すらない。一応、戦利品は集めている。
だが、その余裕もここまでだろう。
大きく開かれた食堂の扉を覗くと、そこには彼が待っていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お入り下さい」
礼服の骸骨執事は、あの時と変わらず、丁寧に頭を下げ、ユーナたちに挨拶した。
当然のように前へ出るシリウスの腕を、ユーナが左手で掴んだ。「待って」という願いに、素直に彼は場を譲る。ユーナは道具袋にマルドギールを収めた。話し合いに、武器は要らない。
大きなシャンデリアのところにまで星明かりの加護の光がふんわりと上がっていく。白いテーブルクロスも、長いテーブルも、美しくセッティングされた白い陶器と銀食器も……何も変わらない。
カタカタと、彼のしゃれこうべが音を立てた。
「ご無沙汰いたしております、みなさま。思いもかけず、またお会いできた今日この日に喜びを感じております」
会話が違う。
後ろでアシュアが息を呑んだのがわかった。
ユーナは恐る恐る口を開く。
「――お久しぶりです、アズムさん。おぼえていてくれたんですね」
「忘れておりませんとも。あの水袋は痛かったですよ。まさか、従魔使いになって戻られるとは、思いませんでしたが」
その虚ろな眼窩が、地狼を見つめる。
アズムの名は未だに緑のままである。敵対する意思がないことがわかるのか、地狼は唸らなかった。ただ、ユーナのとなりに立っている。
今回、ユーナは聖属性を付与した水を飲まなかった。アシュアとシリウスは念のために持っているし、既に飲んでいるが、不死者である不死伯爵に毛嫌いされるような準備はしたくなかったからだ。よって、彼らに対しての耐性はない。
「わたし……カードル伯と、お話がしたいんです」
ユーナの発言に、虚ろなはずの眼窩が彼女へと向けられた。そして、カタカタと、骸骨は笑うように揺れる。
「どういうご用件でしょうか? まさか、旦那様をテイムしにきたとでもおっしゃいますか?」
くぐもっているが、低い男性の声音は、先ほどの歓迎から打って変わり、明らかに怒りを帯びていた。ユーナはかぶりを振った。そして、同じ発言を繰り返す。
「いえ、お話がしたいんです」
「ほほぅ。どのようなお話をなさるのか、伺っても?」
ああ、失礼いたしました。どうぞお掛け下さい。
骸骨執事は話を進めるより先に、手を振った。テーブルに備えられた三脚の椅子が動き、手前に引かれる。物理的にも勧められ、ユーナは素直に席についた。シリウスとアシュアは座らず、彼女の後ろに立つ。骸骨執事はテーブルの向こう側に移動し、それに合わせて地狼も動いた。ユーナに何かあればという警戒心がそこから伝わってくるが、彼は指摘しなかった。
カタカタと、また骸骨が音を立てる。
「お客様に席を勧めるのは、本当に久しぶりです」
本心から笑っているようだった。
以前聞いた落ち着いた声音とは違う響きが感じられる。そう、朗らかさ、とでも言うような。
「そして、これが最後になるでしょう」
ユーナは目を瞠った。
骸骨執事から期待を感じるのは、気のせいではない。確かにクエストが進行しているという手応えが、会話の端々にある。
従魔使いだからこそ、つくことができたテーブル。
しかし、「テイム」では話し合いにならない。
自分の不用意な一言で、この話し合いの場は簡単に決裂してしまう予感があった。
慎重に、と思う気持ちが、逆に肩に力を入れる。自分の膝に置いた拳が、微かに震えているのがわかった。
『大丈夫』
そっと、白い手が肩に触れる。PTチャットで呟かれたことばは、ユーナの選択を全て受け入れるという意思表示だった。
『ユーナちゃんが思うように、やってみて』




