地狼
確か、あの部屋は食糧貯蔵庫だった。
次々と沸く魔蟻の向こうを見て、ソルシエールは思い出していた。
おそらく、外部から戻ってきた魔蟻が地震によって異変に気付き、飛び出してきたのだろう。また一匹、投刃で仕留めてソルシエールは短く息を吐いた。次に迫る魔蟻を蹴り飛ばしながら、残りが少ないので、地に落ちた投刃はしっかりと拾い上げる。
「雷の矢!」
続けて、また放つ。この繰り返しだ。
三層からなる魔蟻の巣のうち、最奥は既に無い。第二層をようやく脱出したばかりで、このありさまだ。先に進んだ師匠たちが遭遇しなくてよかったと思う反面、本気で走らないと間に合わない時間が近づき、気が焦る。
魔蟻の酸によって、纏っていたマントもまた穴が開き始めた。アルカロット製の服の着替えはあるが、今は悠長に装備変更している場合でもない。マントは耐久度が〇になってもかまわないので、そのままにしておく。
PTチャット越しには何も聞こえなかったのは、ソルシエールが師の意向を無視したせいで、彼が機嫌を損ねているためだろう。ユーナの声すら聞こえないので、単純に従騎がたいへんなのかもしれない。オープンチャットで文句を言い合っている可能性も見出して、可笑しさが胸に満ちる。
いつのまにか地図上では、既に師匠たちは外に出ていた。こちらも話している場合ではないので、彼らが無事であるならそれでいいと思う。地図が切り替わってしまえば、PTチャットは使えない。
ただ、気がかりなのは、アルタクスの光点だった。
肝心のあの地狼が、何故こちらに向かって駆けてくるのか。
「来なくていいんだけど」
通じているかどうかはさておき、PTチャット越しに呟く。
残り二匹、片付けたら即走ろうと思いながら、雷魔術を飛ばす。もう、地狼の姿が見えてきた。聞こえているのか聞こえないのか。そもそも、主である従魔使いのことば以外、聞く気がないだけかもしれない。
駆け抜けざまに、地狼はその鋭い爪で魔蟻の頭部を砕き、ソルシエールの隣にまで来た。乱れた呼吸のまま、ソルシエールはその目を見る。漆黒のまなざしが、彼女を見返している。迎えに来たと雄弁に告げるそれに、彼女は笑んだ。
「行こ」
正直に言って、ひとりは心細かった。
いざとなれば転移石で出入り口まで行けることは知っていても、あのかよわい師匠ですら使わずに駆け抜けた道のりである。他力だが、本当に嫌ならあのひとは使ったはずだ。攻略組の彼と違って、未だに大銀貨の価値のある希少な戦利品を、無闇に使えるほど自分は裕福なわけでもないし、とソルシエールは内心言い訳をする。
アイテムでクリアできるクエストなんて、面白くないではないか。
ところどころに留まる松明の火を頼りに、ソルシエールは進む。
先ほどの揺れで第二層が消えた。ここから、落盤が激しくなる。時折降ってくる天井にも気をつけなければならない。魔蟻の姿は見ない分、回避に専念することができる。
少しだけ先を行きながら、時折振り返る地狼は、まるで魔女をエスコートしているようだった。主に忠実な従魔の様子に、ソルシエールは少し羨ましくなる。
いつも一緒にいてくれて、支えてくれる存在がいる。それはどれほど心強いのだろう。
紫の瞳が印象的な従魔使いに会ってから、仮面の魔術師は変わった気がする。問えば気のせいだと言われるだろうが、今までは攻略最優先的な動きを取っていて、後ろを振り向くようなことが全くなかったひとだ。「今どこですか?」の返事は、いつだって自分よりもずっと先だった。
何をさておいても、火力と攻略のひと。
その印象が覆ったのは、彼女の面倒を見始めたからだと思う。フィールド・レイドボスの件も、いつもなら青の神官と共に、真っ先に突撃している。それをせずに、クエストクリアに向けて支援を続けているのだから、ひょっとしたら現実の知り合いなのかもしれない。
妹とか?
その思考は即否定される。
彼女は師を「ペルソナさん」と呼ぶ。タメ口をきかない。どちらかというと遠慮がちで、一人で動こうとするほうだ。NPCに対して真面目に会話をして、本気で怒る。この世界が作り物で、自分たちが物語の演者であることを忘れたように。命について叫ぶ彼女を見て、思い出したのだ。
ここにいる自分もまた、自分自身であると。
となりに座るひとを、失ったとしたら、どう思うか。本心から問いかけられた。
そういえば、まだフレンドになってなかった。
あとで、登録してもらおう。
地図が異なると、同じPTでも他のメンバーのステータスは見えなくなる。グレーダウンした二人の表示に、ソルシエールは寂しさを覚えた。
だが、もうすぐだ。
視界に小さな光が見える。夕暮れの色をしたそれは、間違いなく外のものだ。残り時間にも余裕がある。
「あと五分くらい? 何とか間に合いそう……」
最後のひと頑張りと、テンションを上げるべく、アルタクスへ返事のない問いかけをした時。
一際大きな揺れを感じた。立っていられないほどで、地面に座り込む。前方から地狼が彼女に駆け寄った。天井が、崩れる。
その時、地狼の身体の周囲に、緑色の霊術陣が浮かんだ。地属性、と読み取るソルシエールの側面に、地面が隆起し、一枚の壁が立ち上がった。通路を斜めに区切るような壁は、崩れてきた天井を支えているようだった。霊術陣を発動したまま、彼は動かず、ただ、唸った。
震える身体を叱咤し、ソルシエールは前かがみに立つ。その空間から抜け出すと、地狼は霊術陣を消した。同時に、背後の道が完全に閉ざされる。
地狼。
ソルシエールは地霊の力を操る、従魔の力に戦慄した。
自分はひょっとしたら、誤解していたのかもしれない。
仮面の魔術師の中には、初心者を助けるという、ただの善意がそこにあるわけではなく。
レベル五十解放がなければ倒せないと言われている、強大なフィールド・レイドボスを倒すための武器こそが、彼女ではないか。
地狼と、そして、次に望む従魔は不死伯爵である、現時点で最も高い従魔スキルを有する従魔使い。
ただの冗談だと思っていた話の中身が、この力を目の当たりにして、真実味を帯びる。
地狼が、吠えた。
魔女は、己の状況を思い出す。そして、足を動かした。
駆け出した彼女の後ろを、地狼は追い立てるように走る。真後ろから聞こえる足音が、心強い。
だが、すぐにまた、地震が起こった。
地狼は立ち止まり、再び地の霊術陣を発動させる。立て続けに、頭上から入り口まで交互に走った防壁に、ソルシエールは振り返った。
「ちょっと!」
霊術陣を発動させているあいだ、彼は動けない。
ということは、彼だけが逃げられないではないか。
ソルシエールの不満の声を、地狼の咆哮が一蹴する。
行け、と叫ぶ彼に、ソルシエールはかぶりを振った。
「あなたのご主人様が待ってるでしょうが!」
「グルゥゥ……ガゥッ!」
今にも噛み殺すと言わんばかりの迫力に、魔女は気圧される。知らなければ、見た目はただの魔獣である。霊術陣がある以上動けないのはわかっていても、恐怖を感じた。
「ソルー!!!!!」
ユーナの声が、聞こえた。
出入り口の外から、声の限りに叫んでいる。
「いーから早くぅぅぅっ! 走ってぇーーーーーっ!!!!!」
ソルシエールは駆け出した。
やや身を屈めながら、頭上にある守りの地壁に当たらないように、残りの疲労度を赤にする勢いで、全力で。
ユーナの顔が見えた。今にも……もう泣いていたのか、涙の滲んだ紫水晶の瞳、夕暮れにオレンジ色に輝く髪、差し出されたのは、マルドギールを握らないほうの手だった。
走っている勢いをそのままに、引き寄せられて体勢を崩す。彼女の真後ろには紅の術衣が倒れていて、目を剥いた。すぐ隣に身を投げ出す形になる。紅蓮の仮面に覆われた目元、その下に見える頬が夕日の中でも白く見えた。
地響きが聞こえる。魔蟻の巣の終焉を告げる、最後の地震だ。
ソルシエールは身を起こした。そこには、マルドギールを投げ捨て、両手を広げたユーナが立っていた。その手が印を刻む。
「――来たれ我が同胞アルタクス、従魔召喚!」
力ある誓句が、ユーナの両手の中に召喚陣を生む。
その上で光が渦巻き……彼の姿をかたどった。
全身傷だらけ。血を滲ませた地狼は一歩前に出て、己の主の肩に顎を乗せる。気が抜けたように、その目がゆるりと伏せられた。
「おかえり、アルタクス」
夕日に照らされても揺るがない黒の毛並みを抱きしめている、従魔使いを見て。
ソルシエールは再び地に膝をつく。すぐそばには、オレンジ色に染まる紅蓮の髪があり、思わずそっと、手を伸ばした。火傷したりしない。ただ、その指先は柔らかさを感じるだけだった。




