命の価値
マルドギールを放り出し、ユーナはふたりの傍に駆け寄った。
メーアの胴体はほぼ握りつぶされるような形で鉤爪の痕が走り、森狼の背中をメーアの血が濡らしていた。動かせないと判断したアルタクスはその場に座り、首だけをメーアに向けている。
ユーナは道具袋から丸薬を見つけ、メーアの口元に放り込んだ。直後、メーアの体が僅かに発光し、傷口から流れ出していた血は止まっているように見えた。しかし、HPバーは濃い赤から回復しない。今もなお、じわりとその数値は減っている。致命傷だと判断し、ユーナは貴賓席に向けて叫んだ。
「早く、神官の癒しを!」
同じく駆け寄ったエスタトゥーアの手が、意識を失ったメーアの額に伸びる。薄桃色のまなざしは見えず、その髪も乱れ、汗で貼りついていた。彼女もまた道具袋から回復薬を出し、指先で瓶の栓を弾いた。傷口に直接その中身を振り掛けると、その部分だけが燐光を放つ。光は徐々に薄れ、同時に傷が痕となるほどに癒えていく様子に、ユーナは目を瞠った。すると、HPバーの動きが、数値の減りが、止まった。
「命の丸薬では、致命傷は回復しません。原因である怪我をまず癒さなくては」
「致命傷を回復できるんですか!?」
「ボスクラスの戦利品や珍しい薬草をふんだんに使って、ようやく成功したものです。今まで試したことも、使う機会もありませんでしたが――もしもの時の保険にと、手元に残しておいてよかった……」
その場に座り込んだエスタトゥーアの指先はメーアの額から頬へ滑っていく。今もなお、意識を失ったメーアの頬は血の気を失い、真っ白だった。
回復しない。これ以上は、どうにもできない。
ただ、死んでいないだけだ。
それでも、それが何よりの救いだった。
「――何故、やめなかった?」
問いかけは、この場にいる最も高貴なる存在からのものだった。
詰問のように強い口調でもたらされたそれに、ユーナは顔を上げる。
貴賓席から立ち上がり、こちらを見下ろすのは男爵そのひとだ。遠すぎて、その表情まではわからない。それでも、責めるような口調に、ユーナは逆に問い返した。
「何をですか?」
「それまでだと、レインは止めたはずだ。聞こえなかったか?」
「間に合わなさそうでしたので」
現に、あの召喚術師はそう言ったのだ。
降参させて、魔鳥からメーアを下ろさせていては、間に合わない、と。
「何が間に合わないんだ?」
「メーアの命が」
ひとつひとつ、繰り返される質問には苛立ちが込められていた。逆にユーナのほうが苛立ってくる。何故こんな当たり前のことを訊かれなければならないのか。
だが、男爵は、そのユーナの考えとは真逆の意見を持っていた。
「たかが命の神の祝福を受けし者ひとり、死んでもよかろう。すぐに生き返る。むしろ、何故生かした? 死なせたほうが、貴重な薬を使わずに済んだものを……無駄なことを」
あきれかえって続けられたことばに、ユーナは目を瞠った。
鎖を巻き上げる音が聞こえる。二種類の扉が開き、慌てて衛兵と、神官らしき術衣の者が数名、召喚術師へと駆け寄った。しかし、メーアのほうには来ない。
来ない。
召喚術師のほうから意識を引き剥がし、ユーナは貴賓席へと再び視線を向ける。
「あなたは、生き返る命なら、死にそうになったら捨ておいてもいいと考えるんですか」
「当然だ。一度きりしかない、我らの命は取り返しがつかない。そなたたちとは違う」
「――違わない」
躊躇いなく返された答えは、いつか聞いた誰かの答えと、重なった。
ユーナは首を横に振る。
心が、視界が、焼け爛れて、真っ赤になったような気がした。
それでいて、頭の中の芯が……凍えそうなほど、冷たい。
紫のまなざしで男爵を射抜き、ユーナは繰り返した。
「違わないっ!
死にそうなひとがいて、死なせたくなくて、助けたくて……できることなら、助けたい!
それが無駄なことだと、何で言えるんですか!?」
青の神官の気持ちがわかった。
愚かだと、誰もがソルシエールのように嗤ったとしても、彼女は同じことをするのだ。
そこに、命が、あるから。
死にたくないと命を繋ぎ留めている、ひとがいるから。
死なせたくないと思う自分がいるから。
「ただの自己満足だ。
――感傷に過ぎんな。どうせすぐに生き返る」
つまらなさげに、彼は言い捨てた。
「それでも!
死なせたくなんて……死にたくなんて、ないんです!!」
静まり返ったアリーナに、ユーナの叫びが響く。
沈黙の帳が下り、それは、さほど長い時間ではなかった。
男爵の溜息が、わざとらしいほど大きく聞こえた。
「舞姫も、癒せ」
「――御意」
男爵自身の短い命令に、召喚術師を癒しを終えた神官が一礼して、メーアのほうへ駆け寄る。癒しの術で徐々にHPバーが赤から濃いオレンジへと変わっていく様子に、ユーナは泣きそうになった。
メーアが、助かる。
男爵は側近を見た。一つ頷いて、彼は宣言する。
「勝者、命の神の祝福を受けし者――」
――Congratulations on quest clear!! Open the gate of Maart!
視界に、幻界文字が打ち上がる。
闘技場に歓声が響き渡り、勝者と敗者双方を称えた。
騒然とする闘技場で、真っ先に男爵が身を翻す。貴賓席から離れ、専用の階段へと足を向けた。
慌ててユーナはその後ろ姿に叫ぶ。
「ありがとう、ございます――っ!」
舞い散る白い紙吹雪の向こうで、一瞬、その背が止まり……すぐに階下へと消えた。
闘技場の市民門側の裏手には、闘士専用の施療院があった。
未だに意識を回復しないメーアは衛兵に担架で担ぎ上げられ、そちらに運び込まれたのだ。個室まであり、清潔な寝台の上に寝かされた舞姫の頬には、赤みがさしていた。
寝台の端に腰を下ろし、その寝顔を見ながら、エスタトゥーアが口を開く。
「……あなたのおかげです」
寝台の足元からメーアの様子を見ていたユーナは、彼女の白い横顔へと視線を上げた。ゆっくりとエスタトゥーアがユーナへと向く。
「あの時、頭の中が真っ白になりました。まさか、メーアが……死ぬかもしれないなんて、考えたこともなくて。何も、本当に、何もできなかった」
赤い双眸が伏せられ、静かに首を横に振る。握りしめられた白い繊手が、シーツに皺を作った。
ユーナもまた、かぶりを振る。
「わたしもです。命がけだって、いつもわかっているつもりでいて、全然わかってなくって。あの時はただ、助けたかったんです。わたしも……助けてもらったこと、あるので」
ふわりと、森狼の尻尾がユーナの足に触れた。傍にいるよ、とユーナに確認させるかのように、その足元へと伏せる。そのあたたかさに、彼女は口元を緩めた。
「アンファングの討伐クエスト、ですね。アシュアは相変わらず、どこまでも癒し手をしているようで」
ユーナのことばに、エスタトゥーアが「ふふ」と笑い、なつかしげに彼女の名を口にした。ユーナは首を傾げる。「青の神官」はよく知られていても、彼女の名前を知る者はそれほど多いのだろうか? むしろ。
「お知り合いですか?」
「一応は、そうですね。正式オープン以降、連絡を取っていなくて……フレンド登録がまだなので、会えずじまいです。まあ、あの子は目立つので、そのうち会えるでしょう」
ユーナの問いはあっさりと肯定された。とても気長な発言である。
β時代の友人ということだろうか、とユーナは納得する。
「わたし、アシュアさんとはフレンド登録しているので、よろしければお伝えしましょうか?」
「あら、そうなんですか?」
ユーナの提案に、意外そうにエスタトゥーアは目を瞠った。そして、頬に手を当て、少し考える素振りを見せた。彼女の指先が、宙を舞う。
ユーナの目の前に、フレンド要請が現れた。
「確かに、今のアシュアには、わたくしの力が必要かもしれません。ですが、まだすべての札が揃っておりませんので……その時が来たら、お願いしますね」
すぐに、ではなく。
時が来たら。
エスタトゥーアの言は謎めいていて、ユーナには「今はいいよ」ということくらいしかわからなかった。とりあえず、フレンドリストに登録する。
長い白髪が、揺れた。
「今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
「こ、こちらこそ!」
丁寧に頭を下げられて、ユーナもまた一礼を返した。




