最高の薬
――ああ、幻界にも、雨って、降るんだ……
冷たい、と思ったら、すぐにその一滴はシャワーへと変わった。
草木もまばらな荒野に、石畳の道だけが行先を示している。従魔使いの存在が知れ渡った今、街道を行っても問題ないだろうと、森狼には街道沿いを走るように頼んでいた。石畳を走らせなかったのは、さすがにツメや足を痛めないかと心配してのことだ。楽なほうで、という意図は伝わっているのかいないのか、彼はほぼ最短距離を駆け抜けようとしている。
徐々に強くなっていた雨脚が、減速と共に弱くなる。遂に森狼は、足を止めた。くぅん、と鳴く声に、ユーナは首を横に振る。
「いいの、行って」
休息を促されたのだと、何となくわかっていた。それでも、今は休みたくなかった。どうせもう全身濡れているし、雨雲で空はもう暗い。閉門までには何とか、街門をくぐりたかった。
再び、森狼は駆け出す。今までよりも更にスピードを上げて。
時折見かける魔物を綺麗に無視して、ただひたすら、彼は走った。
ユーナはアルタクスの背に揺られながら、目を閉じていた。
ぐっしょりと濡れた毛並みは、抱きしめたところだけあたたかくて……冷えていく体と心を、何も語らずともなぐさめてくれた。
「バカか、君は」
――それは救いだった。
あれ、何だか熱い?と思っていたら、ステータスに「発熱」という状態異常がついていた。
まさかゲームの世界に病気があるとは、想像していなくて、まずそのことに驚いた。
普通、毒とか混乱とか眠りとかじゃないの?とふらふらする頭で街門に入ろうとするユーナの前に、門番二人が槍を交差し、ひとりと一頭の前に立ちふさがった。
通常、街の外で病気になった者は、街の中に病を持ち込ませないためにも、治るまで街門の牢に隔離することになっているそうだ。声も高らかに入牢を申し付ける門番のことばに、ユーナは赤い顔を青ざめさせた。
牢って。
治す気ないよね? 死なせる気だよね?
主に触れさせるものかと戦闘態勢に入りかかる森狼に、慌てて「待って」と告げるのは何とか間に合った。が、即座に四方八方から門番が荒縄を放ち、走り回る。たちまちユーナもアルタクスもぐるぐる巻きにされて、雨の降りしきる街門の前に引き倒された。どうやら、戦闘態勢自体がよくなかったようで、待遇の改善は期待できなさそうだ。何と言っても、森狼が完全に怒っている。ほどいてもらったら被害が甚大になることうけあいである。
雨、止まないなー……。
頬を打つ雨粒も、大きく、激しくなってきている。転がった背中のほうはもう見たくなかった。
ただの熱なら、寝てたら治るかな……。牢だけど。
いよいよ、背筋まで寒くなってきたせいか、ユーナの思考がぼんやりと飛びかかり――それを引き戻した発言がソレだった。
「バカか、君は」
目を開くと、いつのまにか、あれほど頬を打っていた雨が止んでいた。というよりも……防がれていた。何かの魔術だろう。声の方へ顔を向けると、今もなお、空は暗く地面を雨粒が叩いている箇所はあるにも関わらず、彼の周囲にはそれを拒絶する何かが張り巡らされているようで、その紅の術衣は一滴も濡れていないのがわかった。しかも、その足元の石畳は濡れるどころか、乾いている。
「俺の連れだ。放してもらおうか」
仮面の魔術師の低い声に、門番の怯える様子が見えた。
それでもなお、本来の職務を忘れない門番の一人が一歩前に出る。
「たとえご領主様のお客人と言えど、しきたりはしきたり!」
「では、しきたり通りこちらで」
じゃらっ!と手の中で硬貨の音を立てて、派手な赤いベストをまとった交易商は微笑む。
その対応に察した門番は、すぐに縄を手放した。縄を振りほどきながら、森狼はユーナへと駆け寄る。そして、慣れた動作でユーナを自身の背に引き上げた。
従騎スキルは発熱時にも効果を発し、ユーナは何とか落ちることなくその背に身を委ねることができた。
袖の下を門番に渡し、シャンレンは森狼をマールトの中へと促す。彼は主の容態を気にしながらも、ゆっくりと歩き出した。そのとなりに、仮面の魔術師がつく。耳慣れない術式を口ずさみ、彼はそっとユーナの服に触れた。熱風を全身に感じたかと思うと、もうカラリと乾いていた。瞬間ドライヤーである。便利なスキルだなあとぼんやり考えていると、服から離れた指先が、頬へと移る。とても冷たい感触に、ユーナはびくりと身を竦めた。
「熱いな」
「苦いお薬を用意しましょう。覚悟しておいて下さいね……!」
完全に怒っていることが声音からもはっきりわかり、ユーナは森狼の背に顔を伏せる。その体が僅かに揺れて、ユーナはふと、父に背負われた子どものころを思い出した。高熱で病院に駆け込んだ時も、こうやって父が背負って、母が声を掛けてくれていたような……。熱があって休んでいたのに、昼間少し良くなったからとゲームしていたらまた熱が上がって、すごく怒られたことまで記憶がよみがえり、その苦さに溜息を洩らす。
「こっち! もう部屋取ったから早くー!」
遠くにソルシエールの声を聞きながら、ユーナは遂に意識を手放した。
「ふふ、ご主人様が心配なんでしょうけど、ちょっとだけ診せてもらっていい?
ほら、前、助けてたでしょ。おぼえてるわよね? だからほら、信用しなさいよー」
森狼の唸り声と、懐かしいあのひとの、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、少し困っている声が混ざる。急激に訪れた目覚めに、慌てて身を起こそうとして頭がずきんと痛んだ。喉は乾いているし、全身、服も髪も肌もあちこちぱりぱりでひどいありさまである。身じろぎしたユーナに気付き、彼女は声を掛けた。
「あ、起こしちゃった? ごめんねー。いいから寝てて! あ、ちょっとだけ、この狼、大人しくさせてくれると助かる、かも」
重い頭を何とか動かすと、遠慮がちに続ける青の神官の姿が視界に入った。肩口に揃えられた深青の髪を揺らして、片手を拝むように上げている。その前では唸るのをやめた森狼が、こちらへと視線を向けていた。
「アルタクス、大丈夫だから……でも、アシュアさん、何で――?」
森狼が落ち着いたのを見てすぐ、アシュアは寝台に横たわるユーナへと駆け寄り、手を伸ばした。
ひんやりとした、柔らかな手が額に触れる。しかし、ユーナは思わず後ずさった。
わたし、今すっごく汚いーっ!
体中にこびりついた泥がひどい状態で、泣きそうになる。こんなところを見られたくなかった。咄嗟に思いつき、ユーナは左手の指輪に意識を向ける。
「濯げ清らかな水!」
「へっ?」
ユーナの喚び声に応えて、水の霊術陣が広がる。ごっそりと、MPが半分ほど持っていかれ、一気に黄色表示に変わる。
それは部屋全体を覆うほどの大きさまで広がり、ユーナだけでなく、寝台やアシュア、アルタクスをも呑み込んだ。ユーナがマズイと思った時には、既に遅い。ユーナだけでなく、全身を水に覆われたアシュアとアルタクスが、驚愕に目を瞠る。霊術陣が消えるとすぐ、よく知った爽快感がユーナにもたらされたが、同じ感覚を味わっただろうアシュアとアルタクスは、対照的な反応をしていた。
「うわ、何これ気持ちいいー! ユーナちゃん、精霊術なんて使えるようになったの? すっごーい!!!」
「グルゥ」
はしゃぐ彼女に対して、森狼はよろめきながらユーナの寝台へと歩みを進め、ぱたりと身を伏せた。疲れと安堵と爽快感で、力尽きたようだ。
「雨で私もべちょべちょだったんだけど、さっぱりしちゃった♪ ありがとうねー!」
「い、いえ。すみません。範囲おかしかったみたいで……」
結果オーライではあるが、小汚かったアルタクスだけではなく、アシュアにも恩恵があったようだ。サラサラになった髪を手櫛で梳きながら、うれしそうに笑う。
「すっごくMP使っちゃったんじゃないの? 大丈夫?」
「MPは満タンだったので、半分くらいで済みました」
「うわ、燃費悪……寝る前ならいいかもしんないけど……」
恐らく、部屋中が対象になったせいだとは思うが、これでとりあえず、汚さは何とかなった。ユーナは土足のままで寝台に転がっていた事実にも頭を痛めつつ、とりあえずカリガを脱ぐ。シリウスの外套に手を掛けた時、そっとアシュアが手を伸ばして手伝ってくれた。その外套を取り上げるのと引き換えに、水筒を手渡される。ありがたく受け取り、中身を口に含んだ。
身体の表面は精霊術で潤ったものの、中にまでは及ばない。その冷たさが心地よく、ユーナは思いっきり水筒を傾けた。
どこからともなくハンガーを取り出し、アシュアは壁の継ぎ目にそれを引っかけてくれた。そして寝台に戻り、ユーナの傍に腰かける。
水筒から口を離すと、優しい手がそれを引き取っていった。道具袋に仕舞うと、アシュアはユーナの額に再度触れる。
「んー? ちょっとまだ熱いかなー?」
首を傾げ、術衣の後ろのほうへ手を伸ばす。戻ってきた手には、見知らぬ法杖が握られていた。かつて使っていた銀色のものではなく、木製の、頭部に乳白色の宝玉が埋め込まれた杖だった。それを掲げ、彼女は祈る。
「彼の者を満たせ平癒の祈り」
じんわりと、乳白色の宝玉が光を帯びる。手のひらほどの小さな、白の神術陣がゆっくりと描き出された。ユーナの額へとそれは吸い込まれ、微かな光の欠片を零して消える。
頭が重く感じていたのが、少し薄れた気がした。
「これで熱はなくなったはずだけど、まだ体は弱ってるから、今日はおとなしくしてて。
……まあ、ごはん食べて寝てたら、明日には全快してるはずだし、安心してね」
法杖を下ろし、アシュアが微笑む。そのことばに思わず時計を見ると、既に閉門の時間を過ぎていた。これからクエストという時間でもない。
いろいろ考えなければならないことは山積みだったが、とりあえず、ユーナは頭を下げた。
「ありがとうございます。何だかいつもお世話になりっぱなしで……」
「いいのいいの」
ぱたぱたと彼女は手を振った。それより、と続ける。
青いまなざしがユーナを見つめた。
「ユーナちゃんがこんなに早くマールトまで来てて、ホントびっくりしちゃった。えと、うれしくって? ちょっとだけって来ちゃったの。
実は今、ユヌヤで打ち合わせ中のPTほったらかしてるんだけどね」
あっけらかんと告げられた内容に、ユーナは絶句する。
あははははーと呑気にアシュアは笑った。そして、薬瓶をユーナに差し出す。合わせて、彼女の耳元で囁いた。
「これ、レンくんおススメの超苦い薬なんだけど、発熱だけじゃなくって、病気全般に効く病気回復薬だから、こっそり持ってて? 私が神術使ったの、ナイショでね」
白い指先を口元にあて、ナイショを念押しし、ちゃんと苦かったってのたうち回っておいてね?と付け加える。
そして、彼女は立ち上がった。
「ユーナちゃんにね、ホントはいっぱい、お話したいことあるんだけど……」
珍しく歯切れ悪く、アシュアは言い淀んだ。袖のない術衣が、彼女が背を向けるのと同時に綺麗に翻る。
「今は、我慢。
女の子同士の秘密のお話は、また今度にしとくわね?」
そして、足音を殺して、さささっと薄く開かれた扉に向かう。勢いよくアシュアは扉を内側に開いた。そこには、ユーナの食事を木の盆に載せた、交易商が黒い笑みを浮かべて立っていた。
「おや? お気づきでしたか」
「ほんっと、ソレ、何とかしなさいよね」
懐かしいやり取りが、うれしくて。
うれしいのに。
ユーナは笑うのに失敗して……一粒、涙を零した。




