6
その日から、美鈴は零の行動を、それとなく注視するようになった。何気ない日常の中に、零の超人的な秘密のカケラが混じっているかもしれない。
「…ようには見えないわね」
寝転がって漫画を読んでいる零を見て、ため息をつく美鈴。
「ん?なんだ?俺っちの美貌に見とれても、何もやらんぞ。はっはっは」
と、零が漫画に目を向けたスキを狙って、新聞紙を丸めたもので思いきり頭をぶっ叩いてみる。
美鈴の読みが正しければ、かわすか、受けとめるか、はたまた振り向くか。
何らかの常人離れした反応があるはずだった。
しかし。
ポカッッ!!
「……………」
「……………」
叩かれた零は無言。叩いた美鈴も唖然として無言。
重苦しい空気の中で、零がゴロリと寝返りを打った。ジトッと真一文字に細められた目が、美鈴を見つめている。
「…をい。何のマネだ?そりゃ」
「あ、あははは…。ちょっとゴキブリを見つけたから退治しようと思って」
「お前はアホか!!頭にいる時に叩いたら、大惨事になるだろーが!!」
「ま、まあまあ…。麦茶でも飲む?」
「おお、もらおう」
あっさり零は先ほどの仕打ちを忘れて、手渡されたコップを受け取った。
話題を不意に変えると、前の出来事を忘れる。いわゆるトリ頭である。
『やっぱ、考えすぎかしら…。どうみてもケンカが強そうには見えないもんね。』
うまそうに麦茶を飲む零の体は、特にゴツいわけではない。どこにでもいそうな普通の男である。まさか、あの暑苦しい長袖長ズボンの下が、筋肉隆々ということも…。
『いや、待って…。確かあの時に触った腕の感触は、すごく固かったわ。ひょっとしたら鍛えてるとか』
美鈴はおもむろに手を伸ばして、零の右腕を掴んだ。
ぷにぷに…。
美鈴の手に、ふつーの腕の感触が伝わってくる。ほんと、どこにでもいる中年男の腕だ。
「…さっきから何がしたいのじゃ、おま〜は?」
零の目は胡散臭さが全開である。
「え?あ、ああ、ちょっとね〜。エヘヘ」
「それ以上触ったら、セクハラとみなして追い出すぞ。」
「悪かったわよ。代わりに私の胸かお尻を触っていいからさ」
「いるか、アホ!!まったく最近の若いもんは」
零はぶつぶつ文句を言いながら、今度はゲームを始めた。例の青い髪の美少女が出てくるアドベンチャーゲームだ。何とはなしに、それを見ている美鈴。
「どうでもいいが、お前。なんで俺の部屋に入り浸るんだよ。メシ以外は、あっちの部屋にいたほうがのんびりできるだろ」
「ん〜、なんとなく。こっちのほうが落ち着くの」
少し鼻にかかる甘い声で言ってみるも、結果は毎度同じである。
「いや、俺がのんびりできんし、落ち着かんのだわ。邪魔邪魔。」
ぷちっ…。
毎度のことだがこうまでコケにされて黙っている美鈴ではない。
「え〜い、可愛い女の子が一緒にいたいって言ったら、ふつーの男は喜ぶもんでしょーが!!」
「その態度のどこらが可愛いってんだよ…って、どわあっ!!」
馬乗りになって首を絞める美鈴。零はジタバタ暴れながら、ギブギブと何やら叫んでいる。なんか面白い。そして楽しい。学校でもプライベートでも、こんなに楽しい思いはしたことがなかった。物心がついた頃には、既にあの生活が始まっていたから。強制された愛想笑い。そして利害しかない肉体関係。そんな爛れきった生活。
ろくでなしの両親に渡す金をチョロまかすのは簡単だった。それで遊ぶ金には困ったことがない。要は痛し痒しである。肉体関係にしても、最初の苦痛を過ぎれば大したことはなかった。
今となっては、あの生活が本当に自分の望んでいないものだったのか、美鈴には分からない。
「…………」
少し憂鬱な気分に襲われて動きを止めた美鈴は、下から見上げてくる零の瞳を見た。
ドキッッ!!
とたんに跳ね上がる美鈴の心臓。普段は前髪であまり見えなかったが、間近で見る零の瞳は切れ長で凛々しかった(ように見えた)。
馬乗りになっている零の体を、急に異性として意識してしまう。
「……………」
美鈴はどんどん高鳴る胸の鼓動を感じながら、いつになく真剣な零の顔を見つめた。
そして零は上半身を起こして、その右手をそっと美鈴の顔に伸ばしてきた。
思わずビクッと身を震わせると。
「大丈夫、怖くない。じっとしてろ…」
「う、うん…」
美鈴は目を閉じて、綺麗なさくら色の唇を軽く差し出した。
『やだ…。キスなんか何回もしてるのに、こんなに胸がどきどきするの初めて…』
そして美鈴の髪の上に何かが触れた。カサカサとした気ぜわしい動き。
『彼も緊張しているのかしら?』
そんなことを考えながら、その瞬間を待っていると、いつものぶっきらぼうな声が聞こえた。
「おい。もういいぞ」
「え?」
唇への甘美な接触が無かったことに戸惑いながら、美鈴は目を開けた。その目の前に、触角をつままれた黒いつやつやと光る昆虫が、せわしなく足を動かしている。
「いや〜よく肥えてるな、コイツ。よほど俺の部屋は栄養たっぷりなん…」
「んきゃああああああーーっっっ!!」
ドゲシッ!!
「ぶぎゃっ!!」
美鈴は特大の悲鳴と共に零の顔面を蹴りとばし、部屋を飛び出したのであった。…で、その日、美鈴は完全に怒ってしまい。
「あの〜美鈴サマ…。晩のエサを買いに行くお時間なのですが〜」
零が美鈴の部屋を覗いて話しかけても。
「うるさい、でてけっ!!」
と、まったくとりつくシマもなく、ふて寝してしまったのである。
…さて。時は少し遡る。いくら放任主義?とはいえ、娘が家出をして十日も経てば、さすがに美鈴の両親も心配をする。
まあ、もっとも、この二人の場合は、『娘の心配』ではなく、『娘の稼ぎが無くなることへの心配』であるが。
「おい。美鈴のヤツ、いい加減に連れ戻さねえと、今月の家賃払えねえぞ。」
「ったく、アンタがスロットなんかで二十万も負けるからでしょうが」
美鈴の父は、加賀見一機という。三十六歳。茶髪のホスト崩れの男で、十年前から無職である。妻の順子三十五歳とは、高校時代からの腐れ縁だ。
どこにでも転がっている話で、美鈴は二人が十代の時に生まれた子供である。
何の計画もなく、恋愛過程すらすっ飛ばしての快楽行為。その結果、生まれた子供など面倒なだけで、愛着なぞあろうはずもない。世話は祖母に任せきりで、五年間ほど放置していた。
そしてその祖母が病で亡くなり、仕方なしに引き取ることとなったわけだ。
二人にとっては幸いなことに(美鈴にとっては不幸の始まりだが)、娘は贔屓目に見なくとも十分に可愛らしい容姿に成長していた。美鈴の両親は歪んだ性根は別として、容姿だけは整っている。その遺伝だ。
ほどなく、美鈴が邪な金儲けの目的で両親に使われるようになったのは必然だった。もっとも、美鈴が自分の異常な生活に気づいたのは、小学生の時だったが。
「美鈴ね。家にいる時は、いつも裸なんだよ〜」
と無邪気に発言して、同級生と担任が仰天。児童虐待を疑った担任に家庭訪問されるハメになったのだ。
もっともその男性教師は、美鈴の父親に怒鳴り付けられて早々に退散。その後、美鈴は激怒した両親に殴る蹴るの暴行………は受けなかった。娘の体は大事な商品だからだ。
ただ、食事を与えてもらえなかった。そのほうが美鈴にはつらかった。
そして中学二年の時に、初めての客をとらされた。相手は優しそうな普通のおじさん。事が終わった後に、両親に払う金とは別にお小遣いとして高額紙幣を一枚くれた。初めてのその行為は痛かったが、それまでの異常な生活で普通の感覚は麻痺していた為に、特に傷ついた記憶はない。それから、自分の体を資本にした本格的な商売が始まった。
その行為自体はそれほど嫌ではなく、むしろ数をこなすうちに上手くなる。固定客もつき、両親は美鈴が家出するまで、その稼ぎにタカり続けた。
その大事な金づるがいなくなったのだ。
「前の西川って客がいたろ。アホそうな中古車販売の社長」
「それがどうしたのよ」
「あいつが美鈴を見つけたらしい。住所聞いて、お前迎えに行ってこい」
「いやよ、めんどくさい。第一、そこに行く金がないでしょ。」
「三つあるヴィトンのバッグの一つでも質に入れて、金作ってこいや」
「あんたのオメガの時計を売ればいいじゃん!!何個も持ってるくせに」
と、醜い言い争いの末に、互いのブランド品を一つずつ売ることで合意。金づるである娘を取り戻すべく、その街にやって来た。それが、先述のゴキブリ騒動の一時間後のことである。
目的のオンボロアパートに着き、二人はしばし、そのボロさに唖然とした。慰謝料と口止め料をふんだくるつもりだが、これでは大した金は期待できない。
「ねえ、どうすんのよ。」
「決まってんだろ。借金させてでも、金は払わせてやる」
加賀見一機は大きく息を吸い込む。むろん、家主に怒鳴り込む為だ。大概の人間は、これにビビる。恐喝…いや交渉は、最初が肝心なのだ。
ところが。
「おい。そこのチンケな客人二匹」
いきなり背後から聞こえた男の声に、二人は飛び上がった。加賀見一機はおそるおそる振り返り、声の主を確かめると、露骨に安堵した表情を浮かべる。
白い長袖シャツにジーンズ姿の、前髪の長い冴えない中年男だったからだ。
相手が弱そうだと知ると、一機は途端に見下すような目付きになる。
「おいコラ、口の聞き方に気をつけろや、にいちゃん…」
一機は凄みながら、その暑苦しいオタク男を睨み付けるが、男は平然としたものだ。それどころか、つかつかと近づき、二人の顔を無遠慮に眺める。
「ん〜?なんか似てるな。…そうか、お前らが、あの娘のボンクラ親か。」
「ああ!?誰がボンクラだと…」
バゴッッ!!
白シャツの男が、無言で足元にあったコンクリートブロックを踏み砕く。しかも二つ重ねてあるのを、である。
「………」
「………」
二人は凍りついた。
「で、ご用件は?娘さんなら、お昼寝中。ついでに彼女は家に帰る気はないそうですよ。」
丁寧な口調と笑顔が逆に恐ろしい。だが、娘がいなければ贅沢な暮らしができないのも確かだ。力ずくが無理なら搦め手から攻めるまで。
「む、娘を返してくれないなら、誘拐で警察を呼びますよ…」
一機は少し離れた位置で交渉を始めた。いきなり敬語を使うあたりが、小者感全開である。
「呼ばれて困るのはそっちじゃないのか。幼い頃からの児童虐待で。」
「…美鈴があんたに話したの?」
加賀見順子が険しい視線を向ける。こっちの方がまだ戦意を失っていない。やはり女は図太い。
「いや。単なるカマかけだったが、見事にひっかかったな。自分で認めてどうするよ」
男はけらけらと笑った。
「ついでに今の会話は録音しといた。警察に通報するなら、お前らも道連れにしてやるぞん。」
「あのね、あんた。アタシたちは怖い人にもいっぱい知り合いがいるんだ。いくらケンカが強かろうが、暗い夜道には気をつけなよ。」
「ほ〜お。今度は恐喝か。どんどん罪が増えていくな〜。」
まるでこたえた様子もなく鼻をほじっている。
「けどまあ、いちいち片づけるのも面倒だ。しょうがない。ちょっと待ってろ。」
「?」
固まっている二人を置き去りにして、男はアパートに入り、数分後に出てくる。アニメの美少女の描かれた紙袋を抱えて。
「ほれ。お土産やるから、帰ってくれ。そして、二度とここに来るな」
「………」
受けとるとずしりと重い。中を確認して、二人は仰天した。軽く数千万円はありそうな、諭吉札束のオンパレードである。
「それで楽しく遊んで暮らすか。はたまた、阿呆な仲間を連れて俺を狙って、全員仲良く霊柩車に乗るか。まあ、考えるまでもないわな。ついでに領収書はいらんぞ」
これはとどめだった。娘を探しに来たのは、金が目当てである。娘の不確実な稼ぎよりも目先の大金に飛びつくのは当然の心理だ。
こうして美鈴の外道両親はホクホク顔で帰っていったのである。
当の娘が、二階の窓から一部始終を見ていたことも知らずに。




