無興のブラックサーカス団
かつて世界は一度滅び掛けた
……らしい。
らしいと言うのもそれは僕が生まれる40年以上も前の事であり今では歴史の授業で習う他にはたまにニュース番組で見かける程度だ。
曰く、異界から攻めて来たダークジェノサイド……なんたらという組織が世界征服を企て、彼らに対して世界中の軍隊が抵抗しようとしたが現代科学技術を遥かに凌駕する謎パワーを駆使する彼らに全く歯が立たず人々は虐げられたらしい。日々に絶望し明日を生きる希望も見いだせない悪夢の中、そんな人々の願いと愛に応えるように颯爽と現れた正義の味方がいた。
……ぶっちゃけ言えばその正体はヒーローどころかダークなんたらと同じ世界からやって来た全く別の組織だったらしい。しかし幸いにもそっちの彼らは世界征服なんて望まない平和的な人種であり暴虐の限りを尽くすダーク(多分)から世界を救わんと立ち上がり激しい戦闘を何度も繰り返した。
最終的にはダ(略)は壊滅まで追い込まれ悪の首領は正義の必殺技の前に光の中に消えたらしい……これにて物語はハッピーエンド。世界の人々はヒーローの活躍を賞賛し再び平和な時代がやって来た。
……ように思えたが、実際はそうはならない。
第一次世界征服ブームの到来である。
異界の悪人達がもたらした怪人化技術が何かの拍子に他所へと漏れていたらしく、その力を使って我こそが世界の覇者たらんと様々な組織が一斉に活動を開始した。何故世界征服なのかと問われれば理由は組織によって様々で、ある組織は今まで迫害されていた少数民族を集め安全且つ平和な自治権を求めて暴れ回った、ある組織は世に憂いた自称宣教師が前に立ち全人類平和洗脳計画などという無茶な計画を実現させようとした、もっとしょうもない所で言えば世のパンティーその全てを手中に収めんとした変態集団が欲望のままに駆け抜け、世界中の杉という杉を焼き払うことを目的とし花粉症軍団が蜂起したり……正直ブームと言うだけあって本当に色々な組織が存在したので考えるだけで頭が痛くなってくる。
しかし、それだけならまだ『世間様は大変ですね』の一言で済むのだが最も頭を痛くさせる全く別の要因が1つある。
流行化する世界征服ブームに年甲斐もなく『乗っちゃおうぜ!』と張り切ったのが僕の祖父であり、家業であった代々続くサーカス団を悪の組織へと作り変えてしまったのが僕の父であり……何の因果か、その現首領の席に座っているのがこの僕である……いい迷惑というしかない。
話しを戻そう。果たして悪の芽あれば正義現ると言ったのは一体誰だったか。膨大な数の悪の組織が存在しても未だに世界の征服が何故実現されないのかと言えばその対抗策があったからであり、生まれた悪の組織の数の分だけ立ち塞がる正義の味方がどこからか現れた。
「はい、ここテストに出すぞー」
「……」
……そして、その惨々たる結果が僕の目の前の黒板には並んでいた。
黒塗りの大きな板を右上から左下まで埋め尽くさんばかりに書き殴られた過去に存在したヒーロー組織の名がずらりずらりずらりずらり。
普通『ここテスト出ます』なんて決まり文句ここだけ注意して覚えておけよという教師のさりげない優しさアピールのはずが、一体全体このクラスの教師は何を間違えたのか。『ここ』が差す部分は総数百を軽く越え、一問一点形式のテストだとしたらこの問題だけで答案が終了する。
尋常でないその量に教室中からブーイングの嵐が巻き起こるが教卓前に立つ女性教師は雑魚共の泣き声などむしろ心地がいいと言わんばかりに黒い笑みを浮かべている。
社会科担当教諭桃城郁代(34)。
教師という職業柄か非常に出会いが無く、出会ったとしても持って生まれた性格が災いし男運はゼロ。昨日のホームルームまでは新しい彼氏が出来ましたと浮かれに浮かれていたはずがどうしてこうなったのか……きっとニューフェイスな彼にも昨夜の内に振られてしまったに違いないと噂は絶えな――
「アァン!?」
「……」
無心……無心だ。
この桃城教師、時折エスパーかという程勘の冴え渡る時がある。
獲物を狙う猛禽類の眼差しは迷う事なく僕を真っ直ぐに射抜き。口端から覗く白い歯は獣の牙のよう、まさに野生の勘か獣の勘か……絶対に女の勘ではないはずだが、お前の考えている事などお見通しだとでも言うように嗜虐に歪んだ口元が開いていき。
「何か……言いたい事があるみたいだなぁ、なぁこんの――」
「くぅー……すぴー」
「……」
「く……つッ、アイッタァ!」
「……」
今まさに捕食されんとしたその瞬間、救いの声が教室の片隅から上がった。
聞くだけで痛そうな額を机に打ち付ける打撃音、ふやけた悲鳴に桃城教師だけでなく教室中の視線が一斉にそちらへと向く。
「うー、ううぅ、もう、なによーうぅ」
涙ながらに額を抑えているのは同じクラスメイトである黄田であり、桃城教師の矛先は確実に彼女をロックオンしている。
「……おい、黄田」
「え? ひっ!?」
「ずいぶん、たのしそうですねー」
「あ、あああ、ああああ」
寝ぼけ眼で顔を上げたのがいけなかった。黄田の緩んだ大きな瞳に写ったのは獰猛な獣の姿。本能的に全てを悟ったのだろう、誰が何を説明せずとも彼女は勝手に震え出す。
「……うん」
とても助かった。
哀れにも狙われてしまった同じクラスメイトの命は惜しいが、とりあえず自分が助かった事が第一だろう。
舌なめずりをし黄田へとジリジリと迫っていく桃城の後ろ姿に、せめて我が身を賭して時間を稼いでくれた黄田に報いようと黒板の書き写しを始めて行く。
非常に多い、本当に覚えさせる気があるのかという組織の名前、年代も場所も滅茶苦茶な古今東西のヒーロー達、白いチョークで書かれた文字の山には見るだけで目眩すら感じられるがそこはそれ……一応、テストに出るとまで言われたなら書き写さない訳にはいかないのが学生の悲しい性だ。
右手に握る愛用のペンの他に机の中に転がしていた予備のシャーペンを左手で取る。両手に持った筆記用具はそのまま机の上に開いたノートの上に……意味なんてどうでもいいどうせ考えながらは無理だ、目に写る全ての景色を記号と思い込みノートの上で写生を始める。切り離された頭と両手、独立した指先がそれぞれ目の前の黒板を捉えて筆記を続けていく。
……断っておくが僕は怪人手術を受けていない。
両手筆記も特別な何かが必要な技術ではなく単なる慣れと器用さの問題、経験を積みさえすれば誰でも出来るようになる事だが、こと『小手先』の関わる分野に対して僕は特別に強かった。
筆記だけでないお手玉、ダーツ、手品、シャッフル、ペン回し、手芸にパズルにルービックキューブにコイントス……小さい頃からとにかく技術が必要な事は大体得意であるが、それが生活に特別役立った記憶はない。
鏡文字が素早く書けた所でテストの点数は上がらず、玉乗りがうまくても蹴ったボールが必ずゴールを貫く訳じゃない。暇を潰すのにちょっといいなという無駄技術ばかりだったが、それも家系故の血の現れだと思えば悪い気はしなかった。
「ん?」
両手書き写しを進める最中、不意にポケットから振動が走り手を止める。
チラリと確認する桃城教師の動向に未だ意識は黄田へと集中している事を確認し、伸ばす指先はポケットの中に振動の元であるだろう自分の携帯を膝の上まで持ってくる。
液晶画面に写るのは新着メールを意味する手紙のアイコンの点滅と知っている相手の名前。
「……」
無言で画面の上をタップするとメールの内容が表示される。
『お疲れ様ですブラックサーカス長田です。
本日18:00、以前から計画していた化学薬品工場への侵入が決定しました。近隣海への不法投棄の証拠をマネージャーが掴んだそうです。急な事で申し訳ないとは思いますが都合がよろしいようなら早めに返信して頂けると助かります。
追伸:今回の怪人もカニ彦さんだよ、やったー!! 長田』
「……はぁ」
携帯はポケットへと戻し液晶画面は見ず指先の感覚だけで行う操作『了解です』と短い返信文を打つと早めに長田さんに返しておく。
「……」
『また』正義の悪行だ。
最近多い義賊めいた行動にそれ自体を別に悪いと思わないがどうしても気が乗っては来ない。ダークヒーロー、立派な志、社会に貢献、とても結構な事だろうけど、それに対して実感が湧いて来ない。
反対に完全な悪の道も同様だ、好きなように、やりたいようにやる、人に後ろ指を差される。そうするというなら流れに巻かれるだけ、僕にはこれといって果たしたい事が何も無い。
「……違うか」
いや、実際に何もない訳じゃない。やりたい事はおぼろげだけどある。
先程チラリと見た携帯の待ち受け画面。それは最近実家で発掘して来た古い写真の写しに設定してあった。
年代も時間も分からない擦り切れの瞬間。色の強弱しか分からない絵の中は派手なスポットライトの光で溢れていた、煌びやかな明かり、飾り付けられた舞台。
踊るように舞う曲芸師達の頭上で息飲む高さを行き交う空中ブランコ、舞台の隅でおどけて転ぶ背の低い道化、ピシャリと鞭打つ音が聞こえてきそうな猛獣使いの勇ましい姿、大掛かりな種を用意して種も仕掛けもありませんと謳うマジックの一場面、それら全てを劇的な瞬間で捉えた写真の中央でこちらに向かって優雅に一礼をしている人物の姿がある。
黒いタキシードに白い仮面を被った団長……僕の祖父の若い頃の姿だ。
「……」
実際に僕はサーカスというのをこの目で見た事がない。ブラックサーカスなんていうのもただの名前の名残、物心付いた頃には実家のサーカスは既に営業停止の状態で、僕に出来る事といえば伝え聞いた話しで想像を膨らませるだけだった。
何もかもが輝いていただろう写真の瞬間、こんなによかったはずのものを変えてしまった祖父と父の考えが分からない。
『人を笑顔にするのはいいものだぞ』と言っていたはずなのに何故世界征服。『私の手品ショーにいつも観客は湧いていた』誇らしげにそう笑っていたはずなのになんで悪の組織。
ヒーローも、悪役も、偽善も、悪行も……全部下らない。この写真一枚に劣るような褪せた日常。その頂きに僕が座っているというんだからどうしても考えてしまう。
――こんな事でいいのか――
「黄田ァ!」
「はいぃっ!」
「……」
黒板の書き写しを終えた僕の耳に桃城教師の怒鳴り声が飛び込んでくる、というかまだ続けてたのか。
「アンタ随分と舐めてくれるわね、そんなに私の授業は睡眠にいい?」
「い、いやそんな! せんせーゆるしてー」
「アアん!? 許して欲しかったら誠意ってものをねぇ」
「わぁん、そもそも自分が振られたからって私に八つ当たりしないでくださいよー」
「…………ア?」
「あ……」
「教科書読んでおこ」
『黄田ァ!』と大きくガラスを揺さぶる教師の声。黄田の時間稼ぎ能力は全く他の追随を許さないレベルまで完成されているようだった。板書を終えて余ってしまった時間を一応自主勉強に割り当てておく。先の為に勉強はしておいた損はないはずだ。
「先か」
窓から差し込む明るい日差し。遠くに見える海と立ち並ぶ工場群、あの中に今晩忍び込むであろう目的の工場があると思うと憂鬱になり、僕は机の上でペンを転がした。