表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

魔術・神秘・怪異

モドキ

作者: 沼津幸茸

 これをそのまま作品のネタにするのは危ない気がする。と言うのも、これが既存の怪談である以上どうしても剽窃疑惑が付き纏うのを避けられないし、剽窃扱いされないとしても、独創性がないと見做される危険を伴う。また、そういった作家生命に響くものに留まらず、身体生命を脅かしかねない危険もそこには存在する。

 しかし、この情報と着想を臆病だが賢明な忘却の中に葬り去ってしまうのは、賤しくも文人たる身にとって恥辱である上に損失でもある。実際に作品に仕立て上げるか否かはさて措き、この衝撃と衝動を忘れ去ってしまわないうちに書き留めておくことにしたい。

 これは便宜上「モドキ」と勝手に名付けた者達の考察である。

 モドキに纏わるこの怪談はいくつかのパターンに分かれるが、基本設定は概ね同一と言ってよい。人や動物の姿を取りつつもどこか決定的なまでにそれとは違う「何か」が日常の中に隣人や群衆として紛れ込んでいる、というものが骨子となる。この違いは、たとえば心身の障害や畸形、傷病によるあからさまな常人との相違であることはあまりなく――それでも中にはこういったものを「違い」とするパターンもある――どちらかと言えば、その所作や態度に求められる。物の見方や体の動かし方、他者と接する態度などが、何とも形容しがたい微妙な非人間性を観察者に対して仄めかすのである。多くの場合、その違いが具体的に表現されることはない。大抵は「何だかよくわからないが」などの前置きののち、「人間でないものが無理に人間のふりをしているような違和感がある」などと結んでいる。形容しがたいぎこちなさやずれがあると言うのである。何かはわからないが何かがおかしい。つまるところ、この違和感というものは極めて直感的なものなのである。それは兵士が戦場で巧妙に隠された危険に気づき、警察官が人混みから叩けば埃の出る人間を目敏く見つけ出すようなものなのかもしれない。即ち、人間存在が遍く具える本能的危機感や警戒心が警鐘を鳴らすのではないか。

 モドキの正体については、知られざる妖怪、異次元からの来訪者、隠れ潜む宇宙人など様々なものが推測として挙げられているが決定的と言えるものはない。いずれもそれぞれの話の中においてのみ妥当な推測であり、モドキという類型で括られる中での共通した正体は今のところ存在しない。その現れ方にヒントを求めようとしても、いつの間にか室内の周行に混ざっていた知られざる山小屋の五人目のようにさりげなく日常に紛れ潜む者、ジョゼフ・カーウィンがチャールズ・デクスター・ウォードにしたように酷似した外見を利用して他者と入れ替わる者、天邪鬼が瓜子姫にしたように犠牲者を殺してなりすます者、エフレイム・ウェイトがアセナス・ウェイトやエドワード・ピックマン・ダービイに行なったように肉体を永久に奪い取る者、大いなる種族がナサニエル・ウィンゲイト・ピースリーにしたように肉体を一時的に乗っ取る者、取り替え子がそうであるように入れ替わりはするが看破されると正体を現す者、人間モドキのように周囲の人間の言動に合わせて振る舞いを二転三転させる主体性のない者など様々な者がおり、同一の正体を見出すことはできない。語られるものが全く別の種族乃至存在であるか、何か一つが正解でありそれ以外は全て誤認である可能性も否定できないが。

 しかし、これを霊的世界から一歩引いた民俗学的視点から眺めると、大まかな方向性が浮き上がる。根底に存在し、形成の核となるものは、異分子の侵入や隣人の変貌に対する本能的恐怖である。これがたとえば、天目一箇や土蜘蛛がそうであるとされるような実在の事物による連想や誤解等、或いは口裂け女やミミズバーガーのようにいかにもありそうな形に肉付けされた虚構と結びついた結果、モドキの物語が構築される。つまり、モドキ譚とは、民俗学的に見た神話伝承と同様、偏向した観念に基づく抽象化や象徴化を経た現実の様相なのである。古典的なものと趣を異にする語り口から、おそらく古の物語の現代的再話か、全く新しい創作であると言えよう。怪力乱神を語らず常識的にモドキの正体或いは原型を推測すれば、純然たる創作の他、特定人物に対する差別やいじめ、街で見かけた人物に対する生理的嫌悪感、身近な人間に対する違和感、そして統合失調症等の精神疾患による妄想などが考えられる。そして実際のところ、霊的なものは確かに存在するとはいえ、そう云われるものの大半はこのように現世の理屈で説明できてしまう――そしてそうすべき――ものである。

 こうした不可思議なモドキが活躍する話のパターンは今のところまず四種に分かれる。

 第一のものではモドキと思しき者が身近にやってくる。

 第二のものでは街中などでモドキと思しき者に出会う。

 第三のものでは見知った対象がある日突然モドキとなる。

 第四のものでは前三者が複合される。

 この四種は更に、主要人物がモドキに関わっていく場合といかない場合に分かれる。関わっていくというのは文字通りであり、主要人物とモドキが出会い以降ある程度継続して関わる場合であり、関わっていかないというのは単に見かけただけで終わるか、ちょっとした会話を交わしたきり別れて以後関わらないような場合を指す。これで八種類となる。

 次にこの八種類は、何らかの被害をもたらす場合と、単なる不気味な出来事で終わる場合と、実害のない形で出来事が尾を引く場合に分かれる。ここで注目すべきはこの怪談にいわゆるハッピーエンドが存在しない点である。このことはやや示唆的に感じる。ともあれ、これで二十四種類となる。

 そしてこの二十四種類は最後に、報告者の実体験乃至観察の形を取るか、伝聞乃至創作の形を取るかに分かれる。つまり、最終的に四十八のパターンに分かれるのである。

 四十八パターン全てをここで論じることはしない。蒐集した話は「モドキのまとめ」の名前で保存してあるため、ここで再度列挙する必要はない。ここでは試みに二つの対照的なパターンを取り上げておくに留める。


 最初に取り上げるパターンは一‐一‐一‐一とする。即ち、モドキが身近に現れ、主要人物がそれと関わり、不幸な結末を迎え、報告者はそれを体験したか観察していたパターンである。

 このパターンでは、報告者が小学生時代に見聞きした話が該当する。概要は以下の通りである。


 ある日、報告者のクラスに転入生がやってきたが、転入生にはどこか普通の人間と違うところがあった。教師を含めた誰もがそれを感じていたが、誰一人として具体的に説明することができなかった。

 異質な来訪者の常として転入生は報告者達の中に馴染めず避けられ、クラスの雰囲気は見る見る悪化していった。するうち、転入生に対するいじめが始まった。いじめの中心人物は報告者の友人であり、友人の音頭の下、子供達は転入生を「宇宙人」と呼んで攻撃した。報告者は転入生を薄気味悪く思いながらも一歩引いた立場で状況を傍観していた。

 しかし、しばらく経った頃、状況が急に変わった。突然、友人が家に引き籠もって出てこなくなってしまったのである。こうしてリーダーを失ったいじめは終息したのだが、クラスの雰囲気が良くなることはなかった。相変わらず転入生が薄気味悪いままであったこととは別に、かつていじめの先頭に立っていた友人がそれ以降一度も家の外に姿を見せることがなかったからである。

 報告者は友人の家に様子を見に行ったが、施錠した部屋に閉じ籠もった友人は病的な怯えに震える声で転入生を「本物の宇宙人」と呼び、関わらないよう扉越しに警告するばかりであった。訝しんだ報告者が詳細を訊ねても、友人は秘密にしないと何をされるかわからないと怯えるだけで何も語ろうとはしなかった。これ以後現在に至るまで、報告者は友人と一度も直接対面していない。また、転入生はほどなくして転校してしまい、以後の消息は不明である。


 以上は極めて暗示的な物語である。報告者は徹底して傍観者であり、行動を起こすのも何らかの被害に遭うのも他者であるため、事実は不明であり、ただ推測する他ない。それでいて内容は誘導的であり、素直に解釈すると結論は一つに絞られる。攻撃の先頭に立っていた友人は転入生から恐るべき攻撃乃至警告を受けてしまったのである。

 しかし、モドキに攻撃を仕掛けた結果反撃されるというパターンの話として、これは比較的穏当な方である。中には攻撃者がモドキの仲間にされてしまったり、消息を絶ったりするものもある。報告者以外の誰もモドキや被害者のことを記憶していない場合もある。なお、モドキの仲間にされてしまうものは、身近にモドキが現れるものと身近な人物がモドキになるものの複合型である。


 続いてはこのパターン一‐一‐一‐一と対照的と言える二‐二‐二‐二、即ち、街中などでモドキと出会うが、さして関わることもなく、その場限りの不気味な現象で終わり、報告者の実体験ではなく伝聞乃至創作であるパターンについて述べる。

 人間社会には人間でないものが紛れ込んでいる、といった風な書き出しから始まるこれは以下のようなものである。


 ある日、ある学生が帰宅途中の夜道で不気味な人影に遭遇した。外見は平凡な会社員風なのだが、学生はどうも普通の人間とは異質な印象を受けた。何か人でない者が苦労して人を装っているような雰囲気があったのである。その違和感を具体的に説明することはできないものの、趣味の集まりの中で見栄を張って上級者を装う初心者のように、一目見てはっきりとわかるだけのおかしさや場違いさがそこにはあった。

 しかし、学生は不気味な会社員に声をかけるようなことはしなかった。何か声をかけてはいけないような気がしたからである。結局、不審に思いながらも、特に何か自分から働きかけるようなこともせず黙って通り過ぎた。これ以降、学生がこの会社員を見かけることはなかった。


 怪異の存在を前提として訳知り顔で始められたこの物語は、この学生が会社員と関わり合いにならずに済んだことを幸運であるかのように評し、もし関わり合いになっていたならばどうなっていたか、という疑問を提示して結びとしている。具体的な事例は何一つ提示されず、もっともらしい仄めかしと、こじつけじみた見解があるのみである。これは人外の者との安易な接触は不幸をもたらすといった教訓譚の流れを汲む古典的構造を持つ反面、教訓を有効なものにする具体性や明快性を欠く。敢えて説得力のない「実例」を提示するところに逆説的な信憑性を見て取ることもできるが、これは所詮、良く言って明確な結論を用意しておきながら――読者が「真実」に辿り着ける程度には情報を明かしつつ――仄めかすだけに留めるエリファス・レヴィやラヴクラフトなどが得意とする手法であり、率直に言えば詐欺師や詭弁家が自説を受け容れるよう聴衆を誘導する手口に過ぎない。


 ここに引いた事例はどちらも常識的な解釈が可能である。第一のものは単なるいじめ被害者による加害者への警告や報復であり、第二のものに至っては単なる妄想でしかない。仮に何らかの霊的存在が関わるとしても、それは狐狸や亡霊の類を現代的かつ空想的な視点で解釈したものであろう。

 俺はつい最近までそのように考えていた。それが――超自然の要素を考慮に入れることが常識的かどうかはともあれ――常識的な捉え方というものである。

 だが、俺は今日の昼過ぎ、この認識を大きく揺るがされた。今日の昼過ぎ、銀行からの帰り道でのこと、浮橋交差点のガソリンスタンド前で、語られるモドキの性質にこれ以上ないほどに合致するものと擦れ違ったのである。

 あれはどこかの高校の制服――どこのものかは不明――を着た少年の姿をしていたが、その佇まいには、関わってはならないと直感が警告するほどの、妙に心をざわつかせる強烈な違和感があった。「何だかよくわからないが、人間でないものが無理に人間のふりをしているような違和感がある」。まさにそうと表現する他ないものを感じさせられた。こうして後から振り返ってみれば、あれは明らかに狐狸や亡霊の類とは一線を画する存在感を放っていた。まさに「人間でないもの」としか評しようのない存在であった。

 その時は本能的恐怖を呼び覚まされたような心持ちになっていたため、なるべく相手を視界に入れないように、またこちらもなるべく相手の意識に入らないように気をつけ、とにかくその場を離れることしか考えられなかった。もし傍で俺のことを見ていた者がいたならば、きっと思わず通報を考えてしまうほど挙動不審に見えたことであろう。それほどの精神状態であったから、その時点ではモドキのことなど思い出しもしなかったし、その違和感の厳密な正体を考察しようなどとはその思考自体が存在しなかった。ただただ、強烈な違和感を意識するのみであった。

 だが、彼我の距離が開くにつれて段々と冷静になって思考力も働き出し、安全と思われるだけの距離を稼いだ頃には、あれは一体何であったのか、と考え始めるようになっていた。

 そうして考える中で思い出したものが、この覚書で初めて便宜的に命名した「モドキ」である。モドキ――多様な形で語られる同様の違和感の持ち主――とはまさにあの少年のような存在を指すのではないか。そう思い至ったのである。

 前述した通り、俺はモドキを狐狸や亡霊の現代的再解釈であるとばかり思っていた。しかし、少年が纏っていた違和感の正体に思いを巡らせれば巡らせるほどに、狐狸や亡霊が放つ違和感とは全く異質であることに気がつかずにいられなかった。人を装って人になりきれない狐狸や亡霊は、それでもどこか人間味と言うか、人間と共通の価値基準のようなものと言うか、精神的な領域において人間と共有しうる何かを持つ。対して、俺が見かけた少年にその何かはなかった。知性や理性らしきものは感じられたように思うが、そこに俺達人間と共有可能な精神的何かを欠片でも見出せた記憶はない。連中は俺達の言語を解しうるし、その意味するところさえ教えてやれば仕草や表情、声音などから言外の主張や感情を読み取ることさえも可能であろう。しかし、俺達が言うことや書くことを本当の意味で理解することはあるまい。俺達の文化を楽しむこともできまい。芸術も楽しめないであろうし、美食をうまいと思うこともなかろう。こういう意味では、モドキの正体を異次元からの来訪者とする系統には一面の真理があるように思える。少なくとも精神的には別次元の存在と言ってよかろう。喩えるならば連中は人と同等以上の知性を得たバクテリアやプランクトンのようなものである。意思の疎通はできても理解し合うことはできない。

 俺はモドキが恐ろしくて堪らない。モドキと関わって幸せになる話を見たことがないからというのも理由としては大きいが、そういったこととはある意味では無関係に、人間との間に存在する断絶がただただ脅威として実感されたのである。

 普通、人は蟻を視界の中に入れはしても見はしない。蟻が死に瀕していようが活発に走り回っていようが――そして踏み下ろす靴の下に入り込もうが――気にも留めない。そして興味を示すことがあったとしても、そこに親愛や慈愛が入ることはまずない。自身の都合のために、躊躇はおろか罪悪感さえも持たず、虐げるとか傷つけるとかの意識もなしに、ただ思う通りに扱う。逆に蟻もまた然りであろう。人を人と意識しているかどうかも怪しく、その内面はただあやふやな知識から想像する他ない。

 人と蟻の関係性が実際の力関係に即していないとするならば、日本人とソマリア人の関係でもよい。どちらも遠く離れた場所に住む相手のことなど気にも留めないし――そもそも知ってすらいないかもしれない――対面したところで相互理解は不可能であろう。紛争地帯の住人と安全地帯の住人は、どちらかがどちらかであることをやめない限り、意思の疎通はできても互いの理解は叶わない。

 理解を超越しているが、それでいてこちらに好意的でないことだけはわかってしまう。俺にとってモドキはそういう相手であり、だからこそ関わり合いになることが恐ろしい。奴は俺には理解も許容も不可能な理屈の下、何の感慨もなく俺を破壊するであろう。


 さて、ここでもう一度冒頭部を振り返ってみる。俺は、この題材を作品に用いるのは危ないが、葬り去るのはもったいないと書いた。

 事実その通りである。こういう性質の相手だから、作品に用いるのは危険であると言わざるを得ない。モドキ譚でモドキに深入りしてしまった者達と同じ運命を辿る破目になりかねない。その一方で、どれだけ俺の身に危険が及びかねないとしても、所詮それは不確定な話であり、俺の妄想に過ぎない可能性もある。その程度のことで新しい題材を投げ捨てるのはいかがなものかとも思う。俺は文人としてこの題材を惜しむ。この体験を実在すら怪しい危険を避けるために忘れ去るなど許容しがたい。

 そこで俺はこの記録をしたためることにした。

 もしこれを読む者がいれば既に気づいていると思うが、この文書は純粋な記録や報告としては極めて拙劣なものである。回りくどく、わかりづらく、独り善がり、と三拍子揃っている。

 全てわざとしたことである。これは記録或いは覚書或いは報告であるとともに、俺自身を主人公に擬した怪奇小説でもある。

 このような構成を取ることにしたのは、万が一俺の身に何かが起こったときに備えてのことである。もしモドキを目撃し、気づくこと自体が引き鉄となるのであれば、或いはそれについて何かを書き記したところで引き鉄が引かれるのであれば、記録を残そうとする俺は既に手遅れの可能性がある。その場合は、或いは俺の身に取り返しのつかない何かが起こった後にこの文書が遺されることにもなろう。そのとき、最後に遺す文書が作品でなく無味乾燥とした覚書であるというのは、小説家としていささか悔しい。それは学者や評論家の死にざまではあるかもしれないが、芸術家の死にざまではない。だからこそ、覚書とも作品とも判然としないこのような形式を取ることにした。これならば、出来の良し悪しはともあれ――叶うならばきちんとした作品として書き直したい――最低限の面目を施すことができる。

 読了に感謝する。

 願わくば、俺の死後、これが遺書や遺作としてではなく、膨大な覚書群の一部として読まれんことを。また、俺が俺として社会的にも実質的にも人生を全うせんことを。


 午前二時半、緊急事態発生につき追記。万が一に備えて行動を記録しておく。

 奴が来た。

 友人達の誰になるかはわからないが、このノートの発見者に要請する。詳しい経緯はこの辺りのページを読めばおおよそわかると思うので省く。俺の身におかしなことが起こった場合、然るべき処置を執ってもらいたい。可能ならば俺を助けてほしいが、もし無理のようならば、せめて俺をどうにかしてしまった奴を確実に殲滅してほしい。

 行動と経緯の要約。午前二時少し前、何気なく眺めた窓の外に、モドキが我が家に向かって歩いてくるのを発見した。俺が公開を視野に入れた覚書を作成したのを霊的な感応によって察知し、口封じにやってきたのかもしれない。

 普段ならば無視するところだが、今回ばかりは不安が勝り、手を打つことにした。隠身術を試みたのち、まずは長月典太郎に救援を求めた。

 しかし、携帯電話は電源が切れており、固定電話も連絡がつかなかった。作業か仕事の最中か。単なる就寝というのは考えにくいが、居留守の線は考えられる。居留守であれば助力は絶望的であろう。

 仕方がないので長月は諦め、葛原明秀に連絡を取った。だが、こちらも現在地は東京であり、外せない用事があるとのことであった。終わり次第折り返し連絡してくれると言っていたが、完了は早くとも六時過ぎになる見込みらしい。ただし、葛原家に連絡を入れて、俺が一声かければ誰かが駆けつけるようにしておくと言ってくれた。電話を終えた数分後、葛原家から連絡があり、秀輝と住み込みの弟子を待機させていると伝えられた。

 連絡を終えて少し経ってから、モドキによって何らかの形でノートを破棄される危険に遅まきながら気づいた。そこでモドキに関する考察と経緯を要約したものをメールで葛原に送付しておいた。

 状況の整理と今後の展望。いざと言うときの来援を期待しつつ長期戦を覚悟する。既に展開し終えた納骨所及び屍衣の隠身術や結界に頼って最後まで粘るつもりだが、来援到着前に防御を突破されるようなことがあれば、差し当たりホルス敬礼と五芒星による追儺、必要ならば薔薇十字術式を試みて俺自身が迎撃に当たるも止む無し。衝突が起こった場合は早期の救援到着を祈る他ない。


 午前三時七分追記。

 奴が家の近所をうろついている。俺を捜しているのかもしれない。隠身術がきちんと効果を発していることを祈る。


 午前三時半追記。

 まだいる。


 午前三時四十分追記。

 奴が通り過ぎた。だがまだ安心はできない。しばらく様子を見ることにする。こういう場合、危機が去ったと早合点して警戒を解くのが最も危ない。


 午前四時追記。

 完全にいなくなった模様。念のため日が昇るまでは不寝番を続けるが、おそらく当面の危機は去ったと思われる。或いは俺が神経過敏になっていただけで、そもそもモドキなど存在しなかったか、狙われているなど単なる被害妄想に過ぎなかったのかもしれない。

 もう少し様子を見てからではあるが、葛原や葛原家に、夜遅くに迷惑をかけてしまったことを電話で詫びておくことにする。長月には不要であろう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ