第09話 神(エリ)杯(クシール) 前篇★
バダンテール歴1260年12月14日。
メルネス・アクス最高司令官にとって、事態の収拾を図るのは極めて容易であった。
彼の元には膨大な戦力と優秀な指揮官たちが揃っており、名門貴族にして最高司令官であるメルネスにはそれらを意のままに動かせる権力が備わっていた。
まず侯女ディアナ・アクスによる錬金術学校の正面門と裏門の封鎖、そして救援要請の信号弾打ち上げと突入作戦が開始された。
その後、続々と駆け付けた各騎士団が指揮官に従って鎮圧に加わり、冒険者と騎士団の混成部隊はその場にいた全ての吸血鬼と食人鬼を武力鎮圧し、食人鬼に襲われていた生徒達を救出していった。
発生原因は比較的早く判明した。
吸血鬼化した生徒のうち、かなりの血を吸って精神状態が安定したと思われる複数の吸血鬼の生徒が投降し、自身がその状態に至った理由を説明した。曰く、ドリー・オードランに噛みつかれて異常な状態へ陥ったのだと。
件の人物は行方をくらましており、真偽のほどは不明であった。だが情報収集の傍ら、ロラン・エグバードとレナエル・バランドが相次いで証言を行う。
ロランは竜核140個をドリーに依頼されて集め、レナエルはそれを仲介したと侯女ディアナに話した。加えてレナエルは、吸血鬼と食人鬼がおそらくは加護欠乏症を患っており、その治療法があるとまで付けくわえた。
ディアナの報告を受けたメルネスは、ドリー・オードランという娘がミネース男爵の外孫で、メルネス自身が特待生に推薦した人物である事を覚えていた。そして資金の出処もである。
錬金術学校の寮にあるドリー・オードランの部屋が学校長や錬金術師バランド、そしてレナエル立ち合いの元に直ちに捜索され、関連する書物や実験道具からレナエルの説明した現象が原因である可能性が現状では最も高いと判断された。
協力的な環境が事態を好転させ、各種の対策を取り易くさせた。
そして事件発生から3日目の本日、2度目の対策会議が行われた。
「ユニース、被害状況を報告してくれるかい」
「被害は種類別に報告します。現在までに吸血鬼と確認された者6名、食人鬼と確認された者102名。内訳は吸血鬼が生徒6名、食人鬼が生徒86名、教師2名、兵士8名、冒険者6名です。その被害者で現在までの死者は4名、重傷者52名、行方不明5名」
「死者の内訳は?」
「生徒4名です。喉元を噛み切られていて、私の蘇生魔法が及びませんでした」
メルネスは事件の規模に対して死者の数が少ない事に安堵した。4人ならば事故で済み、それなりの補償を行う事でスマートに解決を図れるだろう。
だが、吸血鬼と食人鬼を元に戻せなければ犠牲者は二桁増える。そして重傷者の予後も気になる。
「重傷者が死者に変わらないように手を尽くしてくれ。後遺症対策は救命の次。吸血鬼と食人鬼の治療に付いても頼むよ」
「ええ」
専門分野は専門家に任せる方が良い。
メルネスは治癒に関してはユニースに一任し、続いて軍事行動の確認を取った。
「バルフォア少将、現在の状況を報告してくれるかい」
「はっ。ブルック准将、ケルナー准将はそれぞれ騎士団を伴って都市アレオン、ルクトラガに到着し、現地の軍務省と兵とを指揮下に置いて徹底的な臨検体制を取っております。また、各地へも臨検態勢の構築を命じております。都市アクスにおいては小官の2個騎士団がアルテナ神殿の防衛、吸血鬼・食人鬼の監禁を行う一方、カーライル准将が1個騎士団と兵士隊による捜索隊を組織して逃げた吸血鬼たちの行方を追っております」
★地図(都市アクス周辺)
メルネスの手元には、騎士団を指導するべく国内外から招聘した祝福50台の将軍達が揃っていた。
彼らは膨大な実戦経験と指揮官としての実績を積んでおり、メルネスが細かい指示を出さずとも任せておけば必要な判断と行動を取ってくれる有能な指揮官たちだった。
「よし、任せるよ。手が足りなければ冒険者を雇って指揮下に加えてくれ。それと、全ての費用を追認するから軍事費から自由に出してくれ」
「了解しました」
イルクナー宰相代理が各都市に作った政務担当の12部門も、各々の分野において都市アクスの被害を最小にすべく動き出している。
メルネスはそれらを専門家たちに任せ、自分にしか出来ない事を行った。
「僕の名でミネース男爵を召喚しろ。それと王都に3隊目の早馬隊を出せ」
Ep06-09
屋外の壁を一足跳びで駆けあがる吸血鬼を、ロランは身体能力で無理やり追いかけた。敵は大祝福を越えた力を有しており、それに加えて素体が大祝福を得た騎士副隊長であった。
ドリー・オードランの知識と力の使い方が、わずかな間に飛躍的に上がっている。
「おおおっ!」
ロランは騎士隊長に成れる祝福数と新式騎士装備に勝る高性能な装備とを用いて、吸血鬼を正面に捕らえて全力で飛び込んだ。
吸血鬼は上段から剣を振り下ろし、ロランはその雑な振り下ろしを避けながら下から剣を突き上げて吸血鬼の左腕を突き刺した。
吸血鬼は呻き声を上げながら剣を振ろうとするが、その剣を追いついたディアナが容易く弾き飛ばす。
そこに傭兵達が殺到し、吸血鬼は数秒の内に建物の上で捕縛され、地面へと引き摺り下ろされていった。
「はぁ……はぁ……」
全力で追いかけたロランが呼吸を整える。輝石の併用は3つが限界とされているが、ロランは高価な輝石を限界の3つまで併用していた。
速度、速度、速度。
技量の低さを補うには、力でも守りでもなく自分の遅い反応速度をカバーする速度が必要だった。その無茶な事をした反動が身体に出て、ロランは荒い呼吸を吐いている。
「後悔しているのかい」
ディアナがロランにそう呼び掛けた。
もちろんロランは後悔していた。ロランがドリーに宝珠核を提供しなければ、ドリーはここまで強大な力を持ち合わせなかっただろう。
「ドリー・オードランには金と技術を得られる環境があった。君が個人依頼を受けなくても、他の誰かが依頼を受けていただろう。君は違法行為をしていないし、事実を隠さずすぐに私に報告した。領主である父は君の行動を問わない。これ以上気にするな」
「とても後悔せずにはいられない」
ロランはそう呟いた。
心には迷いがある。法的な責任が無いとしても、力の使い方を身に付けないままに手を貸してしまった結果招いた被害はあまりにも甚大だった。
「かつて、偉大なるバダンテールは人々にこう告げた。『私は数多の道を示したが、正しい道なるものは示していない。望ましい道とは、皆がそれぞれに悩み見出すものである』と」
「どういう意味?」
「悩みながら歩んで行けという意味さ。それよりも、捜索を再開しよう。私たちはドリーさえ捕まえてしまえば良い」
「そうだけど」
「捕まえなければ被害が増える。立ち止まっても心が晴れないなら、事態の解決に尽力した方が良いよ。そうすれば後に振り返っても、あの時に全力を尽くしたと思える」
ロランの心は確かに晴れなかったが、見上げた冬空からは暖かい日差しが差し込んでいた。後悔しても仕方がない。ロランは前に進もうと思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
暖かい生命の光が、レナエルの全身に何度も何度も降り注がれた。「熱い」とレナエルは感じた。強い生命力に満ちた光がレナエルの身体を火照らせる。
第五宝珠都市アクスにあるアルテナ神殿。本来神殿の奥には、治癒師祈祷系以外が立ち入る事は出来ない。例外はその神に強い由縁のある者で、アクス領のアルテナ神殿の奥ならばアクスの姓を冠するメルネスら領主家が該当する。
レナエルはもちろんアクス家とは無関係であるが、いくつかの実証を元にメルネスから特別に立ち入りを認められた。
付き添っているのはユニース・カミン治癒師。メルネスの冒険者時代の仲間である。
「荷物を持って頂いてすみません」
「良いのよ。それよりも、アルテナ神殿の最深部で実験をさせるなんて前代未聞よ。これは今回きりで、口外も禁止ね」
「はい、巻き込んでしまって申し訳ありません」
「そっちも仕方がないわ。あたしはメルネスの冒険者時代からの仲間で、それにこの都市アクスのもう一人の神殿長だから」
「ええと、どういう事ですか」
「貴女は今から、二つの神宝珠を見る事になるわ。アクス領には神宝珠が二つあるの」
「それってどういう……」
ユニースは、閉ざされた宝珠の間の扉を静かに開け放った。
「アクス領には、元々第一格の神宝珠があった。そして一昨年、大英雄クリスト・アクスが神となって宝珠を生み出す際、この都市アクスをその地に選んだ。主神が同じ場所に併存するなんて前代未聞なのだけれど、出来てしまったの」
開け放たれた扉の向こう側から、先程までとは比べ物にならないくらいに力強くて膨大な光の洪水が溢れ出て来た。
レナエルがその扉の奥に目を向けると、二つの台座の上に大きさの違う二つの宝珠が輝きながら鎮座していた。
光の洪水はレナエルを押し流すのではなく、その身体を包み込んで暖かい輝きで満たす。ユニースも光を受けて身体を輝かせながら先導するように部屋へと入り、レナエルは彼女に続いて部屋の奥へと立ち入った。
扉がユニースの手によって閉ざされる。まるで暖かさを部屋の中に閉じ込めるかのような行動だった。それでも光は壁を伝わって外へと溢れ出していく。一気に使い切らないようにする為だろうか。
だが、その輝きはアルテナ神殿を飛び出して都市中へと満ちて行くのだろう。
レナエルはユニースにも手伝ってもらって運び込んだ錬金術の器具を床に並べ始めた。普段使っている加熱容器、濃い加護を含有できる調合水、元々国がレナエルの為に集めた0格の転姿停滞の指輪、竜核を掴むピンセット、竜核を砕く為のハンマーなどなど。
かつてアルテナ神殿にその様な物を持ち込んだ者は居ただろうか。少なくとも近隣諸国には居ないだろう。ユニースはそれに思い至り、どうかその行為によって自分の髪が抜け落ちませんようにと祈らずにはいられなかった。
だがレナエルはお構いなしに機材を並べ終え、沢山の容器に次々と調合水を注いで満たし、その中に竜核を沈めて行った。レナエルはドリーをロランに紹介した事を悔いており、またアニーの姿を見ながら逃げざるを得なかった事に強い後悔の念を抱いており、これから為す事に一切の躊躇いを持っていなかった。
但し、レナエルは研究成果を国に渡す事にだけは躊躇いがある。使い方を誤ればドリーが起こしたよりも大変な事が起こってしまうことは目に見えている。
今回、アクス侯を説得するために秘密の一端を明かしてしまった。どうか誤った使い方をしないで欲しいと願わざるを得ない。
レナエルが準備を終えるのを見届け、ユニースは神殿長が月に一度だけ行う神宝珠への祈りの儀式を執り行う事にした。
とは言っても、特別な事を行う訳ではない。ただ単にその治癒師としての力を以って神宝珠の前で願えば良いだけだ。
本来光が届かない暗闇の部屋を、二つの神宝珠は輝き照らしている。ユニースはそのうちの一つ、大きく力強い輝きを放っている方の神宝珠に祈り出した。
レナエルが見守る中、神宝珠が次第に輝きを増し始めた。強い光がレナエルの視界を焼き始め、ついにレナエルは目を閉じた。
だが神宝珠は、力強い輝きと共にレナエルの全身全霊に直接語り掛け始めた。それは言葉による伝達ではなく、魂に刻まれた記憶を相手に直接見せると言う強引な伝達方法だった。
レナエルにここではないどこかの声が響いてくる。
100年、200年、300年……レナエルの身体が、宝珠の記憶に引き込まれていく。バルブ卿、エギレス子爵、ボルヘス侯爵……降り積もる雪の記憶。凍え死ぬ大勢の民。
金髪碧眼に白い肌の、まるで絵に描いたような美しい騎士が立っていた。
ここは過去の都市アクス。かつて第四宝珠都市ボルヘスと呼ばれた、西の3国の一つの旧王都。そのボルヘスで、誰かが何かを嘆いていた。
バダンテール歴919年12月16日。
レナエル・バランドは、いつの間にか341年前の世界に立っていた。
レナエルは聞こえてくる声に静かに耳を傾けた。


























