短編 錬金術師の卵たち
人々は、自分たちが暮らすこの大陸の事ですらろくに分かっていない。
30年前までは、東の天山山脈に広大な古代人の遺跡があることも、そこに獣人の帝国があることも、そのさらに北に竜人の世界があることも知られていなかった。
口伝に寄れば、周辺国の西にはダーリング小国家群の遥か先にも人類圏があり、さらに先へも大陸は続いているという。そちらには別の獣人たちが住んでいる地域もあるらしい。
世界には、周辺国の誰も未だ知らない大陸が無数に広がっている。
未だ知らないと書いて未知。
人々にとって、世界は未知である。
新人冒険者ウィズ・ハルトナーは、知らない事を知らないままで終わらせて良いのだろうかと思う。定命の身で世界の全てを知ることは到底出来ないが、せめて自分が興味を持った事くらいは知りたいと思う。
だからウィズは走った。
右手に魔導師の杖を持ち、左手に採取した素材の入った袋を掴み、両足で都市外の危険な大地を蹴りながら、全力で疾走した。
そんな風を切って駆けるウィズの真後ろから、雄叫びが聞こえてくる。
「うおおおおっ!!」
普段は泰然自若としている剣士のペドラ・マクティカが、今日ばかりは流石に焦りながら全力でウィズを追いかけていた。
ペドラが身に付けている旧式の騎士装備が、彼の動きを鈍化させる。
ベイル王国騎士の旧装備品は、それほど優れた性能ではない。
全てが二級品かそれ以下で、大祝福を超えた冒険者が身の安全のために自前で用意する装備品に比べれば明らかに劣る。要するに、重い割に防御力はそれほどでもない。
だからイルクナー宰相代理は、旧騎士装備約2000セットを新人冒険者への貸し出し品とする一方で、徴兵制を止めて余った兵士装備約6万セットの2/3を北へ順次輸出して稼いだ外貨に、徴兵兵士の維持・運用予算が浮いた分の莫大な軍事予算を加え、騎士の新式装備を大幅に強化した。
騎士の大強化はまだまだ続いており、騎士たちは優先順位順に能力強化の輝石を持たされ、乗馬を更新され、若手は祝福上げの活動を行わされ、外部からは優秀な上官たちが次々と招聘され、王国騎士の強化は既に未知の段階へと突入していた。
剣士のペドラは、どうせなら最新装備の方を貸し出してくれれば良かったのにと思う。そちらなら、絶対にこんな目には遭っていない。
だがペドラは冒険者ではないので、本来は旧式装備ですら身に付けられない。単に新人冒険者のウィズが魔導師だったので、王国がウィズに貸し出した装備をペドラが又借りしただけだ。
ウィズ・ハルトナーの行動は、ハインツにとってすら想定外である。ウィズの未知への探究心は留まる事を知らない。
だが、そんなウィズの未知への探究心が現在の事態を招いていた。
ケヒャケハケヒャッ。
森に住む魔物インプが、二人の後ろを笑いながら追いかけてきた。笑いながらも顔は残忍さと狂気で満ちている。
インプに言葉は通じないが、顔の造りが人間に近い分、表情だけは多少なりとも読み取れる。人が猿の表情を見て怒っているかどうか位は分かるレベルで、人はインプが怒っているかどうか位は分かる。
つまりインプは怒っていた。誰が見ても一目で分かるくらい、すごく怒っていた。
「なぜ、いきなり魔法を撃ち込んだぁああっ!?」
人の行為には作為と不作為がある。
不作為ならば、その意図を相手に問い質しても仕方が無い。
だがウィズの行為は、明らかに作為的だった。
「インプの血、なんとなく染料になりそうな気がして」
「あ・ほ・か!」
ペドラは力強く、1文字ずつハッキリと発語した。
インプは魔物とはいえ人を食さないので、テリトリーに入らず一定の距離を保っていれば襲われる事は滅多に無い。
だが手を出せば、当然その限りではない。
新人冒険者のウィズと冒険者ですらないペドラは、インプが逃げ出すには値しない存在だ。当然インプはこのやろうと追いかけてくる。
「くっ、このままだと錬金術学校の入学前に人生を卒業してしまう」
「それを言うなら、卒業じゃなくて中退かな」
「あ・ほ・が!」
ペドラの罵声が、ついに「あなたはアホですか?」と言う疑問系から「あなたはアホですね!」という確信による断定へと変わった。
例えウィズが錬金術学校の入学試験で84点を取っていて、ペドラがそれより低い76点だったとしても関係ない。ついでに言うと、ウィズが15歳で魔導師系の冒険者で、ペドラが17歳で剣士志望の未祝福でも関係ない。アホはアホである。
ケヒャヒャッハッヒャ。
インプがわずかな距離にまで迫ってきていた。
「こうなったら、奥の手を使うか」
「そんな手があるなら最初に使え、いや、待て、何をする気だ!?」
「魔法を使って攻撃する」
「…………やれ!」
ペドラが許可を出すと、ウィズは左手に持っていた採取した素材の袋をインプに向かって投げ、それに魔法を打ち込んだ。
袋の中には、森で集めた染料の素材が入っている。
『ウォーター』
「レインボーライトスコール!」
ウィズは染料満載の袋に向かって水魔法を打ち込むと同時に、勝手に自分が考えたスキル名を叫んだ。
染色された水が、インプの全身にベットリと降りかかる。
視界を塞がれたインプは、だがそのままペドラへと直進していった。
「ウィズのアホオオオッ」
それはウィズ・ハルトナーの名を世へ知らしめる発明の切っ掛けとなった出来事だった。
馬鹿と天才は紙一重だったりするのだ。
Ep05-36
都市アクスの職人通りに店を構える染物工房『ランスケープ』。
店内に並べられた棚には、見事に染め上げられた色取り取りの布が積まれており、その脇には同じ色の糸も並べられていた。
カウンターに行けは、縫い付けるための様々な種類のボタンなども売られており、そこでは持ち込んだ布の染め直しも受け付けている。
仕入れた原材料の生地と染料を使い、資器材と技術と用いてムラが出ないように、そして美しい色合いになるように見事に染め上げ、大きな付加価値を付けて売る。
だが個人客への販売は、染物工房ランスケープがこの場所に店を構えているという周囲への宣伝に過ぎない。
実は、主たる売り上げは商人や商会からの受注だ。
例えばあなたが特に意識せずに座っている椅子。その椅子には、もしかすると染められた布が張られていないだろうか。
もしそうだとしたら、それは誰が染めたのか。都市アクスならば、当てずっぽうでランスケープと言っておけば何割かは正解だ。ちなみに、高級品ほど正解率が上がる。
この染物工房には弟子も従業員もおり、他の染物工房も元を正せばランスケープで働いていた弟子が独立して店を構えたものだったりする。そのため他所との住み分けも出来ており、工房同士で客を奪い合うこともほとんど無い。
染物工房ランスケープは、原色の布素材を美しい色に染め上げる様々な仕事を担っている。上流階級の家の絨毯だろうと、箱馬車の遮光カーテンだろうと、「染めろ」と言われれば大抵の仕事は引き受けられる。
職人の技法も、染色に必要な資器材も、納品先の開拓も、他の工房との住み分けも、商人や商会との信頼関係も、総じて一代では築けない。
この工房には、第一宝珠都市アクスの染色を支えているという伝統があった。
……一昨年のバダンテール暦1258年までは。
「ちょっと、どうしてうちへの卸値を上げちゃうのっ?」
店の奥に設けられた商談室で、染物工房の7代目となる予定のフィリオ・ランスケープが、取引先の担当者からお叱りを受けていた。
「全ての税金が半分になって、布の仕入れ値も、出店料や地税も、売り上げにかかる税も、全部下がっているでしょ。それに懐が潤った全都市民からの注文も増えて、染物工房ランスケープの純利益は、以前の数倍になっているはずよね?」
相手から改めて教えられるまでも無く、7代目予定のフィリオは店の経営状況をよく理解していた。
なにせフィリオは生まれた瞬間に家業を継ぐことが決まっていたのだ。
フィリオの父は次男だったが、その兄である伯父の家は子供が2人とも女の子だった。そしてフィリオの家にも、最初に長女が生まれた。
1組の夫婦に、子供は二人まで。
ランスケープ家の伝統を受け継ぐ男の子が居ない。
3人の孫娘を見たランスケープ家の5代目であるフィリオの祖父は、もはや孫娘たちのいずれかが、工房の弟子を婿にして後を継がなければならないだろうと考えた。
そこにフィリオが男の子として生まれた結果、周り中から「7代目誕生」と決められ、盛大に祝われ、大人たちからも3人の姉(正確には2人は従姉妹だが)たちからもとても可愛がられた。
例え蜂蜜色の髪をマッシュルームカットにされたり、あるいは従姉妹の2歳年上の妹の方に誘惑されたりしても、それは家族の親愛の表現に過ぎないのだ。
フィリオはそんな周囲の期待を背負って生まれ、15年間も後継ぎとして教育を受けた。だから店のことなら大体分かる。染料に使う植物だって網羅している。
「都市が大きくなって受注が増えたのに。染料の仕入れ元が一つ減ってしまったんだ。中等校のクラスメイトに冒険者になったウィズって奴が居ただろ。あいつ、俺たちと同じく錬金術学校に通うそうだ」
「ウィズって、ウィズ・ハルトナー君だっけ?祝福を得て学校辞めちゃった子」
「そうそう。支援制度で祝福を上げた後、同級生のよしみで仕事を依頼してたんだ」
フィリオは大袈裟に頷いてみせた。
もちろん大嘘だ。
フィリオの同級生だったウィズ・ハルトナーが、染色工房ランスケープの染料の仕入れ元の一つであったことも、彼が錬金術学校に通うので納品を止めることも事実だが、その程度なら冒険者協会に依頼を出して新しい冒険者に採取させれば済む話だ。
たまたま交渉相手が同級生で、しかも新情報が大好きな女だったのでネタを振って引っ掛けてみただけの事である。
「ちなみにウィズも俺と同じ84点。俺は店を継ぐから素材系を詳しく学んでいたけど、あいつは中退してからどこで学んだんだろうな。成績優秀で商品も幅広く知っているタニアですら80点だったのに」
タニア・ジャニー。
この染色工房の跡取り息子フィリオ・ランスケープや、中等校を中退して冒険者支援制度を受けに行ったウィズ・ハルトナーと同級生だった女の子。年齢はもちろん15歳。
彼女はわりと幅広い商売を手がける商家の次女で、フィリオと同じように小さい頃から父に連れられて取引先を回っていた。
宝珠格が跳ね上がって人口が爆発的に増加したアクス領で商売が忙しすぎるため、ランスケープ工房のように馴染みの取引先との交渉を手伝っているのだ。
もちろん新規開拓や重要な取引先相手ならば両親や姉が行う。タニアは単なる実家の手伝いである。
だがタニアも、「仕入れ価格を上げられてしまいました」なんて子供の使いをするほど甘い教育は受けていない。フィリオに誤魔化されそうな流れになって来たので、一気に本題へと戻す。
「脱税。追徴課税」
「ぐっ」
タニアがボソッと呟いた言葉に、フィリオは核心を突かれて思わずうめき声を上げた。
「大変なのは分かるけど、お客さんに自分がズルした負担を押し付けたらダメだよ?」
「……俺じゃないし。そもそも、なんで知っているんだよ」
タニアの情報収集能力は高い。うわさ好きで、おしゃべりが大好きで、情報通で、常日頃から全方向にアンテナをピンと張っている。
但し基本は良い子なので、情報を悪用したりはしない。今回もフィリオが値上げをしなければ何も言わなかっただろう。
フィリオは白旗を上げて契約書の価格を書きなおし、タニアに知った理由を尋ねた。
「うちの商会、フィリオくんの工房からの仕入れ値を調べられたし」
タニアは書き直された二部の契約書にサインをすると印鑑をポンと押し、一部をフィリオに返してからケロッと答えた。
どうやら脱税発覚は、ランスケープ工房とジャニー商会の帳簿が不一致だった事が原因らしい。
「お前かよっ!」
「うちは事実の帳簿を見せただけ。それに冒険者協会への依頼金額、従業員への給与、経費に計上した品の納入価、色々な所から調べられているよ」
「……そうなのか?」
「うん。2回目以降の脱税は罪がどんどん重くなって、逆に脱税の手法を教えると減刑されるみたい」
「えげつないな」
別にフィリオが脱税した訳ではない。伯父と父がやっただけだ。それに多分祖父もやっている。小さな誤魔化しは無い方がおかしい。
もちろん国も、ほんの小さな部分にまで罰金を科したりしない。
いくつかの部分は「帳簿の記入ミスがあるみたいですね。次回からは厳しいので気を付けて下さい」と注意と修正で見逃してくれた、他の所も大概そうらしい。
小さいものを全て摘発すると大半の店が引っかかってしまうのでキリが無い。
ただとても運が悪い事に、ランスケープ工房は今回たまたま無理をしてしまったのだ。
「やりすぎ。なんでそんなに危ない橋を渡ったのかな?」
「仕事が増えて難民を雇ったら、見事に持ち逃げされた」
アクス領の元難民は、およそ20万人だ。
全員名前も年齢も自己申告で、獣人帝国領となっている都市の出身者は身元の照会のしようが無いので主張した者勝ちである。
もうアクス領は定数になっているので、新規難民の受け付けはしていない。だが、それまでは受け付けていた。
例えばAと言う人間が、「私はAです」「私はBです」「私はCです」「私はDです」「私はEです」と5回難民登録に行ったとする。
すると審査はあるが、上手く騙せば都市民権を5つ貰える。
いずれ5人分の都市民税を払わなければならないが、登録から一定期間は都市民税の猶予期間だ。
つまりその間は身分証明書を5つ持つ事が出来て、持ち逃げを4回出来てしまう。
ランスケープ工房はそれで売上金の一部を持ち逃げされてしまった。
第一宝珠都市の時にはやらなかった失態だ。納品先が増え過ぎたので信頼できる者を分散させて、その下に難民を手伝いとして配置した結果である。
その結果、大きな損を出してしまったので脱税で回収しようと図ったわけである。結論から言うと、泣きっ面に蜂であった。
「確かな人を雇えば良いのに。ね、キストくん?」
「いや、俺は三男ですし」
タニアが仕事に同行させた付き人のキスト・サンは、身元だけなら確かだ。
何せジャニー商会の社員の子供である。
但し、夫婦1組に子供は2人までしか許されないのに、同じ夫婦の3人目として生まれてしまった。
だからかつては都市民権を持っておらず、彼の兄の都市民登録証を持たせて都市間販売員の随行や手伝いとして都市を行き来する馬車に乗せて他都市に一定期間ずつ滞在させ、登録証の更新時期だけ元の都市に戻ってくる形を取っていた。
だが、それも限界だった。何せ都市民登録証が無ければ都市に家を買えず、あるいは借りられず、そもそも都市自体に入れない。そんな彼に誰が結婚してくれると言うのか。彼の老後はどうするのか。
祝福を受けた冒険者ならば、宝珠都市を創る可能性があるので名乗り出れば認めてもらえるだろうが、キストにはアルテナの祝福も無かった。
後が無い人生だったが、たまたまベイル王国が都市ブレッヒや都市アクスをはじめとした各都市に余裕が生まれ、都市民登録を受け付けてくれた。
キストはそれでようやくスタートラインに立てた。あとは難民として身を立てないといけない。
さてどうしようかと言う所で錬金術学校に63点の好成績で合格できたので、同じく合格した大恩あるジャニー商会のお嬢様タニアに尽くしつつ、今後の人生をなんとか上手くやっていきたい次第である。
一言で難民と言っても様々な事情の人が居る。
「……雇ったのも俺じゃない」
フィリオは相手の顔すら一度しか見ていない。
伯父に連れられて顔見せのために方方を数十秒ずつ回る新人なんて、一度見たくらいでは到底覚えられない。挨拶だって抑揚を押さえて「よろしくお願いします」くらいだ。特徴なんて全く無かった。
19歳の女と言っていたが、そのくらいの年齢なら、化粧と髪形でいくらでも顔が変えられる。
どうせ偽名だろうし、年齢も本当かどうか確認のしようが無い。その都市民登録証はもう使えないが、かと言って犯人を捕まえるのも不可能だ。
フィリオは諦める事にした。
いつまでも失敗に囚われず、気持ちを切り替えていかなければならない。
錬金術学校に受かったし。それに注文していた植物図鑑も今日辺り届いたはずだ。タニアとの契約が終われば今日のフィリオは自由となる。
「ほら、随意契約完了」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
アクス錬金術学校の仮校舎は、かつて都市防壁の内側に建設されていた兵舎をそのまま転用した。
徴兵制を廃止した結果、空いたのだ。
人口5万人の都市ならば、男性に対する2年間の徴兵で常に1000人ほどの徴兵兵士がいた。そのうち何割かが前線に行って使っていないとしても、そもそも施設としてはそれだけの数を収容できるように建てられている。
つまり、徴兵制の廃止で1000人が収容できる兵舎が空いた。それと同時に付随していた訓練所も、食堂も、会議室などの様々な部屋も全てが空いた。生徒数は1学年200人の予定なので、3学年が集まっても規模としてはまったく問題ない。
後は資器材を設置して、備品を納入して、内装を変えて、錬金術学校の仮校舎完成となる。それで足りない物は、どんどん作り変えて行けば良い。
そして不満点をフィードバックして、いつかは立派な新校舎を建設する事になるだろう。もっとも初年度の新入生の大半は、新校舎に足を踏み入れる事はないだろうが。
そんな錬金術学校から大通りを挟んだ反対側の区画に、1軒の本屋があった。
立地としては、第一宝珠時代の都市防壁のすぐ近くという事になる。
本屋を出店するなら、都市の中心部の方が良い。知識層はそちらに住んでいるし、役場や公的施設、アルテナ神殿や冒険者協会なども揃っている。客を呼び込みたいなら客の利便性を考えるべきだ。
他の客層として、学校ならば中心部ではなく住宅街にいくつもある。だがその本屋は、学校に隣接していると言う訳でもない。
ではメリットは何であるのか。
それは、土地にかかる税が安いからだ。
都市防壁の近くは、アルテナの神宝珠から一番離れている為に加護が一番届かない。加えて魔物が侵入してきて真っ先に襲うとすれば、防壁から一番近い建物だろう。
そんな辺鄙な場所に店を構えた『本屋リーチ』は、その対価として広い店内に沢山の本を揃えていた。客は都市から出立する時間合わせの人達ばかりだったが、馬車での長旅なので本の購入率はそれほど悪くもなかった。
アクス領の宝珠格が跳ね上がった結果としてそれらのメリットもデメリットも同時に消えてしまったのだが、目の前に錬金術学校が出来た事で本屋リーチは永らえる事ができそうだった。
今も店番をしている本屋の娘と思わしきポニーテールの若い娘が、明らかに錬金術学校の生徒と思わしき男から受け取った注文書を読み上げている。
「注文書を確認させて頂きます。トト・クワイア様、17歳。ご注文内容『薬学大辞典』『人体解剖学書』の2点。ご住所は錬金術学校に隣接する学生寮のA棟213号室。以上でよろしいでしょうか?」
店の娘が釣り目でキリッと確認すると、上質な服を纏った色白の男は嬉しそうに答えた。
「いぇーす。それで、いつ届くのかな?」
「ディボー王国の都市スタファンからのお取り寄せで、入荷は4月頃です。よろしければ入荷後にご連絡します」
「おや、錬金術学校には関係者しか入れなかったと思うのだが」
「私も4月から学生です。ユティサ・リーチと申します。14歳です。よろしくお願いします」
「おぉ、飛び級とは君は優秀だね。点数も高かったのかな。私はトト・クワイヤ。93点だった。調合に興味がある。良さそうな本があれば教えてほしい。よろしく頼むよ」
「はい、クワイヤさん。ご希望の本はご案内できると思いますのでリストアップしておきます。点数は100点でした」
「………………」
男性の眼鏡がずり落ちた。
そんな光景を、羨ましそうに眺めている客も居る。
アーナリー・サンドライト。14歳。点数は50点。元難民で貧乏なため、高価な医学系の書物には到底手が出せない。
アーナリーは5人家族で、両親と妹と弟がいる。5人だったが、ベイル王国は難民として全員を都市民登録してくれた。
だからトト・クワイヤのような金持ちや貴族様が贅沢をしていても、身分に相応した社会的責任を負っていると感じるので別に怒ったりはしない。
だが、とにかく金に余裕が無い。錬金術学校に通うのは生活費補助が目当てで、将来はなんとか卒業して公務員になりたい。
50点とはいえ奇跡的に受かったので、次の目標は落第しないようにすることだ。難民は金が無いのだ。本当に金が無い。金、金、金……。
だからトト・クワイヤはともかく、次の客には納得できなかった。
「注文書を確認させて頂きます。マリ・エルゲ様、19歳。ご注文内容『基礎地学書』『中等地学書』『基礎生物学書』『中等生物学書』『基礎史学書』『中等史学書』『鉱石図鑑』『植物図鑑』『溶接と切削』『繊維加工の仕組み』、以上10点。図鑑は図が入って詳しく、かつ分かり易い上等な専門書ですので、一般書物に比べてとてもお高くなりますが、よろしいでしょうか?」
「良いの良いの、お金入ったし。あ、ごめんね。年齢は17歳に訂正で。ぼーっとしてたら書き間違えちゃった!」
「かしこまりました。では発注させて頂きます。第二宝珠都市アレオンからのお取り寄せ品が御座いますので、入荷は来週末くらいになると思います」
難民のアーナリーには、そのマリ・エルゲという女性が元難民である事が一目で分かった。
肌の色素に、長年都市外で瘴気を浴びた痕がある。
都市外で瘴気を浴び続けると、本人の加護が弱ければ瘴気負けする。死体がゾンビになるのがその最たる例だが、そうならなくとも瘴気の影響を受けると肌の色が不健康になる。
それは都市内で加護を浴びると数年で元に戻っていく。マリ・エルゲと言う女性は、治り掛けだが痕が残っていた。
それでいて、買ったばかりと思われる高級品ではないが真新しい服や靴を身に付けている。
(……俺たちは、そんな金なんて無いだろ?)
アーナリーは直感に優れている。
実は錬金術学校の試験問題も、選択式マークシートのかなりの部分を直感で解いた。
例えば問題を見るのではなく選択肢を見て、「国ならこういう回答は無い」などと間違いを勘で削っていき、一問でも間違えれば不合格となる全ての禁忌問題をアッサリと回避してしまった。
だから、その女がまっとうな方法で金を得たのではない事が分かった。
ガランガラン。
店の扉が開かれ、新たな客が入って来た。
「ユティサ、植物図鑑は届いているか?」
蜂蜜色のマッシュルームカットと言う奇怪な頭の男が、店内に入ってくるなり嬉しそうに店番の子に声を掛けた。
「あ、ランスケープ先輩。今ご注文をお受けしているのでお待ちください」
「……じゃあよろしく」
大量の注文を出した女は、アーナリーの感ではまだ本を物色したそうな感じだった。
だが、新しい客と入れ替わるように素早く去っていった。
(店に気を使ったのか?)
アーナリーはそう自問しつつも、なんとなくそんな気はしなかった。だが、勘だけで根拠が無い上に、アーナリーに対して特に影響もなさそうなのでそれ以上の詮索をしない事にした。
「ご注文の植物図鑑です」
「よしっ、ディボー王国製!これさえあれば染色の幅が広がる」
蜂蜜色のマッシュルームカットが本を抱きしめながら退くと、並んでいた次の客がユティサに声を掛けた。
「すみません」
「はい、いらっしゃいませ。お取り寄せでしょうか?」
暗い髪に下縁眼鏡の女は、陰気な声でなにやらボソボソと尋ねた。
「ご希望の系統の本自体はいくつかお取り寄せできますが、推論の域を出ない物が大半です」
「いいわ。それと、千瞳のドリス様の書を……」
「かしこまりました。入荷の確認にお時間が掛かります。それと、代金の2割は前金になります」
「ええ。注文書はこれね?」
「はい。こちらにお名前からご記入ください」
「ドリー・オードラン。15歳……」
アーナリーには、「生命」とか「変容」とか意味の分からない単語しか聞き取れなかった。高度な教養は受けていないので、高度な錬金術は理解が及ばないのだ。
だが、生命なら人助けだろう。何か立派な事をするに違いない。
それよりも、自分の本をなんとかしたい。
これまで貧乏人は、教育を受けられないのでずっと貧乏から抜け出せなかった。
だが、ベイル王国は中等校までの全費用無償化を始めた。4月からはアンジェリカ次期女王の名で全生徒に対して学校給食制度も始まる。
アーナリーには現状から抜け出す機会が与えられた。もちろん妹や弟にもだ。
ベイル王国が作った制度は本当に凄いと思う。
(……もう少し、上を目指してみるか)
錬金術学校に通えば補助金が出て、本も買えるようになる。
(役人になるにしても、ベイル王国に恩を返せる役人になろう)
アーナリーはそう決意すると、そっと本屋を出て行った。
バダンテール歴1260年3月。
王国が地道に撒いた種が、ようやく芽吹き始めようとしていた。
アーナリーと入れ替わりに店内に入って来た女性が居た。
ニーナ・ジルクス。15歳。99点。この本屋リーチの大常連。黒髪で、前髪で目元が隠れているが、実は美人だったりする。
そして、ニーナは一つだけ変な属性を持っている。どんな集団においても、いつもなぜか2番手になってしまうのだ。中等校でも学年で2番だった。そして、この校下で錬金術学校の試験を受けた者たちの中でも2番手だった。
ちなみに初等校なら、成績が学年で1番でなければ校長の推薦を受けての飛び級試験を受けられない。5年生と6年生の1番なので、現在のベイル王国では2年飛び級が最高である。1番と2番の差は、小さいようで意外に大きい。
店番をしていたユティサ・リーチのポニーテールが、ニーナを見てビクンと跳ねた。
「……あはは」
乾いた半笑いで誤魔化そうとするユティサの肩を、ニーナがガッチリと掴んだ。
「おかしいな。どうして?」
本屋や図書館の大常連で、殆どの本を読み尽したニーナは99点。
そして本屋の娘で、同じく殆どの本を読み尽したユティサは100点。
多分二人の読書量は変わらない。
それでも二人には、点数に差が付く明らかな理由があったはずだ。知識にどん欲なニーナは、本屋のユティサの肩を揺すりだした。
まるで揺する事で、ユティサの身体からニーナが読んでいない本が落ちてくると思っているかのように、ゆらゆらと揺すり続ける。
ユティサのポニーテールが馬の尻尾のように跳ねまわり、釣り目は垂れ目へと変わっていた。
「どうしていつも2番手になるのかな?」
「えーん、ごめんなさいーっ」
「謝らなくて良いから、新刊を出しなさい」
「うぐっ、もう無いよー」


























