短編 嵐の前★★
スッと目を閉じて、心を鎮めるために大きく深呼吸をした。
そして数多の思考を放棄し、ただ一つだけを思い浮かべる。
あれは生まれて初めて見た、あまりにも巨大な湖だった。
水平線と空の境界が重なり合い、天空に浮かび上がる白い雲と、その雲の合間から差し込む太陽の光の柱に圧倒された。
これはどんな強大な魔法なのかと、どれほどの大魔術師が起こした奇跡なのかと、身の危険を感じつつも震え、ただ茫然と立ち尽くした。
もしこれが魔法であるのならば、その先を見てみたい。その好奇心が身を震わせる恐怖を上回り、暫くは動けなかった。
あれこそまさしく歓喜。
久しく忘れていた感情を思い出した。そして今でも、湖を思い浮かべるだけで笑みがこぼれる。
あまりに美しいものは何度見ても美しく、見飽きると言う事が無い。だが最初の衝撃と言うものがある。
あの湖を見た時こそが、我が人生における最高の瞬間だった。そしてこの自我を無くすまであの光景は忘れないだろう。
あの湖へのイメージは完璧だ。
だが目標は、湖に佇む大理石で建造された巨大な城の方だ。
あの城も枯れし我が心に絶大な衝撃をもたらした。
最初は、愚かさの象徴として目に映った。
これほど巨大な物を建造するのに一体どれだけの労力と命とを費やしたのだろうかと呆れ果てた。
我々が相手にしているのは、とてつもない愚者だと確信した。
だが違った。
愚かしいのではなく、豊か過ぎたのだ。
宝珠都市の絶大な加護が、人々に無敵の安全を与えていた。
国と民はその恩恵を受けて穏やかに暮らし、芸術に、文化にと豊かさを創作活動へと転化させていた。
環境の違いが創り出した巨大な建造物に、それまでに持っていた先入観と固定観念とを、いとも容易く粉砕された。
粉砕された我が概念は、もはや塵となって消え失せた。
人生における経験の大半を終え、もはや大きな感情の変化などあるまいと勝手に決めつけていた我が身の何と愚かであった事か。何と浅はかであった事か。あの大理石の建造物は、自身を戒める自制と自戒の象徴である。
おお、大理石の白き巨城よ。
人類の創り出した地上の豊かさの結晶よ。
幾度でも我が眼前に聳え立ち、我を畏怖させよ。
浅ましき我が盲信を打ち砕き、我を世界の真理へと誘え。
『トランスファレンス』
体内を廻る膨大な魔力とマナが、大祝福3を以って与えられる単体転移のスキル発動により一気に変質した。
直後それらは我が身を包みこみ、我が想像の彼方へと誘った。
Ep03-33
他の地上軍団長が全員『戦士系』もしくは『探索者系』の前衛職なのに対して、第三軍団長イグナシオは1人だけ『魔導師特殊系』で後衛職だ。
かつて後衛職はイェルハイド帝国内において軟弱者の烙印を押され、他の冒険者たちに「盾にするな、1人で戦え」などと手厳しく罵られてきた。
人類との戦争により役割の見直しが為されて立場はかなり改善して来たが、長年の偏見と後衛職への不満はやはり根強い。そのため後衛は、経験値獲得に苦労して祝福数があまり伸びない。
そういった洗礼を受け、それでも祝福を伸ばしてようやく相手にされる。
獣人は治癒師や魔導師の出現率がただでさえ低いのだから、それらの職で活躍できる者は本当に限られている。
イグナシオは帝国で唯一の、魔導師特殊系で大祝福3超えだ。
祝福90で覚えたスキル使用魔導師のみの単体転移魔法が、広大な帝国全土を一瞬で移動可能にしてくれる。
インサフ城に転移魔法で戻ったイグナシオは、与えられている居室をすぐに出て、城の主への面会を申し込んだ。
軍団長が公務で総司令に会うには、少し丁寧に過ぎる手続きかもしれない。
だが今は緊急の事態では無い。
それに皇女ベリンダは、皇帝である父の血を受け継いでいる。そう、獣の中で最強である絶対種フェンリルの血を受け継いでいるのだ。
皇女ベリンダは、戦死した弟のブレーズ皇子に比べれば穏やかな性格だ。
だがそれは比較論に過ぎず、そもそも皇女ベリンダは明らかに『獣人全体を導かねばならない』という強い使命感を持っている。
すなわち、皇女は皇女としての自覚を持ち、皇女として努力を重ね、皇女として振る舞っているのだ。
イグナシオは臣下である。第三軍団長にして祝福92で9階位という身の程をわきまえており、自身より祝福の低かったブレーズ皇子はともかく、皇女にして祝福100で10階位を得ている皇女ベリンダにひれ伏す事に躊躇いは無い。
いや、そもそもフェンリルを怒らせる馬鹿はイェルハイド帝国に存在しない。
特に皇帝を、大祝福4にして絶対種フェンリルの種族補正を持ち、転姿停止の指輪で永遠の命をすら得ている皇帝を怒らせて生きている者はいない。
そもそも、なぜ多種族の統一国家が成り立つかと言えば、そこに絶対的な支配者が君臨しているからに他ならない。
歯向かう者が皆死ねば、やがて従順な者だけが残る。何をしても抗えない相手なら、もはや全てを受け入れるしかない。
加えて昨今は、人間を獣人の下に付けると言う支配構造が帝国を盤石たらしめている。宝珠都市の獲得もそれを強く後押ししている。
イェルハイド帝国の定めは、『力こそ全て』だ。
破っても強制力が存在しない定めに従う者はいない。逆に言えば、力によって強制されれば従わざるを得ない。
帝国のルールとは最強である皇帝の定めた事柄であり、あるいは皇帝が定めた法務官が皇帝に伺いを立てて承認を得た帝国法である。
帝国臣民の上下関係は祝福数による。それにより、祝福0相当の力である人間は帝国で最下位となっている
戦争が終結して、敗北した側も祝福を上げる事が許されるようになれば、人でも獣人より上になれる者も出てくるかもしれない。だがそれは当面先の話だろう。今は戦争に終わりが見えない。
皇帝は、地上を皇女ベリンダに任せた。
それが育成なのか巣立ちなのか、皇帝自身の説明が無いので誰も分からない。だが皇帝が直接定めた。それはすなわち帝国にとって絶対のルールである。
イグナシオは、そんな地上の支配体制を管理維持する自称・雑務係りである。
はたして、面会の申請はあっさりと通った。
「第三軍団長イグナシオ、帰還致しました」
「戻ったか。戦力の再配置、ご苦労だったな」
皇女ベリンダが深謀のイグナシオを労って迎えた。傍にはいつも通り首席副官の銀狐も控えている。
皇女の白い髪。
膝近くまで伸びており、とても厚みがある。
その髪はフェンリルの獣人補正の一つで、無敗のグウィードの『硬化』のスキルに匹敵する防御力を発揮する。つまり戦場で皇女を後ろから刺しても刃が通らない。
皇女の真っ赤な瞳。
皇女は大祝福3祝福10の戦士攻撃系だ。
その瞳から発する『威圧』のスキルは、視界に入った大祝福2以下の格下の相手をマナの気迫で震えあがらせ、恐慌状態に陥らせる。皇女に対して軍の数は全く意味を成さない。
皇女の白い肌。
戦場にて数多の生血を啜り、しかし何人たりとも穢せぬ白き肌。
皇女が大祝福3を得て以降、戦場で傷ついたのは天山洞窟内に侵入してイェルハイド帝国を襲った者達との戦いだけだ。
帝国を襲った冒険者パーティは6人とも殺した。
帝国側は、絶対種フェンリルの混血であるブレーズ皇子と、優越種である金羊大公ヴィンフリート、それに軍団長級4人が死んだ。
だが被害は同等では無い。
人的被害については、軍団長補佐以下は多すぎて挙げきれない。
物的被害については、そもそも計算を諦めた。過酷な世界において数多の犠牲を払って培ってきた建造物や構造物の価値を、誰も金銭換算できないのだ。
さらに、もはや子を産めない皇妃ゾフィーと皇帝との血を引いたブレーズ皇子や、治癒師祈祷系でありながら大祝福3にまで辿り着いた第六軍団長・死神のエステルの戦死は単純な軍団長の死と同等には扱えない。彼ら彼女らの肉体は完全に瘴気に蝕まれ、既に処分されている。
この犠牲に見合う対価など存在しないと帝国全体が思った。
だが意外な事に、対価は十年と経たず十二分に得られた。
まず瘴気から身を守る数多の宝珠都市。
そして数多存在する人間と言う労働力、多種多様な天然資源の山、培われた膨大な技術、目がくらむ程に贅沢な建造物……。
さらに副産物として、殺した6人の侵入者が装備していた6つの新しい転姿停止の指輪。
転姿停止の指輪は現在本国で4人、地上では皇女ベリンダ、第一軍団長オズバルド、第三軍団長イグナシオ、新第五軍団長ラビ、輸送軍団長アロイージオの5人、これら合わせて9人が身に付けている。
地上で死んで奪われた3人を合わせた12個のうち、なんと半数が侵入者から得た物だ。
破壊者オズバルド、無敗のグウィード、深謀のイグナシオ、殺戮のバルテル、紅闇のラビ、神速のアロイージオの6人は、侵入者から奪った物を祝福が上から順に下賜された新規の獲得組だ。
金狼のガスパールは、その速度による敵追尾と足止めの功績により、戦死した金羊大公ヴィンフリートが装備していた物を下賜されている。
すなわち地上の上位軍団長全員が、人類侵入による多大な恩恵を受けている。
それはイグナシオにとって、いかなる被害を受けても冷静に事態を見る事が出来る心と時間のゆとりへと繋がった。
心のゆとりがもたらした、欲も焦りも無い確実な戦略図を差し出す。
★地図(周辺国勢力図)
「紫は地上本土、濃い桃は入植地、桜色は勢力維持地、白は緩衝地。後は人類の支配地。最新のものです」
「ディボー王国は、騎士団の9割が壊滅したと聞いている。大きく後退に至らしめた理由は?」
「全体の指揮者が変わったようで。騎士の代わりに傭兵が多数現れました。王都は落とせましょうが、それによって撤退時期を見誤り、以降は各都市で消耗戦に突入するかと。ですが先に撤退してガゼインを押さえておけば、2個大隊程の駐留で少なくとも5年は保ちますな」
「そうか。では戦線の再構築の方はどうだ?」
その問いに対し、イグナシオは一枚の紙を皇女に差し出して見せた。
皇女はそれを見て眉をひそめる。
★地図(獣人帝国軍の配置図&侵攻図)
「アスキス王国は、西側の増援を引きずり出して削る紅闇のラビの庭だ。アスキス王国を地図から消して、ラビの庭を移転するのか?」
「さようでございます。加えて、マルタン王国の玄関口で神族と遊んでおるオズバルド軍団長殿を裏口に案内致しましょう」
「後方の戦力を投入し、仮に後方でモンスター被害が出ても捨て置き、前線の戦死者を減らす事で全体の被害を減らす訳か。だが、軍事だけではなく政治も考えるべきだ。エリーカ、お前はインサフで2個大隊を従え留守番だ。何かあれば自己判断しろ」
「はい、畏まりました」
「それとイグナシオ、お前も省く。お前は前線を回り、異常があれば報告しろ。そして突撃しようとする者がいればグレゴール以外は抑えろ」
「仰せのままに」
従来のリーランドを除いた国に対する1軍団1国という方針は、金狼のガスパールと無敗のグウィードが立て続けに戦死した事で継続困難となって来た。
強硬策ならば、敵戦力が激減した南の地へオズバルドを除いた4個軍団を投入して一気に飲み込む案が浮かぶ。
あるいは、敵の全ての最前線都市から3都市分程の距離を無人の緩衝地帯にした人類との住み分け案も無くは無い。
現有戦力で周辺の人類国家すべてを支配し、維持することは不可能に近い。
獣人と人類の支配と被支配の構図になっており、支配される人類の方が圧倒的に数が多く繁殖力も高い。しかも武器や道具を扱い、知恵も使う。
かと言って、短絡的に人類を絶滅させる事は無意味だ。アルテナの神宝珠というメリットがあればこその地上であり、それが消えれば多様なモンスターによる被害は天山洞窟を上回る。
ベリンダは統治者として、戦況が有利なうちに有利な条件で停戦した方が良いのではないかとすら思った。劣勢になれば、それすら適わない。
だが、弟のブレーズ皇子を思い出すと停戦も躊躇われる。
それに話しをするにしてもやはり地理的にアスキス王国は目ざわりで、マルタン王国の都市も削れるに越した事は無い。
「よし、まずは足場を固めるか」
「はっ」
2人の上位軍団長が戦死して状況が変わりつつあった。
今のベリンダには、戦争の落とし所が掴めなくなっていた。だからこそあえて戦い、獣人と人類との関係を見極めなければならない。彼らは支配すべきなのか、それとも認め共存すべきなのか。
世界は広い。
人類の生存圏はこの周辺国以外にもあり、獣人や竜人の生存圏もあると言う。
ベリンダ達と彼らとの1対1の関係ではいられないのだ。
だが道に彷徨いながらも、選択しない事は許されない。
なぜならイグナシオら軍団長を筆頭に、誰もがベリンダの後ろから付いてくるのだ。そして彼らは次々に倒れていく。新しい者が列に加わっても、減った者は決して戻らない。
ベリンダは彼ら全ての統治者として、深い思考の海へと潜り始めた。
























