短編 宰相の種まき
バダンテール歴1267年2月。
人口規模595万人を誇るベイル王国の王宮で、ひと組の親子が中庭の一画を耕していた。
「アリシア、耕した土に指を差して穴を空けて。こんな風に」
稀代の大英雄にして改革者、また時には情け容赦の無い宰相として畏怖を一身に受けるハインツ・イルクナーが、盛った土に指先をぶすっと突き立てた。
すると煌びやかなドレス姿では無くズボンを履いたブロンドの5歳くらいの少女が、父親の真似をして土に人差し指を突き立てた。
丁寧に耕した土は、少女の小さな指先でも簡単に穴を掘ることができた。
ついでに上着と左手にも泥が付き、遠巻きに見守っている女官達たちがそっと溜息を吐く。
「こう?」
「うん、それくらいで良いよ。それじゃあ次は種を蒔こう」
「これはなに?」
「それはトマトの種。他にもナス、キュウリ、イチゴも植えようね」
「はい、おとうさま」
「神宝珠の加護の傍だから、みんなすぐに育つよ」
「どうして?」
「それはね、加護は栄養だからだよ。沢山浴びると身体に良いんだ」
「そうなの?」
「そうなんだよ」
御年5歳におなりあそばされたアリシア王女殿下は、イルクナー宰相の返答に頷いて摘まんだ種を畑の穴へと落とした。
そこへ宰相が土をかける仕草をして見せると、王女殿下はそれを見て土を被せる。
二人は耕した土に次の穴を空け、今度はトマトの種を落とす。
王女殿下に常時張り付いている近衛騎士の1個小隊が、王宮内の一画を畑にする宰相の奇行に見て見ぬ振りをする。
なおベレオン王宮内の別区画では、その権威と引き替えに桃・栗・柿などの苗木も植えられている。
植えた男が庭師程度ならば上級官吏の誰かが即日クビにするのだが、相手が女王陛下の夫であるイルクナー宰相となれば、どんな上級官吏でも見なかった事にする。と言うよりせざるを得ない。
もしも王宮内に参内した誰かが苗木を指差して「アレは何ですか?」と問えば、周囲が「宰相閣下が王女殿下と共に植えられました」と質問者の次の問いを先読みした回答を返す。
すると質問者は一瞬固まった後に「なるほど」と強く頷き、「そういえば今日は良い天気ですね!」と強引に話題を変えて、回答者と共に過去の記憶を忘れ去る。
そんな王宮の権威の天敵は「アリシアが中等生になる頃には、柿が食べられるよ」などと意味不明な事を言っていた。
これと同じような事象は第四宝珠都市ラドイーアスの侯爵城でも発生しているらしいが、王都と侯爵領のいずれであろうとも宰相と第一王女に正面から異を唱えられる文官は存在しない。
但しそんな謎の教育を行うハインツにも、親として一つだけ迷う事があった。
それは息子フィリベルトが超大国の後継者である事に由来する問題である。
Ep10-34
「将来ベイル王となられるフィリベルト殿下の第一夫人として、ディボー女王フランセット陛下などは如何でしょう?」
機先を制したいならば、事前に相手へ動きを予測されない事が望ましい。
ディボー王国のオルランド宰相は、インサフ王国の経過と方向性を話し合う定期的な密室連絡会の場において、ベイル王国のイルクナー宰相に対して突然そのような打診を行った。
「一度も考えた事が無いと言えば嘘になるが」
「そうでしょうな」
ハインツが咄嗟に返したのは返答にすらなっていない先延ばしの言葉で、オルランドもそれを当然のように肯定した。
ベイル王国は人口規模595万人。
既にリーランド帝国を上回る最大国であり、国力、技術力、軍事力、人獣戦争での貢献度、周辺国人類の民心なども頭一つ飛び抜けている。
ディボー王国は人口規模310万人。
リーランド帝国に次ぐ周辺国第3位の大国であり、技術や経済発展はベイル王国に準じており、ベイル王国ですら侮れない強国だ。
そんな両国で将来に渡って一方のみが有利であり続ける点が、海の有無である。
塩は人体に欠かせない。
ディボー王国は国内3都市を海に接している事から容易に塩を入手できる一方で、ベイル王国は一都市も海に接していないために輸入に頼らざるを得ない。
塩の入手先は遙か北のグレイ湖という塩湖から求める事も出来るが、ディボー王国がリーランド帝国と組めばこれを簡単に封じる事が出来る。
将来軍事力が並んで仲違いした場合、ベイル王国は苦境に立たされるだろう。
ハインツは将来の対抗策を考えたが、名案は浮かばなかった。
現在ならば、ディボー王国とリーランド帝国が手を結んでも簡単に対処できる。オリビアが飛行艦に乗って両国へ旅行に赴けば、お土産に塩を渡されて万事解決となる。
だが将来はどうだろうか。
各国の技術力が同等となり、人口規模に見合った国力となったならば、ベイル王国はディボー・リーランド同盟に一歩譲る可能性もある。
その時にベイル国王が無能者であったならば、ベイル王国が押し込まれて滅ぼされる未来も有り得るかも知れない。
ベイル王国宰相であるハインツは、そんな数百年先など知らないとは言えなかった。宰相が考えるべきは現在のみに非ず。
どうすれば外圧による破滅が回避できるのか。
方法の一つとして、ベイル王国とディボー王国の統合がある。
ベイル国王とディボー女王が結婚し、両者の子孫が統合した国を継承する事で、両国は争う事無く揺るぎない超大国となる。
統合国の南部は海で敵国に面しておらず、背後を気にせず北を見る事ができる。
あまりお膳立てをし過ぎて愚王が暴れても困るが、そちらは社会制度の基盤を整え、臣民には学校教育で社会制度を考えさせる体制を構築し、愚王が暴れても容易に国家を破綻させられないよう地道に整えていくしかない。なおこちらは内圧のお話である。
このような話が生まれる原因に、フランセット女王の後継者問題がある。
女王は現在20歳。配偶者はおらず、後継者も居ない。
姉のルイーサ前女王は魔族エイドリアンとの戦いで神化しており、父親のガストーネ前々王は魔族エイドリアンを創り出した罪で、一緒に逃亡した兄のバルトロメと共に国際指名手配されて久しい。
母親のコルネリアは処刑済みで、姉のジョセフィーヌは魔族に殺されている。
当時未成年であったフランセットにはどうする事も出来ない話であったが、そのような事情によって現ディボー王家にはフランセット女王一人しか残っていない。
そしてベイル王国のフィリベルト王子も、現女王アンジェリカの唯一の男児だ。
国家の継承は概ね男子が優先されており、ベイル王国を継承するのはフィリベルト王子だろうと見なされている。
フィリベルト王子は現在2歳で一見年齢が釣り合っていないように見えるが、転姿停滞の指輪を嵌めれば年齢を若返らせて数十年から数百年も身体を保てる事から、それを得られる王族にとって18歳差など無いようなものなのだ。
「打算では最良かも知れない。人間最大の集合体である国家を大きくして、集団を破局させないようにするのは王族の義務でもある。だが同時に、子供の結婚相手を親が勝手に決めるのは如何なものかとも考える」
「世間の結婚の何割かは親が決め、王侯貴族の結婚に至っては全体の半数を超えます。最終的には本人同士がアルテナに誓わないと成立しませんので、どうしても嫌ならば本人が家督を放棄して政略結婚を拒否する事も叶いますが」
「…………ちなみに、フランセット女王はどう思っているんだ?」
「私が候補者を探すように指示を受けております。貴国の次期国王の第一王妃にして、子が統合国の次王となるならば、両国にとって至上の結果となるでしょう」
「他の候補者は居ないのか?」
「イルクナー宰相のような候補者がいれば、国家を挙げて確保に動くのですが」
「政治手腕で俺より上の奴を知って居るぞ。今俺と話している男だ」
「その男は、花嫁候補の父親と兄を国際手配し、母親を処刑し、姉を死に追いやっています。過去に因果が有り過ぎるでしょうな」
ハインツはオルランドの言に納得せざるを得なかった。
そしてディボー王国の女王の配偶者探しが容易ならざる理由にも思い至る。
ディボー王国と唯一隣接しているベイル王国の女王の夫はハインツだ。
つまりディボー王国のフランセット女王の夫となる人物は、これから万事ハインツと比較される事になる。上手くいって当たり前と見なされ、少しでも失敗すればハインツの功績と比較して必ずケチが付けられるだろう。
あるいはもっと大変かも知れない。例えハインツでも実現できない日々の不満であっても、ベイル王国なら出来るのにと言われて批判されかねない。
隣の芝生は青く見えると言う奴だ。
それでもオルランド宰相くらいディボー王国の内政に実績のある人物ならば、人々は納得するだろう。
だがオルランドは自身で明言した理由があってそれができないらしい。
要するにディボー王国は、ベイル王国のフィリベルト王子が想定しうる現実的な候補者の一人であると同時に、目下最有力候補者の一人でもある訳だ。
何しろ結婚によって国が大きくなるのであるから、その分の功績が二人の結婚に付いてくる。
ディボー王国の国力が約3倍になるのであるから、それ以上の功績を挙げれる者など挙げられず、血統も王族であるので誰しも納得せざるを得ない。
一方ハインツも、国益を考えるならば大国ディボーと統合するのは選択肢の一つだと考える。
何しろディボー王国の全都市はベイル王国の王都ベレオンから近く、統合後の統治にも殆ど支障を来さない。
さらに両国は現時点で既に同盟関係で、前年には共同で双翼十字の戦いを行った事もあり、相手国に対する民の感情は互いに良い方だ。
またディボー王国はベイル王国としか国境を接しておらず、統合しても新たな国との外交問題を抱える事は無い。
周辺国で唯一海も抱えており、遙か西のダーリング小国家群とも大街道で繋がっており、地理的な価値は将来的に上がるだろう。
ベイル王国を継ぐと言う事は、ベイル王国の平和と安寧に責を負うと言う事だ。
例えばハインツの妻アンジェリカ女王は、ベイル王国を救うために金狼を倒した者を夫とするという宣言を出した。
アンジェリカにとっては王族の婚姻に政治が絡むのは当然で、それだけではなく周辺国では多くの王族がそれを当然だと思っている。
フィリベルト王子に選択肢を与える事は出来る。
ベイル王位を継承する場合にはフランセット女王との結婚を条件とし、自由な結婚を望むのであれば王位を継承しない事と引き替えにそれを認める。
そうすればフィリベルト王子は、王位継承と同時にハインツやアンジェリカでは為しえない独自の巨大な功績を挙げる事が出来る。
逆に王位を継ぎたくないのであれば、最愛の人のために王位継承権を放棄したという美談にする事が出来る。
どちらの選択であってもフィリベルトにとってはメリットとなる。
…………そこまで考えたハインツは、そもそもの目的が何であったのかと思い直した。
本来ハインツの優先順位は自分と妻の人生の幸福であり、所属国の行く末は自分と家族のより良い生活環境を整えるためのものでしかない。
子供と所属国とであれば、当然子供の優先順位が上になる。
国家のために子供へ意に沿わない結婚を押しつけるような行為が、ハインツの目的に適うとは思えない。
フランセット女王とフィリベルトを結婚させるよりも良い未来がフィリベルトに無いと何故決めつけれるのか。
無能な先祖が、あやうく子孫の未来を狭めるところであった。
「力になれそうには無いな」
ハインツは時間を掛け、だがハッキリと否を口にした。
「そうですか。では国家統合は、フランセット女王陛下の次代に期待することにしましょう。これから生まれるディボー王女殿下であれば、フィリベルト殿下と年齢も釣り合うでしょうからな」
「フィリベルトの結婚は、フィリベルト自身が決める事だ」
ハインツはそう答えつつも、将来はオルランドが狙ったようになる気がしてならなかった。
ベイル王国がディボー王国の地理や資源に魅力を感じている以上に、ディボー王国はベイル王国の様々な事に魅力を感じている。人獣戦争の最中にあっては、その様な理由で結びつく事こそが自然の流れであるのかも知れない。
ハインツの考えはこの世界で特異なのだ。そしてフィリベルトにも自分の物事の捉え方を教えはしても、それのみを守るよう強要するつもりはない。
(…………まあ、行き過ぎた干渉だけ排除するか)
この話し合いから2ヵ月後、フランセット女王がディボー王国内の貴族から婿を選んだと公式発表された。