短編 新興貴族のおかしな実技
バダンテール歴1266年。
新インサフ王国が産声を上げるのと時を同じくして、ベイル王国最西でも新たな都市が造られた。
第四宝珠都市ラドイーアス。
20万人規模という広大な生活圏に加護を振り蒔くラドイーアスの力は、大国ベイルが保有する神宝珠の中でも五指に入る。
その新領主には、王国随一の功績を誇るイルクナー宰相が就く事となった。
ラドイーアスが安置された廃墟都市の歴史を遡れば、バダンテール歴917年にベイル王国が併呑するまではデュナシエ王国の王都として永らく栄えていた。
最大時は第四宝珠格で、石造りの路地・水路・建築物などはその規模が残っている。
ベイル王国による併呑から2年後のバダンテール歴919年末、第三宝珠都市デュナシエは人妖戦争の勃発と同時に宝珠格を0にまで落とされて滅ぼされたとされている。
ハインツはそんな廃墟都市デュナシエのすぐ西にあるスワップリザードの巨大沼地が、ベイル王国騎士を長期的に育成していく最良の狩り場になると考えた。
ベイル王国の国土に劣らない広大な沼地、大森林、山岳地帯などにスワップリザードが数百万から数千万匹も生息しており、ある意味で天然資源と言えるこれらを上手く倒せば、騎士達には継続的に膨大な経験値が転がり込む。
ハインツは巨大沼地の東側にある廃墟都市デュナシエに、インサフ王国独立時にベイル王国が報酬として受け取った第四宝珠ラドイーアスを安置して、祝福上げを行う騎士の補給地や、囲い込み施設の建設拠点を造った。
ハインツ自身が領主となって直接管理するのは、それが騎士の祝福上げに最も効率的だからだ。この件に関して『NPCのハインツさん』には、周辺国の誰にも負けない自信がある。
但し「王家管理」では無く「イルクナー侯爵の領地」とした点に関しては、一部の人々に推察されている通り、第一夫人と第二夫人の社会的立場を確立するためのものだった。
「リーゼ」
「はい、何ですか?」
「仕事は順調か?」
リーゼロットは『余暇に領地の神殿を無償でお手伝いして下さる慈悲深い侯爵夫人様』という形で、侯爵城に隣接するアルテナ神殿へ通っている。
これはハインツが「心身を守りつつ、意思を尊重するにはどうすれば良いか」と考えて出した結論だ。
肉体欠損者の単体治癒3や、欠損死体の蘇生2まで行使できる周辺国最高の大治癒師リーゼロットは、あらゆる場所で救いを求められ、あるいは治癒の力を利用しようとする輩に接触され、他者からの干渉を避けて生きる事は出来ない。
そのためハインツは、リーゼに対する社会的束縛をことごとく排除した。
リーゼは雇用契約に束縛されず、上役などの人間関係に束縛されず、爵位貴族として法に束縛されず、ハインツの庇護の下で概ねやりたい事をやりたいように出来る。
「あなた、過保護ですよ。私も冒険者ですから自己判断できますよ?」
「いや、リーゼは社会的な経験不足だろう。あと2~3年も働けば、神殿で働く人や傷病者の気持ちが見えてくる。それが必ずしもリーゼの考え方に合うとは限らないけど、相手がなぜそう考えるのかは分かるはずだ。そしたら相手の立場を理解した仕事になる」
「分かりました」
リーゼは「絶対に嫌です」以外に関しては、夫に従順な妻だ。
これまでリーゼの拒否権が行使されたのは「バーンハード大隊長に襲われている同級生を見捨てる件」「ハインツの左腕が失われたのを諦める件」「力を隠して治癒活動を行わない件」の3度だけで、その他は全てハインツに従っている。
もっとも一度目は獣人大隊長の前に飛び出そうとして生命の危機となり、二度目は家を飛び出されて4年間も夫婦別居生活になり、三度目は稀代の大治癒師様として治癒活動をしなければならなくなったので、回数が少ない分だけ内容は反比例して重いが。
「ところで治癒を求めてくる人達はどうだ。殆どが元マルタン王国民だと思うが、ベイル王国民と違いはあるか?」
ハインツが領主を務める第四宝珠都市ラドイーアスの人口20万人の9割以上は、マルタン王国からの移民である。
初期の行政や治安を支える上級文官や武官は王都などから連れてきているが、彼らの都市民権は他都市にあって、ごく一部を除けばいずれ故郷の都市へ帰る事になる。
出店攻勢を掛けてきた中規模以上の商会関係者も多少は居座るかも知れないが、都市人口20万人のうち最後まで残るベイル王国民は全体の1~2%程度だろう。
ラドイーアスを構成する人口20万人は、概ね3つのグループに分類できる。
農耕と森林資源に囲まれて暮らしてきた旧第一宝珠都市レッケンスの民5万人。
大鉱山地帯で貴金属の生産を行っていた旧第二宝珠都市ルドラフの民10万人。
王都で経済活動に触れてきた旧第六宝珠都市ルセタニアの民30万人中5万人。
彼らはハインツによって移民先がラドイーアスに定められた。
現在の受け入れの進捗状況は半ばと言ったところで、毎日数百人ほどの新たな顔ぶれが都市に加わっている。
「そうですね。マルタン王国民の方々はとても敬虔ですけれど、遠慮が過ぎて困ります」
「何があったんだ?」
「実は…………」
リーゼはハインツの不在時に領地で起こった細やかな出来事を語り始めた。
Ep10-33
ベイル王国のイルクナー宰相は、医療制度が年金制度に比べて複雑だと考えている。
それは医療制度が「医療の提供」(デリバリー)と「資金の調達・財政」(ファイナンス)の双方を満たさなければならない一方で、年金制度はファイナンスだけの問題だからだ。
医療制度の場合は、若者が耐えられる手術に年寄りも耐えられるとは限らず、大人と小児に同じ投薬を行う事も出来ず、術式では術者ごとの力量差も大きいので、同じ傷病名であっても同じ医療の提供が出来ない。
年金制度の場合は、品位が同じ金貨なら鋳造国や年式を問わない。資金さえ調達できれば「25年働いて退役した治安騎士の恩給は、月に金貨1枚です」で済むわけだ。
そんな複雑な「医療の提供」(デリバリー)に目標を課すとすれば、周辺国の全てに共通して「質の高い医療を、最小のコストで、民が公平に享受できる事」となる。
つまり医療制度とは「質」「コスト」「アクセス」の3つをバランス良く提供できれば良いわけだ。
そのうち「質」に関しては、ベイル王国は他国に比べて大祝福を越える治癒師の割合が圧倒的に多い。
これは国内の『冒険者支援制度』や『治癒師育成制度』が実を結んできた事、前年に獣人帝国の支配下にあった各都市から30名以上の神殿長を招き入れられた事、マルタン王国の25都市から治癒師を含む百万以上の避難民を受け入れた事に因るものだ。
獣人帝国の支配下から招いた治癒師たちの半数ほどは新インサフ王国の神殿長へ移っていったが、ベイル王国48都市の神殿長は総じて祝福40を越えており、それに準じる副神殿長が各都市の2つ目の神宝珠に祈り神殿長を補佐している。
ベイル王国は治癒師のMPを最大限に活かすため、傷病者に対しては慣れた侍祭(看護師)が救急トリアージを行い、治癒師(司祭)のスキルを用いて治すか、助祭(医師)が通常の治療で治すかを先んじて割り振る体制も取っている。
また「コスト」に関しては、高価で高性能な回復剤を自前の大規模工場で大量生産出来るベイル王国はかなりのコストダウンを図っていると言えるだろう。
最後の「アクセス」に関しても、大通りを拡張整備して治癒院まで直線で繋げ、緊急馬車を配備して法整備も行ったのでそれなりに向上しているはずだ。
そんな3条件を高い水準で満たすラドイーアス治癒院には、今夜も救いを求める沢山の患者が運ばれてきていた。
『単体毒状態回復』
治癒師が翳した手から白光が仄かに灯り、霧となって診察ベッドに寝かされている患者の黒ずんだ全身へと流れ込んでいく。
すると患者の老人が僅かなうめき声を上げている間に、黒ずんだ全身が徐々に本来の血色を取り戻していった。
誰の目にも治癒は成功しているように見えたが、一人の女性が首を傾げて呟いた。
「あれ、おかしいな?」
患者にとって医療者から言って貰いたくない言葉を10個並べたならば、今の言葉は必ず10位以内に入るだろう。
だが発言者が術を掛けていた司祭本人だったので、傍に付いている侍祭も患者も何も言わなかった。いや、正確には言えなかった。
司祭とは、アルテナ神殿で働く治癒師祈祷系の術師の事である。
その者が大祝福1を越えていれば高司祭と呼ばれ、一時的な手伝いなどであれば正式名称には「臨時」や「委託」などと付くが、医師を先生と呼ぶようにアルテナ神殿で働く治癒師は一般名称で「司祭様」と呼ばれる。
今しがた治癒を行ったセラフィーナ・ユテイニは、6年前に祝福を得てからベイル王国の支援制度の嵐を受けて20歳で祝福32に達した若手治癒師だ。治癒院での活動は祝福上げを行う合間の資金稼ぎが目的なので、彼女の場合は正式には「委託高司祭」となる。
職歴6年目など、商人や農家なら駆け出しも良い所だろう。
何らかの職人なら見習いレベルで、そんな連中が「あれ、おかしいな?」などと言おうものなら親方から拳骨を落とされるに違いない。
だが司祭の立場は、騎士階級に等しいとされている。
魔物や獣人のような外敵から命を掛けて国家を守る騎士や、人々の傷病に癒しの力を用いる司祭は、身分が『準貴族』なのだ。
まして高司祭様ともなれば騎士隊長とも同格に置かれるので、高司祭様の「あれ、おかしいな」に反論できる者などそうそう居ない。
「カティヤ司祭、ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい、どうしましたか?」
セラフィーナの呼びかけに応じて、彼女より一回りほど年上の立派な司祭服に身を包んだ女性が奥から顔を出した。
カティヤ・リントネン・ヘイスカリ。今夜の救急で全体リーダーを勤める正職の高司祭だ。
カティヤが冒険者活動をしていた頃には冒険者支援制度も治癒師育成制度も無かったので祝福数自体はセラフィーナより1つ上なだけであるが、その分だけ沢山の経験と苦労を重ねている。
臨時高司祭セラフィーナは、リーダーの高司祭カティヤに経過を説明した。
「はい、患者はエーリス・ヒーデンマーさん。63歳男性。本日マルタン王国より到着。全身浮腫・黒化があったため、兵士隊が救急搬送。原因を都市間移動時に高濃度瘴気へ触れたためと考え、回復薬1を使用。キュアポイズンを2度掛けました。ですが……」
「ですが?」
「1度目の魔法で全身の炎症が4割治りましたが、2度目では1割しか治りませんでした。このまま続けても改善効果は薄いと判断して、MP消費を抑えるために3度目の魔法は中止しました。マナ量が変わらないのに打ち消せる量が減っていくと言うような事はありえるのでしょうか?」
寝かされている患者の全身を眺めたカティヤは、そこに瘴気負けの黒化が出ているのを確認して軽く頷いた。
祝福を得ていないヒーデンマー氏のような一般人は身体の加護保有量が小さく、都市外の瘴気に触れると身体の加護が瘴気に打ち消されてしまう。
加護が無い状態の身体に瘴気が触れ続けると皮膚の黒化、炎症反応、全身状態の悪化などが起こる。その行き着く先は、ゾンビ化だ。
加護を補うには、都市にある神宝珠の加護を浴びせるのが良いとされる。
また弱った身体を治すには、セラフィーナが行ったような回復剤や魔法による治療を行うのが一般的だ。
落ちてしまった身体機能まで完全に回復出来るのは祝福70を越える大治癒師くらいだが、炎症程度ならセラフィーナの治癒魔法でも治せるはずであった。
「…………都市外の瘴気を浴びた以外にも、原因があるかも知れませんね。例えば強い魔物の返り血を浴びたとか」
加護が血液と共に全身を循環するのと同じく、瘴気も血液に混じって全身を巡る。
つまり強い魔物の血液には、それだけ巨大な瘴気が含まれている。
もしもヒーデンマー氏が移動中に護衛している騎士や冒険者と魔物との戦闘によって祝福40を越える魔物の返り血を浴びてしまったならば、祝福30台のセラフィーナ治癒師の力では容易に解毒できないかも知れない。
高司祭カティヤはそのような理由を考えた。
「あ……いえ、ございません。司祭様のお力で随分と良くなりましたので、あとは助祭さんに薬でも頂ければ有り難いのですが」
「遠慮は無用ですよ?」
カティヤ自身の祝福数はセラフィーナと1しか違わないが、翌朝になれば神殿長が治癒院に顔を出す。
神殿長は祝福53で、マルタン王国の旧第二宝珠都市ルドラフ出身だ。蒐集のイジャルガに神宝珠を奪われた際に遭遇せず、運良く生き延びた後に都市民と共にこの都市へ移り住む事となった。
彼はあらゆる状態を回復出来る『単体状態回復』を行使でき、さらにヒーデンマーと同じマルタン王国出身でもあるので、カティヤ高司祭は二重の意味で遠慮が要らないと考えた。
「明日は休日ですが、神殿長様はお見えになられます。今夜は入院して、明日診て頂きましょう」
「いえ、そんな!」
「ユテイニ司祭、ご苦労様でした。ハーヴィスト助祭、新式回復剤2b65を1/2単位追加投与して下さい。それで動けるようになるはずです。一応私もキュアポイズンを掛けておきましょう。ヒーデンマーさん、今夜は入院ですからね?」
「よろしくお願いします」「畏まりました、カティヤ高司祭」「は……はい」
ヒーデンマーは言われた通り一晩入院し、早朝になってから事情を知らない神官に「おかげさまで治りました」と告げて治癒院を立ち去った。
彼と4人床で同室だった患者3名のうち2名に感染症が出たのは、昼過ぎの事である。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「カティヤ高司祭、君は認識を改めた方が良い」
院内感染発生の報告を受けたラハナスト神殿長は、まず同室であった3人全員に状態回復魔法を掛けた。発病していない3人目も罹患している可能性がある。
そして当直明けで帰宅していたカティヤ高司祭を緊急登院させ、立ち去ったヒーデンマー氏の身体的特徴を説明させて捜索隊を出させる一方で、高司祭を叱責した。
ラハナスト神殿長が祝福を受ける以前、高司祭とは雲の上の存在だった。
そもそも祝福30を越える治癒師とは、各都市における神殿長候補者だ。
神殿長は都市内において爵位貴族家当主に次ぐナンバー2とされており、将来は神宝珠に魂を重ねる従神の候補ともされる。
そんな神殿長候補者である高司祭様に治癒を求められるのは、国に忠義を尽くす騎士やその家族など準貴族以上の家庭に限り、一般人などがまともに取り合って貰えるような気軽な相手ではなかった。
祝福30未満の司祭も兵士の治癒に手一杯で、一般人が治癒魔法を施される事は殆ど無いと言って良い。
一般人は相応の謝礼を払って結婚の立ち会いに祝福を得た司祭を招き、アルテナへの誓いに立ち会って貰う事が出来れば御の字と言った所だ。
それはマルタン王国出身であるラハナスト神殿長の幼少時の体験だが、この都市の人口の9割以上を占める元マルタン王国民にとっては神殿長の体験こそが常識だ。
「高司祭2人がかりで3度の治癒魔法を行使し、戦争で需要が逼迫している回復薬のみならず、ベイル王国の新式回復剤まで投与。挙げ句の果てに翌日神殿長に診て貰うなどと告げれば、その者が恐怖を感じて逃げ出すのは当然だ」
「ですが、これは現在のベイル王国では標準治療です。それに新式回復剤は都市アクスなどの工場で大量生産されていますし、助祭以上の者はそれを自己判断で自由に使って良いとも定められています」
「君は、自身の治療方法がベイル王国式の標準治療だと患者に説明したのかね?」
「…………いえ」
都市ラドイーアスは、ベイル王国に属する都市だ。
都市内で効力を持つのはベイル王国法で、治癒院での治療方法もベイル王国式。
カティヤ高司祭の治癒行為はベイル王国のルールに則ったもので、治癒を受ける患者がベイル王国の常識を知っている旧来のベイル王国民であれば何ら問題はなかった。
だが昨日都市に着いたばかりの元マルタン王国民にまでベイル王国の常識を求めるのは現実的では無い。
「君が説明しなかった結果、どうなったのかね?」
「……患者が完治しないまま、勝手に治癒院を立ち去りました」
「君は危機感が不足しているのかね。祝福30台の高司祭でも治せない強い感染病を持つ患者が、人口20万人の都市に飛び出したのだ。抵抗力の低い乳幼児や老人に感染すればどうなるかね。そして感染が拡大すれば、都市外にまで広がる危険もある」
「……そんな」
「これは非常事態だ。私は領主様に報告し、神宝珠を追加発動のご判断を伺う」
この神殿長の言葉に、カティヤ高司祭の顔色が見る見るうちに青ざめていった。
神宝珠の追加発動は、都市の命脈を大きく減じる行為だ。1度発動すれば1ヵ月分減るどころではない。息継ぎしないままに泳がせ続け、あるいは休ませないままに走らせ続けるように、神宝珠へ過度の負担を掛けてしまうので、神宝珠は通常の何倍も消耗してしまう。
『神宝珠による力の放出』と『治癒師による力の回復』は次のように計算できるとされている。
放出量=1格辺りの平均人口÷100+100
回復量=治癒師の祝福数×10
消耗量=(放出量-回復量)×宝珠格
神宝珠の放出量は、第一宝珠格で人口が5万人なら500+100で600だ。
第四宝珠格ラドイーアスの人口20万人でも、20万人÷4格で平均5万人となり、力の放出は同じく600となる。
これは「格が倍加すれば、与えられる加護も倍加する」と逆に考えても良い。
そして放出を抑えたければ、都市人口を抑制すれば良い。
各国の宝珠格に対する人口5万人は、まさに人口抑制の結果である。
一方で治癒師による回復は、祝福53のラナハスト神殿長ならば530となる。
従ってイルクナー侯爵領の毎月の神宝珠消耗は(600-530)×4格で280となる。
ここまでが通常の方程式だ。
だが追加で神宝珠を発動させると、消耗量は跳ね上がる。
(600-0)×4格=2400。
1度追加発動させるだけで、神宝珠は通常の8ヵ月分以上も消費されるのだ。
だが都市内の加護量を増やさなければ、祝福30台の治癒師でも治せない感染症が他都市にまで広がる危険がある。
「我々司祭が、国を守る騎士と同等に扱われている理由が少しは理解できたかね」
「わ……わたしは……」
「君は被害の拡大を防ぐために感染者を癒やし、将来に渡って治癒師として貢献することで責任を取ることが出来る」
高司祭への指導を終えたラハナスト神殿長はそのまま侯爵城へ赴いたが、そこで領主のイルクナー侯爵が都市外へ出払っている事を知らされた。
都市誕生から間もないラドイーアスは、領主不在の中で最大の試練を迎えていた。
殺気立った兵士たちの軍靴が古都の石畳を乱雑に踏み鳴らし、険しい眼光で60歳前後の男性を手元の紙と見比べ、都市民の不安と猜疑心を煽り立てる事態……には成らなかった。
「それでは神宝珠を追加発動して下さい」
感染者脱走の経緯を聞いた領主代行の権限を持つリーゼロット・ルーベンス・イルクナー大治癒師がそのようにアッサリと指示を出すと、神殿長は暫し無言の後に説明を始めた。
「恐れながら大治癒師様。私は大治癒師様の夫であられるイルクナー侯爵閣下より、お若い大治癒師様に適時ご説明をするようにと仰せ付かっております」
「よろしくお願いします、ラナハスト神殿長」
「はい。神宝珠を1回追加発動させるごとにイルクナー侯爵家の爵位が8ヵ月ずつ早く失われてしまいます。また都市民も、加護を失う時期が早まります」
爵位貴族であれば、先祖代々守ってきた爵位を落とす事は何よりも避けたがる。貴族最大の義務とは都市の加護を維持する事に他ならず、宝珠格を落とせば爵位も落とされるのだ。
また都市民にとっても、加護を失う事は生存圏を失う事に直結する。
よって神宝珠の追加発動とは、軽々しく決めて良いものでは無い。
当主が被害を充分に検討して致し方が無いと苦渋の決断をしてようやく追加発動が行われるのだ。
少なくともラナハスト神殿長はそう認識している。
「マルタン王国の人々を助けるために招いたのに、都市寿命を延ばすためにあなたたちに死んで欲しいと言う説明には納得できません。宝珠が大事なら最初から20万人を招かなければ良かったのです。ですから領主代行の権限で必要なだけ発動を許可します」
「侯爵家の栄華もそれだけ早く尽きる事となりますが?」
「夫と私は元々平民でしたけど、新婚生活は幸せでしたよ。そんな人々の生活を助けてあげるのですよね。躊躇う理由なんてありません」
「強力な病を消すには、数度の追加発動が必要と思われます」
「構わないので確実に病を消せるように何度でも発動して下さい」
領主代理であるリーゼロット・ルーベンス・イルクナーの結論には微塵の利己心すら存在しなかった。
格の違いを感じた白髪の神殿長は、20歳前後に見える目前の女性に対して自然に頭を垂れた。
「…………畏まりました。大治癒師様」
やがてアルテナ神殿から都市内へ数時間おきに加護の光が振り蒔かれ、逃げたヒーデンマー氏が翌日保護されるまでに発動は5度も続けられた。
彼に対しては大治癒師自らが治癒を施した上で、神殿長から感染が拡大することの危険性を教えられた後に解放された。
前代未聞の追加発動で加護が飽和状態となったラドイーアスでは、旧マルタン王国民の様々な病が打ち消され、第五宝珠都市並みに土壌が豊かとなり、草花が咲き乱れ、作物が良く実った。
民はこの逸話を聞き、新たな領主たちが慈悲深い事を神々に感謝したという。