第06話 フリズスキャルヴ
王都ベレオンに急報がもたらされたのは、リーランド・クーラン両国による侵攻から4日後の10月31日夜であった。
交戦から2日後に都市アクスへ大型伝令鳥が辿り着き、そこから王都へは別の大型伝令鳥が飛んでいる。
その時点で都市アクスからは、4個騎士団もの大兵力が移動を開始していた。
「アクス最高司令ならば大祝福2台の者たちだけを引き連れて先行し、1都市を1日で駆け抜けておられるでしょう。現在はテルセロ・エア男爵の都市フーデルン。都市イルゼ到着までは、あと3日と言った所ですかな」
就寝後のベッドから叩き起こされたバウマン軍務大臣が、眠気を全く感じさせない口調でキビキビと地図を指し示しながら報告にあった情報を女王と各尚書に説明した。
バウマンの口調が普段よりも丁寧なのは、女王が尚書会議の場にいるからだ。
大臣としての在職期間や実年齢では他の尚書よりも上のバウマンだが、そもそも彼らは国主たる女王から権限の一部を託されているにすぎない。
「都市マイアス奪還はすぐに叶うでしょう。何しろ人類の英雄メルネス・アクス侯爵率いる4個騎士団の増援です。敵も準備不足でしょうから、一旦引かざるを得ないと思われます」
「そうですね」
アンジェリカが頷くとバウマンは一礼して座した。
問題は、その後の対応をどうするかである。
Ep08-06
そもそもベイル王国は、獣人帝国の勢力を減退させるために旧ハザノス・ラクマイア王国への侵攻を計画していた。
バダンテール歴1263年7月に尚書会議で方針が示されてから1年と4ヵ月。侵攻準備は秘匿されつつも着々と進んでいた。
だが周辺国最強のリーランド帝国と戦争になれば、秘匿して来た手札を一枚も使わずに切り抜ける事は不可能である。
そもそもメルネス・アクスの部隊がその一つで、既に取って置きのカードの1枚が切られている。
「バウマン軍務尚書、リーランドに隣接しているイグクス、アーリラの2都市に王都から精鋭騎士団を増派しろ。二の轍を踏まぬよう、定数を1個連隊へ増員する。指揮官は将官。将官による冒険者の追加雇用も認める。また、王都の守りには都市ブレッヒから騎士団を1個まわせ」
「はっ、即座に命じます」
「ブラームス国務尚書、ディボー王国に第一報を伝える。女王名で端的に事実を伝え、現時点で援軍は不要である点と、状況に変化あり次第続報を送る旨を記した草稿を用意しろ。なお、マイアスからの2通の報告文の写しもそのまま添える」
「畏まりました。直ちに作成します」
「エモニエ財務尚書、全面戦争勃発際にリーランド帝国とその属国に接収されそうな官民の資財を帝国の行動に先んじて引き揚げろ。あるいは上手く隠せ。優先順位は任せる」
「分かりました」
「アルドワン法務尚書、今回リーランド帝国とクーラン王国が抵触した国際法と国内法を全てまとめろ。過去に近いケースで判例があればそれもいくつか出せ」
「はい、宰相閣下」
「バザン経済尚書、開戦に準ずる扱いでリーランドからの輸入品目の全てについて、国内あるいはディボー王国製品での代替品を告示しろ。重要品目は大丈夫なはずだがな」
「了解です、閣下」
「アンテシオ技術尚書、飛行艦のうち完成済みのものを艦隊として編成し、乗員を第三級発進態勢へ移行させろ。命令到達から6時間以内にあらゆる場所へ継続的に飛ばせるようにしておけ」
「よろしいのですね?」
「…………準備だけでは済まない可能性が極めて高い。お前が直接采配しろ」
「はっ」
「エイムズ教育尚書、民心のいたずらな動揺を抑える。そのために必要なのは事実の公表だ。ヴァレリア皇女亡命による国境での交戦事実を明記し、王国の見解と日々の生活に変化は無い点、そして簡単な注意点を統一文章で子供を経由して親に渡せ」
「すぐに取り掛かります」
「それと、各尚書の職責の範囲内で気付いた事があれば勝手にやれ。宰相への報告は事後で良い…………と言う事で良いですか、女王陛下?」
「そうですね。すぐにお願いします」
「よし。再参集は明朝……ではなく今日の午前10時。夜中にご苦労だった。行け」
この際の「行け」には、女王と宰相はここで話を続けるから出て行けと言う意味が込められていた。
尚書会議に駆け付けた大臣たちが短い返事と共に動き出すのを見て、ハインツは一先ず頷く。
許可さえ出せば、彼らは細かい指示を出さなくても必要な事を行ってくれる。状況に変化があった時には追加で指示を出せば良い。
一つだけ申し訳ないのは、午前10時の再参集まで彼らが一睡もできない事だろうが。
(あとは……アドルフォに伝えてハーヴェ商会の被害を最小にしないと。保証もしてやる必要があるが、果たして戦争の落とし所をどうするか)
リーランド帝国は周辺国最大の軍事力を擁し、多数の属国まで好きな様に使い潰せる。
ハインツが数年がかりで蓄えて来た札が次々と場に出て行ったが、現状では出し惜しみが出来なかった。
それをすればベイル王国が負け、獣人帝国への軍事計画自体が瓦解する。
「ちょっと、予想外でしたね」
「ああ、まったくだ」
アンジェリカとハインツの夫婦は、そろって嘆息した。
ベイル王国がリーランド帝国に送り込んでいる潜入者の数は、ディボー王国がベイル王国に送り込んでいる潜入者の数を遙かに上回る。
潜入者たちは金や異性を使って地位ある者を籠絡して情報を得、あるいは自らも地位を得て内偵を行っている。宮中だろうと貴族の館だろうと、あるいは騎士団だろうと冒険者協会だろうと、ベイル王国が手を入れていない場所はない。
……と言うところまでは、アンジェリカも知っている。
だが偶発事では、それ以上の事をやっていても事前に察知などできない。
ハインツの持っている常識では、戦争にはもっと入念な計画があって然るべきだと思う。しかし学んだ歴史では、戦争の始まりは必ずしもそうであるとは限らなかった。
この段階に至っては、工作が不可能だ。
何しろ都市マイアスでヴァレリア皇女の亡命が広く喧伝されてしまっている。
(見事にしてやられたな)
獣人に支配された民を救うため、決死の覚悟でリーランドから亡命した悲劇のインサフ帝国皇女。
そんな存在が誕生しては、インサフ帝国の犠牲と功績を引き継いで獣人と戦う正義のリーランドが一転して悪役となってしまう。
だが、もはやベイル王国への政治亡命は成功している。
「リーランド皇帝アレクシスも、皇女ヴァレリアの件では引けないだろう」
「どうしてですか?」
「もし認めてしまえば、他の国々へ金や軍を強要してきた根拠や、ジュデオン王国に犠牲を強いた件で唯一主張出来た根拠を失ってしまう。「詐欺師め、金や軍を返せ、責任を取れ」と言われ、北部連合との停戦条件にこれまで搾取してきた以上の膨大な賠償金が上乗せされるだろうな」
インサフ帝国を継承する事の意味は、何も領土だけに留まらないのだ。
かの国が周辺人類に先んじて負った苦難と犠牲を継承する事で、獣人帝国との戦いで周辺国に負担すべき義務の履行を求める事が出来る。国家には正当性が必要なのだ。
だがリーランドが欲するからと言って、ベイル王国がヴァレリア皇女を帝国へ引き渡す事も不可能だ。
そもそもリーランド帝国のやっている事は不当である。
個人レベルにすれば、「その女を渡せ」とナイフで脅しているのがリーランド帝国で、誘拐犯から逃れて近隣住民の家に駆け込んだのがヴァレリア皇女で、現在脅されているのがベイル王国である。
皇女を引き渡さないことによって、獣人帝国への反攻作戦を準備中であったベイル王国が被る被害は計り知れない。
しかし力で脅されたからと言って、法治国家が自らの正義を捻じ曲げてはならない。そのような事をすれば、民は国の主張する正義を信頼しなくなる。
この件に関しては、両国で折り合いがつかない。
「引き渡しは認められない。リーランド帝国との戦争は避けられない」
「……そうですね」
覆水盆に返らず。ハインツの手が届かなかった球は、既に坂道を転がり出していた。
だから今更言っても仕方が無い。
ヴァレリア皇女の亡命が失敗すれば良かったなどとは。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
11月1日の夕刻、都市間移動の最速記録を塗り替えたであろうアクス侯爵が最前線の都市イルゼに到着した。
かつて金狼がベイル王国に迫っていた際、ハインツに馬への治癒魔法をかけるように教示したのがメルネス自身である。
そんな王国の最高司令官が、国難に際して治癒師を総動員しないなどあり得ない。
都市マイアスを失って動揺していた民は、大英雄の到着に歓呼の声を上げた。
「侯爵閣下は、神速でいらっしゃいますな」
安堵した者の筆頭は、イルゼ子爵であったかもしれない。
リーランド帝国軍は都市イルゼにも迫っていたのだ。ロランやヴァレリア皇女のような大祝福2が敵にも居れば、すでに陥落していてもおかしくはなかった。
だがメルネス・アクスが来た時点で、都市イルゼの陥落は無くなった。
彼一人で一騎当千。
しかもバルフォア中将、カーライル中将、ブルックス中将、ケルナー中将ら大祝福2の大騎士団長たちを複数引き連れてやって来ている。その他にも、彼らと同格らしき者が2人並んでいる。
彼らにメルネス・アクス最高司令を含めれば7人。ディアナ・アクスを含めれば8人の大祝福2が到着したことになる。
「神速を名乗るのは、獣人帝国のアロイージオを超えてからだね。まずは役割を振ろう。バルフォア、全軍をまとめて防衛網を構築しろ。ブルックスは冒険者をまとめろ。カーライルは残りの者を引き連れ、イルゼ周辺の敵を蹴散らせ。深追いはするな」
都市イルゼ到着前から、いくつかの状況を想定して話し合っていたのだろう。
彼らは敬礼して踵を返すと、ディアナ侯女とユーニス・カミン司祭だけをこの場に残してすぐに動き出した。
「疲労しておられるのでは……」
「くっくっく…………」
「いや、これは失礼を申しました。ヴァレリア皇女は当家の屋敷に滞在しておいでです」
「ロラン・エグバードもかい?」
「いえ、彼は前線で敵を押し返しています」
「ディアナ、ロランを連れて来てくれ。話を聞きたい」
「了解だ、父上」
闇が支配した天空でわずかな星々がささやかな抵抗を始めた頃、ディアナ・アクス連れられてロラン・エグバードがようやく姿を現した。
ロランはリーランド軍を追い払うために必死で戦っていたが、ディアナが「ベイル王国が対策を練るために、最高司令官の父へ皇女と出会った経緯を報告しろ」と説得をして引き摺ってきた。
「まずはベイル王国へようこそ、ヴァレリア皇女。僕がトラファルガで戦死した折、貴女は5歳児であった。それ以前に面識はあるが、流石に覚えてはおられぬだろう」
「はい。アクス侯には多大なお力添えを頂きながら、誠に申し訳なく存じます」
「それは結構。ところでお名乗り頂きたい。貴女の姓名と身分を」
「ヴァレリア・インサフ、インサフ帝国の第一皇位継承権者です」
「………………確かに皇女で間違いないようだね」
メルネスの右手が剣から遠ざかったのに気付いたのは、この場ではユーニス・カミンだけであった。
「僕はメルネス・アクス。ベイル王国の最高司令官で、王国を4分割した西部方面の政務調整者だ。リーランド帝国に奪われた都市マイアスや、この都市イルゼも僕が受け持っている」
「…………」
「今、皇女はベイルという城の門前にいる。存立国の皇族は国賓だが、亡国の皇族は難民と変わりない。よって王城へ通すか通さないかは、門番である僕が決める。ではお話し頂こう。今回の派手な来訪の経緯と目的を」
この場に居合わせているのはメルネス、ディアナ侯女、ユーニス司祭、そしてロランとヴァレリア皇女の5人だけである。
館の主であるイルゼ子爵は、この場を提供しただけで同席はしていない。本来であれば、メルネスが一人で目的を確認したいところである。
「…………そのように伯爵位を得た兄バルトスに引き続き、私たちはインサフ姓を放棄する形でリーランド帝国に組み込まれる流れとなりました。内示があり、兄の領地で正式な話をされる直前だったのです。権利をリーランド帝国に譲渡しては、もはやインサフ帝国の状況を打開できないと考えました」
女性にしてアルテナ神殿の司祭と言う立場のユーニスを同席させているのは、ヴァレリア皇女への配慮を示していると他者へ見せると同時に、言いがかりを避けるためだ。
ロランが同席しているのは、経緯についてヴァレリアが嘘を言えなくするためで、ディアナはロランの抑え役として同席させている。
「…………冒険者ロラン・エグバードとは、そのように出会いました。彼を雇って脱出を試みたのですが、追手は国境をそのまま越えてきました。あとはベイル王国の方々がご存じのとおりです」
「成程。ところで先程の話によれば、皇女はインサフ帝国の解放を考えているのかな?」
メルネスが普段の「君は」を使わずに「皇女は」と言うのは、それだけ離れた心の距離を示している。
ユーニスが見るところ、メルネスは相当怒っていた。
(軍からも、民からも大勢の死者が出たもの。軍の最高司令官で、受け持っている西部方面の都市が奪われて5万人の難民が出て、怒るのは当然よね)
これに飛行艦によるハザノス・ラクマイア侵攻作戦の情報が加われば、ユーニスの確信はむしろ疑問へと変わっただろう。
なぜ人類存亡に関わる作戦を潰されて激発しないのかと。
ベイル王国やリーランド帝国を含む、生き残った一千万人以上の民衆の安全を高める作戦の決行間際であったのに。
「はい。インサフ帝国の解放が、帝位継承権者である私の責務ですから」
「では皇女は、ベイル王国には何を求めているのかな?」
「インサフ帝国解放の為の力添えを頂きたいと」
「敢えて問おうか、かつて全力で戦って滅亡したインサフ帝国のヴァレリア皇女。獣人を軽く蹴散らし、全ての人々を気軽に助けられるのであれば、躊躇わずに行くだろうね。なぜそれが困難であるのか、大祝福2台である皇女には分かるかな?」
普段漂々としているが、メルネス・アクスの愛国心が極めて高い事は周知の事実である。
トラファルガ会戦においては、自身の死と引き換えに殺戮のバルテルを殺している。そうやって死んだにもかかわらず未練を残し、墓から蘇って今も国のために戦っている。
メルネスに臆病者や不忠者と言えるような立派な人間は、周辺国に存在しない。
(あ、嫌味が始まった)
この中では騒動から最も離れた立場であるユーニスが、メルネスの嫌味をカウントしだした。
「獣人が強いからですか?」
「そうだね。大祝福2の皇女とロラン君は、リーランド帝国の大祝福1がどれだけ追って来ても逃げ切ることができた。大祝福の差はそれだけ大きい。そして獣人帝国には、大祝福3が幾人もいる」
この絶対的な壁が無ければ、数で勝る人類側にも勝機はあった。身体能力の平均値が高いだけの相手にならば、一般的な作戦が成立する余地もあっただろう。
「大祝福3が1人来るだけでも、皇女やロラン君は防げない。それで防ぎに行けと言う事は、死ねと言うに等しい。皇女やロランは、行けと言われれば従うのかな?」
「……いえ」
黙した皇女の代わりにロランが答えた。
「王国騎士は、命じられれば死地へ赴く」
なぜ王国騎士たちは死地へ赴くのか。それはベイル王国や民を守るためである。
騎士たちはその為に平時より裕福に暮らし、人々から敬服され、様付けで讃えられてきた。そんな騎士たちの生活のすべてを支えているのは、守られるベイル王国民である。
そのような考え方と関係性で王国騎士は成り立っている。
「でも無関係なインサフ帝国民を救うために死ねと言うのは、彼らへの理屈が通らない」
そもそもインサフ帝国へ獣人が侵攻してきた件に関して、ベイル王国にはいかなる過失もない。
「所以は無いが、人道のために他国で死んでこい」などと言われては騎士とて堪らない。そしてメルネス・アクスは、王国騎士の全てを指揮下に置く最高司令官である。
「それに、ベイル王国にはインサフ帝国の数十万人を含む多数の元難民がいる。王国は彼らに都市民権、衣食住、差別せずに職も与えた。皇女の要求は王国を揺るがし、ようやく得られた彼らの平穏を再び奪う事になる」
「それは……」
「挙句の果て、獣人帝国以前にリーランド帝国と戦えという状況だ。それで皇女の要求は、インサフ帝国を解放せよ。だったかな?」
(嫌味2個目)
ユーニスは、メルネスの婉曲な嫌味に嫌気が差してきた。
トラファルガ会戦の際にベイル王国最高司令官だったメルネスと5歳児だったヴァレリア皇女では、大人と子供の年齢差がある。いかに大祝福2同士とはいえ、両者は決して対等ではないのだ。
言うべきか、言わざるべきか。しばらく迷った後、ユーニスは嫌味に関しての決着を図った。
「ねぇメルネス。第三者として言わせてもらうわ」
「なんだい?」
「話をするなら、問題の本質を示すべきよ。それをしないから迂遠になるのだわ」
「君の言う本質とは何だい?」
「リーランド帝国との間に勃発した戦争によって人類同士が傷つけ合い、獣人帝国を利して、人類全体が支配される結果になるかもしれない。二人は人類滅亡の引き金を引いた可能性がある」
「それで?」
「……ううん、それだけ」


























