第10話 反撃
ベイル王国に属する全ての都市にあるアルテナの神宝珠の宝珠格は、合わせて60だ。すなわち人口300万。大国である。
南のディボー王国も人口275万であちらも大国だ。
北には3つの小国が隣接しており、3国のいずれを北上してもリーランド帝国の国土がある。
西には廃墟都市のさらに向こうにベイル王国全土よりも広大な森があり、スワップリザードの巨大沼地が内包されている。沼トカゲは竜人ではなく加護も祝福も無いただの化け物だ。
エルヴェ要塞のさらに東には、ハザノス王国が国境を接していた。そのさらに先にはインサフ帝国があった。
古くから大国として安定していたインサフ帝国は、長い歴史の間に莫大な富を抱えていた。人口も最大で、資源もたくさん抱え、外交も安定していた。広大な領土には強いモンスターもいて、冒険者たちの祝福の平均値すらも高かった。獣人帝国との人獣戦争を16年も耐えたのは、彼らがその全てを用いて、周辺国や冒険者の協力も惜しみなく得て総力戦を行ったからだ。
もしベイル王国がインサフ帝国の位置にあって、仮に最初にイェルハイド獣人帝国と戦っていれば、人の国々は態勢を整える間もなく、次々と制圧され支配されていたかもしれない。
今やインサフ帝国を含む4国が滅び、1国は西側から多大な援助を受けつつも滅びかけている。
そして、支配されかけた1国を含む6国が、獣人帝国の支配域と同時に国境を接し戦っている。
流石に侵攻速度は落ちている。強力な獣人帝国の各軍団が各国にバラバラに散ったためだ。戦争が6正面作戦になり、人類は辛うじて戦線を保っている。
だが、インサフ帝国に、そしてハザノス王国に、大軍勢を送って援護を続けてきたベイル王国は既に戦力を半壊させている。南のディボー王国など、多大な富を冒険者の大量雇用や魔導具の大量放出で相当減らし、加えて地形の差から国土もかなり失っている。
だから戦力に余裕はない。ベイル王国は同時にディボー王国側に侵入している獣人まで気にしなくてはいけないのだ。
国境に配備されている大型伝令鳥がもたらした前線の急報は、早馬で連絡が届いたコフランよりもさらに早く王都に届いていた。
「アンジェリカ王女殿下、それでは王都の守りが無くなりますぞ」
「エルヴェ要塞が落ちたら、フロイデン、ハグベリ、ヒルボリだけではなく要塞北側のアルスラガ、フェスラ、アルバレスまでいずれ敵の手に落ちます。軍が半壊している我が国は、最前線となるであろうコフランとアロネンの2都市を同時に守れますか?」
王城の戦略会議室には中央に広いテーブルがあり、王都からエルヴェ要塞、元ハザノス王国あたりまでの大まかな地図が広げられていた。机上には軍の配置を示す駒が置かれている。
壁の一面には何人かの偉大な大騎士団長の人物画が掲げられている。
一番右端には、古き人妖戦争の大英雄である初代大騎士団長の2人が並んでいる。彼らは歴代最強だった。
その後にも何枚か続き、一番左端にはインサフ帝国で戦死したメルネス大騎士団長。彼はインサフ帝国において、大勝利をもたらしたトラファルガ奪還作戦の功労者の一人だ。
彼らは皆、大祝福を2回受けたベイル王国の誇る真の英雄たちだった。大騎士団長を名乗れるのは大祝福2以上の騎士団長のみ。今、この国には大騎士団長自体が存在しない。
「強固なエルヴェ要塞都市に全戦力を投入できるからこそ、未だに国土を保っていられるのです。近衛騎士団とベックマンの緑玉騎士団、両方出して下さい。王都の守りは治安騎士で構いません。親征の王族には、わたくしが参ります」
「しかしっ」
「もうお黙りなさい。陛下、アンジェを信じて下さいますか?」
「……大きくなったの、アンジェリカや。いずれベイルはお前のものになるのだから好きにすると良い。だが、絶対に死ぬなよ?お前の父も、戦場で獣人に殺されておるのだ」
「はい。フォスター宰相、バウマン軍務大臣、わたくしは今すぐ出陣します。この服でまっすぐ厩舎に向かい、馬に乗って城門を開かせ、そのまま駆け出します。他の者が遅れるのならばわたくしは1人でもコフランへ向かいます。ついて来られる者だけついて参りなさい」
「ぐっ、アヒレス、ベックマン、行け!絶対に王女殿下を1人にするな!」
「了解。バルム近衛副団長、お前と3個小隊だけ留守番だ。あとは全部連れて行く」
「うちの騎士団はとっくに準備が出来ていますぜ。姫より遅くはならんでしょう」
Ep01-10
「ぐおおおおおおぉぉぉおおおおおおぉぉがああああああああっっ!!」
その馬鹿でかい声だけで、化け物が凄まじい勢いで迫って来ていると言う事が分かった。少しずつ迫って来ているのではない。その声はどんどん迫って来ていた。
あんなに大きな声を人間がどこから出せるのだろうか
『ライトスコール』
アドルフォが連れて来た魔導師が放った魔法の光が、ハインツ達の後方へ向かって突き進み、叫び声の上空で豪光となって大地へと降り注いだ。その大地に浮かぶ影が……数百。
(文明に関わらず魔法ってのは本当に便利だな……って、なんかすごく多いんだけどっ!)
「後方に獣人帝国軍を確認。数は400以上!大隊規模です!」
「くそっ、間に合わんかった!魔導師、フロイデン大橋上空に緊急信号弾を放て。黄色や!非冒険者に避難命令出せや!」
「了解!」
『イエローライトスコール』
こんどは前方に向かって打ち上げられた光が伸びて行き、上空で爆発して黄色い光を降らせた。
「続いて足止め、後方へ撃ちますっ!」
「よし、やれっ!」
『サンダースコール』
再び後方に撃ちこまれるマナの光。それは発光しながら鋭く伸びていき、獣人達の頭上で雷雨となった。
攻撃魔法を受け、先頭を走る獣人達の足並みが乱れる。
「ぐぉおおおおおおおおおおおおがががぁぁぁああああおおおおおおおっ!!」
一番前を走る獣人は直撃を浴びながらも疾走を止めない。
アドルフォはそれを見て、もはや逃げ切れないと判断した。このままでは乱戦になる。それでは数の差が大きすぎて勝負にならない。せめて陣形を作らなければならない。
「ええいっ、くそっ!5班は大街道に鉄菱を捲けや!1班は先行して、橋の非冒険者を西側に緊急避難させえや!あっちの冒険者には、橋の東側を守らせてこっちの撤退を支援させい!」』
「敵軍の魔導師から応撃が来ました!」
「ちっ。ハインツ、橋は壊されとる。同時に渡れるのは1人か2人や。同時には渡れん。足の速い順に行けや!」
「……分かった」
「ほんま理解が早くて助かるわ!」
ハインツはリーゼの手を引いて駆け出す事にした。
ミリーはそれに遅れずについてくる。
「待って下さいハインツ様、みんなが」
「アホ、プロの仕事取るなや。祝福1ケタの駆け出しなんか居たら、戦場は無駄な混乱するんや!祝福上げて出直せいっ」
「……っ」
「2班から4班、後ろにまわれ!せやけどまともに相手をするな。適当にあしらいながら、中等生の避難を援護せい!」
アドルフォはもはやリーゼに構わない。
「ぐぉおおおおおおおおおおおおおおおおおああああああああぁぁ!!」
「リーゼ、来い!」
「ですけれど!」
ハインツはリーゼの手を強引に引き、ついにフロイデン大橋に足を踏み込ませた。
「避難者が来たぞおっ!パーティごとに間隔を空けて迎撃陣を作れ!その合間から、中等生たちを西に逃がすんだ!」
「速く逃げろっ!作業員の避難はどうなっているっ!?」
「黄色信号弾の後、大半が撤収しています!」
(ていうか、異世界に来てまだ数時間しか経っていないぞ!?どう考えてもまだ半日は経ってないだろ?それなのにハードすぎるだろあほおおおっ!)
「うぉおおおっ!」
ハインツは橋を渡り切った。引っ張られてリーゼが、その横をミリーが、そして後ろからアドルフォが次々に続く。
わずかな安全が確保できた。そう思ってハインツは後方を見た。
「……マジかよ」
それは凄まじいグレイブの一撃だった。
中等生の後ろを守っていた冒険者の1人がグレイブの一撃で突き上げられ、空に舞い上がっていた。
その攻撃の速度はあまりにも速過ぎて、しかも威力が大き過ぎる。冒険者は受け身も取れずに地面へ上半身から落ち、そのまま動かなくなった。
そこには化け物が居た。
たった一撃で声も出せずに吹き飛ばされる冒険者たち。冒険者が弱いのではなく、敵が強過ぎるのだ。
その赤茶けた狼は、蛇が相手に飛びかかるような眼光で、喰らい尽すように口を大きく開け、鋭い牙をギラつかせ、射殺すように周囲を見渡して叫んだ。
「ぐああぁぁぁぁぁぁああああああおおおぉおおぉおおおおお!!」
力一杯に振り回される巨大なグレイブが、また別の冒険者を薙ぎ払う。冒険者は鎧ごと弾き飛ばされた。そしてそれで終わらない。
「ぎゃあああああああああっぁあ」
グレイブの先端が、転げた冒険者の胴を貫き地面にまで達した。
そしてゴリッゴリッ……ゴリッ。と、グレイブが冒険者の身体を貫いたままに捻じられる。
「ぁぁ……」
冒険者は体を貫かれたままに内臓を掻き回され、力を急速に失っていった。
もう動けない。言葉も出せない。絶対に助からない。
それを成した化け物は、満足そうにそれを眺めていた。
「みんな速く逃げろっ!橋を渡るんだ!」
「くそっ、あと少しと言う所で」
バーンハードは、中等生を護衛している冒険者たちを薙ぎ払っていった。
そして彼が連れてきた数多の部下たちは、中等生たちに次々と襲いかかる。
それは地獄絵図だった。まるでアリの巣に熱湯が注がれるかのように、人々は逃げ惑い、獣人たちは襲いかかっている。
ハインツは先に逃げた事をまったく後悔していない。こんな訳の分からない場所で、理由も分からずに死ぬ気は無い。
だが橋にはまだ沢山の人たちがいる。全然渡り切れていないのだ。撤退を援護していた護衛の冒険者たちが、それにここまで逃げてきた中等生が。
「金狼のガスパールっ!」
あまりの破壊力に、誰かが思わず叫んだ。
「ぐぉおおお?貴様、きさまぁ、きさまああああああっ!この俺を、おれをガスパール様と見間違えたのかああ?いいいぃぞ。なにが、どこがぁ、ガスパール様に見えたのだああ?いいえええ!」
「うああああぁっ!!」
不用意な一言を発した中等生が逃げ出そうとしたところを、遥かに足の速いバーンハードにあっさりと追いつかれ、力強く掴まれそのまま地面へと引きずり倒された。
首を掴まれ、呼吸が出来ない。
そしてそんな彼を誰もが助けられない。
むしろ今が幸いと皆が逃げだしていく。逃げずに残っても助けられないのだ。助けに行っても新しい死体を一つ増やすだけにしかならない。
バーンハードはグレイブを足元に捨て、両手を使って頭部と体をぐっと引っ張った。
ゴキッ。と低くて鈍い音がして、中等生の首が折れた。
だが、皮は伸びたが上手く千切れず、バーンハードはその首に牙を立てて引き裂いた。
首の皮があっさりと千切れる。
バーンハードは中等生の頭部を持ち、その胴体を踏みつけ、蹴り、蹴って、蹴り飛ばして、完全に頭部と胴体を分離させた。骨も、肉も、皮も全部だ。返り血を浴びたバーンハードの身体が真っ赤に染まる、
そしてもげた頭部の髪をしっかりと掴み直し、それをグルグルと振り回し、遠心力に任せて遠くへと投げ飛ばした。
中等生の頭部は大橋の反対側にまで達し、そこにいた橋の復旧作業員にぶつかって跳ね返り、そのまま大河へと落ちていった。
「うわああああ!?」
「ぎゃあああああっ!!」
大河の西側がパニックになる。200メートル以上の距離を、人の頭が勢いよく飛んで来たのだ。
バーンハードは愚かで卑小な人間どもをあざ笑い、大切なグレイブを拾い直した。尊敬するガスパール軍団長から賜ったグレイブだ。かつてガスパールが使っていた武器の一つで、武器の強化の度合いが尋常ではない。
「ガスパール様ならぁ、少し引くだけで千切れるがああ」
そう言って、バーンハードはついに橋に足を踏み込んだ。
最悪だった。
当初の計画から外れたアドルフォのサマーキャンプへの救護隊派遣は大失敗だった。
アドルフォは、大橋に辿り着く前に戦闘が開始されてろくな指揮が取れなかった。
大橋側にも指揮官代理は居たが、本当の指揮官が信号弾で指示を出しながら逃げてくる状況で混乱を極めた。
いや……アドルフォにとっては大失敗ではない。ようやく見つけた可能性を、獣人の手から逃がし切れた。アドルフォにとって救護隊の派遣は大成功だった。そう割り切り、次に為すべき事を考えた。
アドルフォにはアドルフォの優先順位があった。
「粗方が橋を渡ったら、橋を繋いどる足場を落として迎撃や!橋を渡った中等生たちはコフランに自力で逃げさせや!いや、兄ちゃん、あんたコフランまで行くんやろ?中等生守ったってや?報酬はわいがコフランで払うで」
「分かった」
「絶対に嫌です!」
「やっぱりっ!?」
ハインツの同意と、リーゼの明確な拒否と、ミリーがリーゼを掴むのは殆ど同時だった。
「ミリー離して!わたし助けに行くからっ!」
「駄目よっ。自分の祝福と、相手の祝福の差を計算してみなさいっ!」
「やっぱりって、どういう事だ?」
「リーゼは、思い込んだら言う事を聞かなくなるのよっ!しかも、一番危ない時だけ!」
「さっきまでは言う事を聞いていたのに!?」
「普段はとても素直なの。嫌なんて絶対に言わないわ。でも思い込んだら、絶対に曲げないわよ」
「マジか。好感度が足りて無い?」
「リーゼのハインツさんに対する好感度なら、どこから見ても最高でしょう!?この子はそんなの関係ないの!」
「ミリー離してっ!」
「……おい、攻略サイトはどこだ」
「とりあえず、なんとかしてよ。押さえているのも大変なのよ」
「……ぐぬぬ!」
ハインツは装備を確認する。
(ダガー3本と、ロングソード1本か)
そして敵を確認する。
「ぐぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉあぁああぁあああっ」
(…………まじか)
「祝福受けてない10人ほど、中等生の避難に付けや!キャンプ場での負傷者が結構おるで?馬車や!馬車ですぐに運んだれ!」
橋を渡り切った西側で、中等生たちが素早くまとめられて行く。
「リーゼ」
「ハインツ様!」
「分かったからそんな目で見るなって。いいか良く聞け?今から俺が、あいつを倒す。だからお前は動くな!アドルフォの言い分じゃないけど、どう考えても駆け出し冒険者の出る幕じゃない。失敗するかもしれないけど、まあなんとか……」
「ぐぉおおおおおおおおおおおおおおぉおぉおお!がああああああああああおおあああああ!!!」
「……なんとかなると良いなぁ」
決意を鈍らす嫌な叫び声が、対岸ではなく橋の上から聞こえてきた。
「バ、バーンハードがこちらへ向かって来ますっ!」
「橋落とせ!全滅するで!」
「しかしまだっ!」
『ファイヤーバーストッ!』
魔導師が咄嗟に放った魔法の爆発で、急遽取り付けた木製の板が派手に吹っ飛んだ。
「うああああああああああっ!!」
「ぎゃああああああああ」
何人かが大河に落とされ、あるいは爆風で足場の両側に飛ばされる。
ザバアアン……ドボーーン……と、水音が遥か下から聞こえてくる。
魔術師には分かっていた。
今ここを、よりにもよってバーンハードに渡られると、橋の西側にいる職人や若者、そして逃げ切れた中等生たち数百人の大半が死ぬと。
だから数十人を見捨てた。中堅冒険者としての正しく辛い判断だった。そしてそれをフォローするのは、より上位の冒険者であるアドルフォの役目だ。
「木の板や、板を投げて助けたれ!橋の奴らは大河に飛び降りい!大河を泳いで下流でこっち側に渡れぇ!弩兵、魔導師、援護したれ!足場は残らず壊せや!」
アドルフォが魔術師の罪悪感を減らす為に声を掛けた。
この大河は深く、水生のモンスターがいる。飛び込んで助かる者も居れば、助からない者も居る。確実な死よりマシだが、泳ぎたい奴は本来1人もいない。
落ちて行く、人が落ちて行く。バーンハードのグレイブが薙ぎ払うまでもなく、人々が自ら薙ぎ払われるように大河へと落ちて行った。
「ああ……竜の咆哮や」
中位竜を最高のパーティに加わって倒したアドルフォは知っている。バーンハードの雄叫びは、聞いた者の魂を揺さぶる叫び声だ。生存本能が逃げろと悲鳴を上げる。恐怖は正常な判断を失わせる。
化け物、バーンハードは化け物だった。大祝福を2回受けた者の強さは、これほどまでに圧倒的だ。
その化け物が、橋の先のアドルフォを睨みつけた。その目を見てアドルフォは確信する。
あれは、橋を落とされて諦めた眼ではない。あれは、大河を迂回する眼ではない。あれは、獲物を襲う眼だ。あれは、障害を排して一直線に襲ってくる眼だ。
バーンハードが橋を西に向かって駆け出した。地を飛び跳ねるように、漲る力で橋を力強く踏みしめながら助走を付けて。
そんな動きをハインツは狙っていた。自分が安全に勝てる最高の瞬間を。
『暗殺』
その刹那、アドルフォの横合いからバーンハードへと向けてダガーが飛んだ。それは、サマーキャンプ場で獣人冒険者たちから剥ぎ取ったダガーだった。
バーンハードが橋を飛び越えようと勢いを付けて走っていた刹那、まず1本目のダガーが飛んだ。
鋭く力強いダガーは、スキルの補正を受けてバーンハードの命を脅かす。だがバーンハードは、橋の上を駆けながら自らのプロテクターで弾いた。
金属同士が火花を散らして衝突し、バーンハード左腕には激痛が走った。衝撃でプロテクターが完全に壊れ、さらにバーンハードの腕を傷つけたのだ。
バーンハードのプロテクターは元々半壊していた。先程、都市フロイデンで殺されたベレンゲル騎士団長が残した成果だ。それでもバーンハードは耐え、止まらずに大きく飛んだ。
『暗殺』
二本目のダガーが飛んだ。
それはスキルの補正を受け、空中を飛ぶバーンハードの体の中心に向かって一直線に突き進んで行った。翼の無いバーンハードはその攻撃を避けられず、グレイブでダガーを弾き返して空中で体勢を大きく崩した。
だがそれでも勢いは止まらず、バーンハードは大河に落ちずに対岸に体が届いた。その刹那。
『暗殺』
3本目のダガーは飛んで来なかった。
ハインツは3本目のダガーの柄を握っていた。握ったままスキルを発動し、バーンハードの首筋に直接突き立てた。
バーンハードは、獣人の中でそのスキルを使える者を何度も見た。それは同じ軍団のイリーナ大隊長がよく使うスキルだ。
祝福70台後半の戦闘系探索者が使えるスキル。この国にそんな高位の冒険者はいないはずだ。バーンハード自身にも使えない。
探索者はアルテナから与えられた道ではないし、そもそも祝福60台後半のバーンハードでは覚えられない。
「……がああああああ?」
バーンハードは、自らの喉元にダガーが突き刺さるのを茫然と眺める事しか出来なかった。体の体勢が大きく崩れて防御ができず、その攻撃が避けられなかった。
対岸に手を付く刹那、喉を突かれてそのまま掻き斬られた。
(あああああぁ……)
バーンハードの脳から発せられるあらゆる信号が、首の下に伝わらなかった。なぜなら既に頚髄の上を断たれている。
ハインツは殺そうとしている敵にわざわざ医学を説明してやる気は無かった。代わりに、無言でそこを念入りに断つ。
バーンハードには力が、溢れ出る力が、漲る力がもはや感じられなかった。急速に身体の力が抜けて行く。
(あぁ……)
力で狩り、そして逆に狩られる。それは自然の摂理だ。
力こそ正義だ。力こそ絶対だ。力こそ全てだ。そして負けたのだ。相手の祝福はバーンハードより高い。相手の攻撃はバーンハードのプロテクターを上回った。バーンハードはそう感じた。
(なら……ば……良い……)
強い者に力で負けたのだ。それならば弱い自分が悪い。最後にそう考えて、バーンハードの意識は闇に落ちた。
「3回目でようやくスキルが成功したかぁ。マジで怖ぇえよ!」
ハインツはバーンハードの体を抱え、喉をさらに深く突いた。
もうバーンハードは死んでいる。だが、大隊長以外の獣人を蹴散らすと言う仕事が残っていた。今に至っても中等生が全員は逃げきっていない。
リーゼは絶対に助けると言うのだろう。だから、大隊長の首が必要なのだ。
ハインツが絶対的な強さを誇るバーンハードの首を片手で掴んで、バーンハードから奪ったグレイブを振り回しながら獣人に襲いかかれば、人獣で正反対の事態が起こる。
つまり、今度は数百人の獣人達が恐慌状態に陥って逃げていくだろう。
ハインツに上手くやれる自信は……ハッキリ言ってある。おまけにグレイブは、暗殺者時代によく振り回した武器の一つだ。持ち主だったバーンハードよりずっと上手く使える自信すらある。
「リーゼ、今からやる事は、獣人を追い散らして中等生を助ける為だからな?俺を誤解するなよ」
「……はい、分かりました」
だが、こんな事をすれば嫌われる。おまけに今日は、結婚初夜だ。何かこう、もっと違う事があるのではないか?
もっとこう……………………。
ハインツはそんな現実逃避をしつつ、野蛮な首狩り族の演技をやや過剰に開始した。人はそれを、八つ当たりと言う。
獣人たちの恐慌状態が大隊全体に伝播するまで、そう時間はかからなかった。