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第七話 友達の代価

「起きて」

(……だ、れ?)

 幾度目かの呼びかけに、ようやく樋口鴎は応じた。呼びかけた相手はホッとしたのか、安堵の吐息をもらす。

「私だよ、樋口カモメ」

(わ、たし……?)

 鴎の視界には、彼女自身が写っていた。彼女は暗闇にポツンと、衣服を着用せず体を丸めている。

「そう。私は、樋口カモメ」

(私が、樋口鴎、じゃないの……?)

 閉じていた目が開いた。その奥に、見慣れた人形が写っていた。

「ううん、僕たちが樋口カモメだよ」

(……カモメくん?)

「うん、僕も、私も」

 鴎は困惑していた。自分だと名乗る自分がいて、今の自分を含めた自分を樋口鴎だという自分がいて。

「わからないの?」

 人形が頷くのが見える。

「僕たちは、一つになるんだよ」

(どういう、こと……?)

「樋口鴎と、君が憧れていた樋口カモメが」

 彼女は、満面の笑みで腕を広げる。

「同化して、君の望む樋口カモメが、これからの人生を歩んでいってあげるんだよ」

(私の、代わりに?)

「そうだよ。君のことを一番理解している樋口カモメがね」

 脳裏に浮かぶ姿があった。集団の中で、ひっそりと過ごす自分の姿が。

(代わりに、痛みを受け止めてくれるの?)

 それはいつからだったのだろう。彼女が、他人と生活することに痛みを覚えたのは。

(守って、くれるの?)

 誰かと一緒にいるだけで呼吸が上手くできない。誰かがいるだけで動悸が速くなってゆく。誰かの声が聞こえるだけで落ち着かない。

「守ってあげる。僕が、私を」

 鴎はつらかった。誰かと一緒にいることが、たまらなく、苦しかった。

(ありがとう……)

 彼女は、一人を好んだ。痛くなかったから。

(本当に、ありがとう。私を助けてくれるなんて)

 そんな彼女に、何度も近づいてくれるような優しい人はいなかった。

「気にしなくていいよ。代価は、もらったから」

 一人でいたかったわけではない。でも、一人でいるしかなかった。

「さぁ。一緒に、樋口鴎になろう」

 本当は、誰かに助けを求めていた。他人が気付くはずのないSOSを出し続けていた。

(うん……)

 樋口鴎と、人形が重なり、光に包まれてゆく。

「私が、私の身代わりになってあげるよ」

 二つの願いが、まばゆい光とともに成就した。








第7話 友達の代価









「うっ、眩しい……やっぱ、ソファーで寝るもんじゃないな」

 翌日、瑠璃は司書室のソファーで目覚めを迎えていた。昨日は一日中、樋口鴎の様子を伺っていて、深夜毛布に包まって対面のソファーで眠りについた。

「あぁ、全然寝た気がしねぇ――って、あいつは!?」

 寝ぼけていたせいか、瑠璃はもう片方のソファーに樋口鴎の姿が無いことを見逃していた。毛布を蹴飛ばし、急いで立ち上がる。

「あ、あのぉ~」

「ちっ、ほんとにどこ行ったんだよ。毛布も無くなってるぞ」

 見渡すが、司書室に変化は無い。

「くそっ」

 悪態をつきつつ、瑠璃は書斎机に置いておいた制服の上着を着た。とりあえず、上の階にいる管理人に報告をしようと思ったのだろう。

「あ、あのっ!」

「ん?」

 どこからか声が聞こえたようなので、瑠璃は再び辺りを見渡す。やはり、異変はない。

「気のせいか……」

「ここです!」

 再度の呼び掛けに、瑠璃はようやく幻聴ではないこと自覚した。

「ここにいます!」

 声を頼りに足を運んでゆくと、鴎を寝かせていたはずのソファーに到着した。

「あっ……」

 ソファーの下に、一つの人形が落ちていた。メガネをかけた地味な少女をモチーフにした、目立たない人形が。

 

 








「おっはよ、あ~やめっ」

 テンション高く朝の挨拶をかわしてきたあやめの友達がいた。あやめは都丸を確認するなり、とても大きなため息を吐いた。

「都丸ちゃんは、気楽そうでいいっすね……」

「うっわ。それ、あやめだけには言われたくない」

 二人は、教室へ向かうために廊下を歩く。誰も掃除していないというのに、レイフォース学園の設備はいつもきれいで新品のようだった。

「で、何かあったの?」

「どうしてそんなこと聞くんですか」

「だって、明らかにテンション低いじゃん。いつもあたしが引くくらいにうるさいのに」

 あやめと違って、都丸は鞄を手にしていなかった。どうやら、一度教室に入ったのだと考えられる。

「わたしだって、ブルーになる時ぐらい……あります。いつもくるくる髪をいじってる都丸ちゃんと違って」

「ひ、ひどい、そんな風にあやめが思ってたなんて。あたし、立ち直れないかも……」

 都丸の軽いジョークに、あやめは乗ってこなかった。さすがに彼女は、あやめの明らかな異変を察知した。

「本当にどうしたの、あやめ」

 真面目な表情で尋ねる。

「あたしに話してみなよ。力になれるかもしんないよ」

(力に、なれるはずないよ)

 悩みの種は、樋口鴎の件だった。

「ねっ、ほら。あたし年上だし、色々と経験豊富だし」

 矢継ぎ早に言葉を並べ、都丸はあやめから聞き出そうと努力する。だがその努力は、今のあやめには不快でしかなかった。

(あぁもう、うるさいなぁ……都丸ちゃんは何も知らないくせに)

「……あっ」

「どうしたの?」

 何も知らない。それがキーワードだった。

(わたしは、知らなすぎるんだ……ううん、知ろうともしなかった。1週間もあの部屋に居させてもらったのに、あの時みたいにわたしは、日々に甘んじて、司書さんに甘えていただけで……)

 考えてゆくと、昨日の瑠璃の気持ちがわかり、追い出された理由がわかった気がした。

(わたしはまだ、スタートラインにすら立ててなかったんだ。何も知らないのに、自分勝手に意見なんかして……これじゃあ前と変わらないよ)

「そいえば、樋口の奴、なんかイメチェンしてきたみたいだったなぁ」

(わたし、何も変わっていない。変わろうともしていない、ただの道化……)

「えっ、都丸ちゃん。今なんて言いました?」

 突如耳に入ってきた思いもよらぬ人物の話に、あやめは自己反省を止めた。

 都丸は、ようやくあやめが話に食いついてきたのが嬉しいのか、満足げに語りだす。

「だから、樋口の奴、イメチェンしてきたんだよ。前はすごく地味なメガネをしてたのに、外して、髪型も変えてさ」

「どうして、ひーちゃん……」

 動ける状態では無かったのに、という疑問だったのだが、都丸には違う意味合いに聞こえたらしい。

「さぁ。なんか、外見も変ったと思ったらね、これが中身も全然違うの!」

「え……?」

「前と真逆で、嘘みたいに明るくてハキハキしてたの。前はオドオドしてたのにねぇ。あぁ、不思議だなぁ~。これが世にも奇妙な――って、あやめ!」

 あやめは居ても立っても居られなくなり、教室へと向かって走り出した。

 教室へ辿りつくと、いつものように一人座っているそれらしき女生徒がいた。

 それらしきというのは、髪型が確かに違っていたからだ。肩まで下していた髪を、横で一つにまとめている。

(うそ、だよね)

 けれど、それ以外に鴎らしき人物は見当たらない。あやめは知らず知らずのうちに口内にため込んでいた唾液を飲み込み、おそるおそるその女生徒へと近づいて行く。

 何者かが近づいてくる気配を察知したのか、女生徒は振り返り、気さくに挨拶をしてきた。

「おはよーっ、あやめちゃん」

 そこには、鴎がいた。メガネを外して、都丸の言った通りにイメージチェンジをした鴎が、確実にそこにいた。

(どうしてなんですか、ひーちゃん……)

 あやめは、肩に抱えていた鞄を床に落としていた。鴎は鞄を拾う。

「どうしたのかな? 私の顔に、何かついてるのかな?」

 鴎は、笑顔で鞄をあやめへと渡した。昨日までと、まるで別人だ。

(どうして、人形なんかの身代わりになったんですか)

「ねぇ、あやめちゃん。どうしたの?」

「……っ」

「何? よく聞こえないよ」

「偽物のくせに、ひーちゃんのふりをするなッ!」

 教室内にあやめの怒号が響き渡る。彼女のクラスメイトが皆一様に、あやめと鴎の方へと目を向けた。

「あやめちゃん、何言ってるの? 私は、樋口鴎だよ」

 鴎はあやめにしか聞こえない声で話を続ける。

「ほら。この指も、この腕も、この足も、この胸も…………この顔も」

 立ち上がり、あやめの耳元でささやいた。

「全部、樋口鴎でしょ……?」

「嘘だ!」

「嘘かどうかは、周りをみたらわかるんじゃないのかな?」

 妖しい笑みを浮かべている。あやめは、挑発に乗るように周りを見渡した。

 誰もがみんな、樋口鴎ではなく、周防あやめを見つめていた。明らかに、樋口鴎を不審に思うのではなく、周防あやめがおかしいのだと物語っていた。

「どうしたの、あやめ……」

 彼女の友人である斎藤都丸もまた、心配そうにあやめを見ていた。

「熱でもあるんじゃないの?」

「……わたしが、おかしいんですか?」

「うん、あやめがおかしいよ。だって、樋口は別におかしくないじゃん。確かにちょっと変わったかもしんないけど……でも、あやめの方がおかしいよ」

 唯一の頼み綱でもあった都丸も、あやめが間違っているという。

――実のところ、そこまで害がない。

(そうですね、司書さん)

――傍からすると、気付かないんじゃないか?

(そんなものなんですね、司書さん)

 自分の中の何かが崩れてゆく。あやめには、クラスメイト達のどよめきが、自分がおかしいとせせら笑っているように聞こえていた。吐き気とめまいを感じる。

「あやめ?」

(だけど、それで本当にいいんですか……? そういうものだって、割り切っていいんですか……?)

 途方に暮れるあやめは、この日常という世界から、変化についてゆくことができず、たった一人、置いていかれてしまった気がしていた。











「ふぅん……」

 螺旋図書館42階司書室で、瑠璃は先ほど拾った人形を眺めていた。舐めまわすような視線を向けている。

「なるほど」

 それは不気味な光景だった。どちらかといえば、強面の部類に属する男が腕を組み、人形を上下左右から、目を凝らして見つめているのだ。

 この光景をこっそり見ているものがいたとするならば、しかめ面をし、黙ってその場を立ち去ること間違いなしだろう。

「あ、あの!」

「ん?」

「その……あんまり見ないで……」

「あぁ、わかった」

 と言うものの、瑠璃はしばらく観察を止めなかった。やがてあきたのか、テーブルに乗せていた人形と対になるようにソファーへと座り、偉そうに足を組んだ。

「さて、一応聞いておくが、お前は誰だ? おれの覚えが正しければ、昨日の夜、間違いなくソファーに樋口鴎、なんていう傍迷惑な生徒が寝転がっていたんだが」

「す、すいません」

 メガネが描かれた地味な少女の人形は、表情を変えずに言葉を発する。

「多分、私がその樋口鴎です……」

「……多分?」

「ひっ!」

 睨むような視線が気になったのだろうか、怯えた声を出す。当たり前だが、表情は変わるはずはない。

「あぁ悪い悪い。元々こういう顔らしいから、あんまり気にしないでくれ。あと、年はおれの方が下だから適当に話してくれていい」

 ちょっとだけ傷つきながらも、はやく会話を進めたかった瑠璃は自虐的に訂正した。

「は、はい……」

「で、その多分って、どういう意味だ?」

「私、多分樋口鴎なんだけど……その、なんていうか、私の中の感覚が、私は樋口鴎の一部分だ、って言ってるような気がして」

「ふぅん、そうか」

「わかるの?」

「あぁ」

(まったくわからん)

 口先だけで納得したと思わせ、とりあえず次の話題を出すことにした。

「どこまで覚えている?」

「……夜になったとこまでは」

「なるほどね」

(どういうことかはわからないが、一日で入れ替わることができたってことだよな。おそらく、本当に入れ替わったんだろう。人形と、樋口鴎がそのまま……)

「あ、あの!」

 考えを一時中断し、首だけが動かせる人形の呼び掛けに応じた。

「二つほど、質問があるんだけど」

「答えられることなら、答える」

「どうして、私は喋れるの?」

 鴎が一番気になっていたことだった。自分が喋れる原理が理解できないのだろう。

「それはおそらく、あのマリオネットの力がまだ残っているんだろうな。直に喋られなくなる」

「……えっ?」

「心配するな。お前が一番喋りたいと願う相手とは喋れるさ」

 安堵した鴎は、もう一つのことを尋ねることにした。

「あの、あなたは誰?」

 尋ねられて、ようやく瑠璃は自分が自己紹介をしていないことに気付いた。瑠璃はあやめから樋口鴎のことをある程度は聞いていたが、どたばたしていたせいか、そういったこと当たり前のことをするのを忘れてしまい、何一つこなしていなかった。

「おれは、鴇田瑠璃。4月からこの学園で特別司書をしている」

 瑠璃は、同じ轍を踏むことは無かった。しっかりと、自分が何年生であるのか教える。

「見ればわかるとは思うが、特別奨励生徒として入学した一年生だ。一年生に見えないなんて言ったら、逆立ちさせてやるからな」

「い、言わないよ……あの、特別司書って?」

「あぁ、この学校っておかしいことだらけだろ?」

 おかしいことと言われ、鴎には思い浮かぶ案件があった。いつも黒板消しが勝手に、黒板を消したり、学食で注文をすると、空中をふらふらと注文したものが来たり、年中過ごしやすい気温で、天気も雲ひとつない晴天だということ。いくつもあった。

「特別司書は、ここでしか起きない不思議で不可思議な現象のトラブルが起きた際に、相談を受けて対応するのが仕事だ。まぁ、風紀員と似たようなものだと思ってくれていい」

 本当の役割は、51階に住まう管理人の指示に従い、レイシス及びレメシスを回収するということだが、それはあくまでも裏の役割。隠すわけではないのだが、表ではこうした説明をするよう言われていた。

「ちなみに、周防あやめも先週相談に来た」

「周防さんが……?」

「あぁ。お前が人形に取りつかれたように、周防もまた、鏡に魅入られてしまっていた…………なぁ、お前は、あいつの様子に変化を感じ取れたか?」

 鴎は、先週のあやめを思い出す。あやめは、なんの変わりも無かった。朝教室に来れば大きな声であいさつをし、自分にも声を掛けてくれて、いつも通りのお節介好きなクラスメイトに見えていた。

 人形は、何も言葉を発しなかった。

「まぁ、そうだろうな。でもあいつはな、醒めることのない悪夢を、7日間も延々と見せられて……それでもあいつは、助けを求めてこなかった」

「……それは、周防さんが強いから」

(あぁ、確かにあいつは強い……だけど)

「そうかもな。だけどおれはこう考えてる、あいつは誰より弱いって」

 瑠璃は目をつむった。先週、真実の鏡を通して覗き見てしまったあやめの本当の胸中を思い出す。思い出せば、実際の周防あやめという人間がどういうものなのか想像することができた。

「あいつは、人のために自己犠牲を恐れることなく、お節介を焼ける超希少種だ。あんな人間、おれはこれまで見たことはない」

「……じゃあ、どうして周防さんが弱いの?」

 目を開き、人形の目を見た。

「あいつは、自己破滅するタイプなんだよ。自分はどうでもいいけど、他の人はダメっていう奴だ」

「それは別に弱いわけじゃ――」

「それって、側にいる誰かが倒れるだけで、あいつは自己の呵責に押しつぶされるかも、ってことだよな。自分はどうでもいいけど、他の人は駄目。自分は救われなくてもいいけど、他の人は救いたい。なら、救えなかったら……? あいつが意識を持ってしていたお節介に、何の意味も無いと知ってしまったら、あいつはどうなると思う?」

 答えない鴎に、瑠璃は続ける。

「きっと、駄目になるだろうな。お前みたいな奴が、人形になるって知っただけであれほど気が動転していたんだ。今頃、お前じゃないお前が、お前の振りをして、何食わぬ面浮かべているところを発見して……はっ、絶望しているだろうな」

「そんなこと」

「そんなこと、って言い切れるか? お前だって、あいつと接してきて、周防という人間がどうしようもなく優しい奴だって、わかってんだろ?」

「……」

「ほら、弱いだろ。小石につまづいただけで立ち止まるんだ」

 鴎は何も答えない。ほんのひと時、静寂が場を支配していた。

 瑠璃は座りなおし、天井を見上げる。

「はっきり言って、おれはどうでもいい。おれには関係ないことだと割り切れる最低な男だからな、おれは」

 そして、再三にわたる問いを鴎にする。

「さて……樋口鴎、お前はどうだ?」

「……そんな、今さら言われても……遅いよ」

「そうだな、遅い。だけど、そう考えてるのはお前だけじゃない」

 鴎はやるせない気持ちになる。今さらそんなこと言われても遅い、その通りだった。

「……何がしたいの? 私を苦しませて、楽しいの?」

「さぁね」

 見上げていた視線を下した。 

「脱線したな、他に聞きたいことはあるか?」

「ありません……」

「そうか、じゃあおれから」

 明らかに瑠璃の気配が変わった。鴎に対して、刺すような視線を放つ。 

 瑠璃の視線の鋭さに、鋭利な刃物でも向けていられるんじゃないかと畏怖し、錯覚した。

「一つ、忠告する」

 しかし、それは誤解などではなかった。

「今夜、お前を殺す」

「えっ?」

「あの傍迷惑な人形と一緒に、この世から消し去る。覚悟しておけよ」

 それだけ言い放つと、瑠璃は司書室を出て行った。

 後に残された鴎は、突然の死の宣告に怯えながらも、自分は既に人形で、何もすることはできないことを悟り、暗欝とした気分に陥っていた。









「樋口さん、ちょっといいですか?」

「あやめちゃん?」

「ちょっと二人で話をしたいんです。いいですか?」

 昼休みの鐘が鳴ると同時に、周防あやめは、樋口鴎に近づいていた。

「ちょっとあやめ、止めなって」

 都丸は素早く止めに入った。さすがにこれ以上、あやめの奇行をさせるべきではないと思っていたのだろう。

「都丸ちゃん……」

 一瞬、あやめは怯んだ。しかしすぐに、睨むような怖い顔になる。

「止めないでください。わたしには、確かめたいことがあるんです」

「止めるよ。だって、あたしはあやめの友達だし。友達だったらこういうとき、止めるべきだと思う」

 都丸も睨む。いつのまにか二人は鋭く見つめ合い、一色即発の雰囲気になってゆく。

「いいよ、あやめちゃん」

 そんな雰囲気を切り裂くように、鴎は元気な声を上げた。

「じゃ、いこっか」

「はい」

 鴎が手を引いて、二人は教室を出て行った。

「あやめ……」

 都丸は、鴎が了承してしまったので何も言うことはできず、ただ心配そうにあやめを見送ることしかできなかった。




 鴎は、あやめの要望通り、二人になれる場所へと案内してきた。音楽室だ。ほとんど使われることのない教室であるばかりか、昼休みにここに訪れるなどという酔狂な者は、この学園にはいなかった。

 教壇へと進み、鴎は机に背中から寄りかかる。

「で、なにかな、あやめちゃん」

 にっこりとほほ笑みながら、鴎は言った。一々気の触る行動に、あやめは苛立つ。

「わかってますよね、わたしの要件は。わたしはただ、その体をひーちゃんに返してほしいだけなんです」

「どうして、あやめちゃんはそんなに私を疑うの? 私は樋口鴎だよぉ」

「……隠すつもりなんて、ありませんよね?」

 あやめの言う通り、彼女の態度は挑発しているだけで、隠そうとする素振りすら感じられない。

「ごめんごめん、ちょっとからかってただけだよ」

 鴎には余裕があった。なぜならば彼女は、あやめよりも、自分が正しいということを信じて疑っていなかったからだ。

「だけど、君は、勘違いをしている」

「……何をですか?」

「僕は樋口鴎。この事実に一寸の狂いもないんだよ。この事実をおかしいと思うほうが、常識の枠から外れている人間なんだ」

「そんなことはありません。捻じ曲げた事実を、正しいなんて言うほうが絶対におかしいです」

 瞳に迷いを見せず、堂々と語るあやめに、鴎は失笑した。

「何がおかしいんですか」

「おかしいよ。私は樋口鴎。世界の大半はこのことを疑うことは無いんだよ? それをたかが少数程度の人が、お前は違う、偽物だ、なんて言っても、大半という勢力は崩れないんだよ。多数が正しい。これはこれまでの人類が築いてきた一種の歴史なんだ」

「難しいことはわかりません。でもわたしは、自分が間違っているとさげずまれたとしても、わたしは、わたしの主張を貫き通します。誰が何と言おうと、あなたはひーちゃんじゃないんです」

「……ふふ、君は強いんだね」

「強くなんてありません。わたしはただ、正しいんです」

(わたしは絶対に、そういうものだって割り切ってやらない。だってわたしが、正しいんだ)

 数時間の間に、あやめはひたすらに考えていた。ひたすらに考えたが、彼女には策が浮かぶことはなかった。

(絶対に、わたしが正しい)

 それだけを信じて、ひたすら説得に出るという力技に頼ることにした。その手段に、大きな穴があるとは知らずに。

「正しい、ね……」

 鴎は寄りかかるのを止め、音楽室の中を歩きだした。背中で両手を重ね、窓際を歩いてゆく。

「それは、何に対しての正しいなんだろうね、あやめちゃん」

 一つ、あやめの心臓が大きく動いた。

「常識に対して? 世界に対して? それとも道理とか秩序?」

 もう一つ、大きな音を立てているように感じる。

「それとも、樋口鴎に対しての正しい?」

 小刻みに動き始める。だんだんと大きく、早く、抑えがきかなくなる。

「それとも……周防あやめに対しての正しい?」

「そんなこと、ない」

「本当に?」

 くるっと軽快に振り返り、あやめを見つめる。

「君の体は、そうは言ってないみたいだけど」

「……」

 何も言えなかった。体の震えを止めることはできない。

 ごまかすことなんてできなかった。ここでごまかせてしまえるような人間ではない。

「なるほどね」

 再び、鴎は歩き出した。床と上履きが接着するたびに、小気味良い音が音楽室に響いていく。

「君は知らないと思うけど。私がやっていることは、樋口鴎に対して正しいことなんだよ」

「……それは、あなた自身が、樋口鴎だからって……言うんですよね」

「もちろん、それもあるよ」

 テンポ良く、鴎は歩き続ける。

「それもあるけど、私はあくまでも、樋口鴎自身が望んだことをそのまま、体現化してあげているんだ」

 まるで、何かの演奏を意識して歩いているようだった。

「彼女はずっと望んでいた。自分を救ってくれる人が現れることを」

 あやめは何も喋らず、歩いている人物を見つめている。

「彼女はずっと憧れていた。普通に人と喋れて、普通に人と遊べることを」

 足が止まる、視線が交差する。

「本当におしかったんだ。あやめちゃんがあと一歩踏み出してくれれば、私は変われていたのかもしれなかった。あやめちゃんのお節介が、自己満足で終わらなければ良かった」

 先に視線を背けたのは、あやめだった。あやめは、床を見て、何も答えようとはしない。さっきまでの威勢のよさが嘘のようだ。

 あやめが黙ってしまったことにより、場は静まり返る。どちらかが口論の勝者であるのかは、はっきりしていた。二人の表情は明と暗、くっきりとわかれていた。

「心配なんてしなくていいよ」

 にっこりと笑みを浮かべ、鴎は話す。

「私はこれからも、樋口鴎の理解者であり続け、一番の友達であり続ける」

「どうして、そう言い切れるんですか……」

「それが契約だから。私は一生、私を大事にするんだよ」

「契約だから、大事にするんですか……」 

「そうだよ。私は、生を受ける代価として、彼女の一番であり続けるんだよ」

「そんなの、間違ってる」

 力なくあやめは呟く。闘志は微塵も感じられない。

「間違ってる間違ってないとか、そんなことは必要ない」

 鴎は再び歩き出し、今度はあやめへと近づいてゆく。どんどん距離が縮まってゆく。

「彼女がそう願ったんだ。そして彼女の願いを私が叶え、彼女もまた応えた。この関係に、部外者である君に、何か言えるのかな?」

 畳み掛けるように、鴎はあやめの耳元で囁く。

「言えないよね。だって君はただ、自分の間違いに気付きたくなくて、こんな行動をしているんだから。あくまでも自分自身のために」

 決定的だった。

(それでも、わたしは……!)

 声を大にして言ってやりたい。だけど、今しがたのセリフは、あやめにとって相当の効果があった。

「君が偽物だよ」

 悔しいのに、あやめは歯を痛いほどに噛みしめることしかできない。

「じゃ、これからも仲良くしてね。あやめちゃん」

 鴎は、あやめの肩を軽く叩き、音楽室を去って行った。

「…………勇人、わたし……っ」

 あやめは悔しさのあまり涙を流していた。

 しかしその涙が、どんな意味を持っているのかは、自分自身でも理解することはできなかった。

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