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はじまりは、図書室。  作者: 虹色
『HAPPY MAGIC』
88/95

9  3月1日(火) しっかり者の理由


明るい光の中を彼女と歩く。

のんびりと。

ゆっくりと。


彼女はかすかに微笑んで、空や周囲の景色を眺めている。

二つに結んだ長い髪が、ときおり吹く風にふわりとそよぐ。


(これも初めてだ……。)


どうやら俺の高校最後の日は初めてづくしらしい。

俺にはこんなにたくさん “やったことがないこと” があるのだ。

そんな高校生活だったけれど、何故か、無駄に過ごしたとは思わない。


前回、彼女と歩いたときは暗かった。

冷たい風が落ち葉を飛ばしていた。

あのときは ――― いや、さっきまで、こんなことが起こるとは思っていなかった。


話したいと思っていたのに、今は何も話題が浮かんで来ない。

彼女が隣を歩いているだけで、十分な気がしている。


(でも……、話さなくちゃ。)


今しかないのだから。

今日で終わりなのだから。


「あの。」


俺の声に彼女が反応した。

軽く見上げる瞳は、やっぱり何かを隠しているようだった。


「名前……(あんず)っていうんだね……。」


急に彼女は可笑しそうな顔をした。

そしてすぐにうつむいてくすくす笑い出した。


「やっぱりね。」


と言って。


それを見て、俺は失敗に気付いた。

彼女を忘れていたことを白状してしまったのだ。


慌てて謝ろうとすると、彼女は微笑んだまま澄んだ瞳をぱっちりと開けて俺を見つめた。


「変な名前、じゃない?」


「 ――― え?」


戸惑う俺に、彼女が続けて言う。


「野村くんが言ったのよ? 『杏って、変な名前。』って。」


「えっ?!」


まったく記憶にない。

そんな失礼なことを言っておきながら何も覚えていないなんて……。


「あの、ごめん。その、ええと、いつ……?」


しどろもどろになった俺を彼女はまたくすくすと笑い、からかうような表情で答えた。


「一緒だったのは一年のときの美術だけど……。」


(一年のとき?! おとなしくしていたつもりだったのに、そんなことを……?)


汗が噴き出してくる。

高校生にもなって、他人の名前を馬鹿にするようなことを言ったなんて。

しかも、自分の傲慢さに嫌気がさしていたはずなのに。


呆然とする俺を見ながら彼女は「ふふっ。」と笑った。


「言われたのはもっと前。小学校5年生のとき。」


「小学校……?」


少しほっとした。

あのころなら、それくらいのことをやっていても不思議じゃない。

それにしても、まったく覚えていないのはどうしてなんだろう?


「そう。中浜第二小学校5年3組。わたしは夏休みに転校しちゃったけど。」


「転校……。」


「そうよ。だから忘れてて当然。たった4か月しか一緒じゃなかったし、卒業アルバムにも載ってないもの。」


小学5年生のころ……。

あのころは楽しかった。

何も考えないでふざけていられた。


「わたしね、高一の美術の授業で野村くんだって気付いたとき、絶対に顔を合わせたくないって思ったの。」


「あ……、そんなに傷付いたんだ……。ごめん……。」


落ち込む俺に、彼女は笑って言った。


「ああ、違うの。名前を笑われたことじゃなくて。」


「じゃあ……?」


「転校した理由がちょっとね……。知られてたら嫌だな、と思って……。」


そう言いながら少し遠い目をする彼女。

何か辛いことがあったのだろうか。


「あのときね、父が事業に失敗して。」


「え?」


びっくりした。

個人的な重い話題をサラッと話し出したから。

知られていたら嫌だと言ったすぐあとに。


「すごかったの。仕事の相手先の人が家の前で大きな声を出したりして。とっても怖かった。」


(家にまで……。)


小学生の少女にとって、家の前で大声を出すおとなはどれほど怖かっただろう?

だからあの日、彼女は「借金取り」なんて言ったのだろうか?

痴漢や幽霊よりも現実味を帯びた怖いものとして。


「姉と一緒に夜におばあちゃんの家に連れて行かれて、夏休み中、そこにいたの。で、『新しい家よ。』って連れて来られたのが今の家。古いアパートなの。部屋も二つしかなくて。そのときに、 “ああ、うちって貧乏になったんだ” って思ったのを覚えてる。」


ちょっと情けなさそうな顔で、諦めたように彼女が微笑む。

それを見ながら、俺がこんな話を聞いてもいいのだろうか、と思う。

けれど、彼女の態度は気楽そうで、話しながらほっとしているようでもあった。


「それまではね、結構大きな家に住んでいたし、うちはお金持ちなんだって、子どもなりに自覚していたの。お友達にも羨ましがられていたし。中学受験をして、『ごきげんよう。』なんてあいさつをするお嬢様学校に行くつもりだったのよね。」


懐かしい目をして彼女は語り続ける。


「なのに、外でわめかれたりしたでしょう? 近所中がうちが貧乏になったことを知ってるって思った。学校でも噂になったと思った。だから、絶対にあの小学校のひとには会いたくなかったの。」


そこまで言うと、彼女は俺を見て微笑んだ。


「だから、野村くんがわたしに気付かなくてほっとしたの。」


「ああ……、そう……。」


じゃあ、俺が忘れていたことは、彼女にとっては良かったってことだ。

なんだか俺もほっとした。


彼女はまた遠い目をして話し始めた。


「引っ越したばかりのころは、貧しいことが恥ずかしかったし辛かった。新しい服は買えないし、お部屋だって、狭い部屋をお姉ちゃんと共同で使うことになって。そういうことを、新しい学校のみんなに知られたくないと思った。」


急激な変化できっと辛かっただろうと思う。

けれど、今の彼女の表情からは、そんな辛さは感じられない。


「でもね、いつの間にか笑ってたの。お姉ちゃんや両親と一緒にご飯を食べてるときとか、学校で誰かが面白いことを言ったときとか。」


そう言って、彼女は微笑んだ。


「わたしには、まだこんなに笑えることがあるんだ、って思ったの。お金がなくても楽しいことはたくさんあるんだって気付いたの。」


優しくて、素直な微笑み。

その後ろに、辛いことを乗り越えた強さを秘めて。


「今でもやっぱり、貧乏で恥ずかしいなって思っちゃうんだけどね。ふふ。でもわたし、今の自分で勝負するの。なくなってしまったもののことを考えても意味がないから。」


(「今の自分で」……。)


児玉先生の言った「身に付けた知識は」という言葉が浮かんできた。

置かれた環境がどうであれ、 “自分” を自分自身で意識すること。

自分を見失わないこと……。


(彼女は自分で見付けたんだ。)


誰に言われなくても、毎日の生活の中で。

だからこんなにしっかりしているんだ。

辛い経験で、早くおとなにならなくてはいけなかったのかも知れないけれど。


「でもね。」


ぼんやりしていた俺の耳に聞こえた声は楽しげだった。


「今の悩みは大学に通う服なの。制服みたいに毎日同じってわけにはいかないものね。やっぱりお金がないと不便ね。」


明るい笑顔でそう言った彼女がまぶしい。


「お金があってもセンスがないと、もっと悲惨だと思うよ。」


ふいに口をついて出た言葉に、彼女が「ほんとにね!」と笑った。

穏やかな春の日にふさわしい、軽やかな笑い声だった。







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