8 3月1日(火) 雪見さんの魔法
(やっぱり俺には、かかるわけないよな。)
図書室のいつもの席で、自分を笑う。
図書室の魔法。
雪見さんの幸せのおすそ分け。
(べつに、彼女のことを好きだっていうわけじゃないし。)
そう。
最初から、彼女には好きな相手がいたのだから。
それに、俺はただ、もう少し話してみたかっただけなのだ。
すっきりした気持ちで背筋を伸ばして、もう一度、図書室を見回してみる。
今は誰もいないけれど、この一年にここに来た生徒たちの楽しい気分が空気に溶け込んでいるような気がした。
(この学校に通ってよかった。)
今、心からそう思う。
児玉先生や雪見さんに出会えたから。
気持ちを分かってくれる人がいると知ることができたから。
(そろそろ帰ろう。)
そういえば、腹が減った。
家まで遠いから、コンビニで何か買って食べてみようか?
「ふ……。」
思わず笑ってしまった。
学校帰りにコンビニで何か買って食べるなんて、初めてだ。
最後の日に、また初めてのことがある。
立ち上がって、荷物を持って。
司書室の中をのぞいて。
「雪見さん。」
初めて呼んでみた。
奥の本棚の間にいた雪見さんが振り向いてにっこりした。
それを見て思った。
呼びかければ、こっちを見てもらえる ――― 。
当たり前のことだけど、こんなに嬉しくて、ありがたいことなのだ。
「もう行く?」
近付いてきた雪見さんが尋ねた。
「はい。」
俺は晴れやかな顔をしているだろうか?
思い出をくれた図書室に ――― 雪見さんに、感謝の気持ちを伝えたいけれど……。
「お世話になりました。」
そう言って頭を下げると、頭の上で雪見さんの「僕は何もしてないよ。」という温かい声がした。
その声に、2年生の個人面談で、同じことを言った児玉先生の声が重なった。
廊下まで送ってくれた雪見さんに、最後にもう一度お礼を言った。
向かい合った雪見さんは、いつものとおり、穏やかに微笑んだ。
「頑張り屋の野村くんなら、これからも絶対、大丈夫だよ。」
そして。
手を伸ばして、俺の頭をぽんぽんと優しく叩いた。
励ますように。
祝福するように。
その手の温かさに胸が詰まって、泣かないように、思い切って笑ってみせた。
それに応えてもう一度微笑んだ雪見さんに背を向けて、まっすぐに歩き始める。
堂々として見えるように。
安心してもらえるように。
階段を降りる前に振り向いたら、もう雪見さんはいなかった。
(また、「お幸せに。」って言うのを忘れた……。)
階段を降りながら思い出した。
きっと、言い慣れない言葉だから、簡単には思い出さないのだ。
(まあ、あの二人なら、俺が言う必要はないだろうな。)
雪見さんが俺に言ったとおりの言葉を思い浮かべる。
「絶対、大丈夫」と。
1階の廊下の窓から見える自転車置き場では、まだ立ち話をしている生徒がいる。
昇降口の向こうに見える中庭には、楽しげに写真を撮り合っているグループが。
校舎のあちこちではお別れ会をやっている部もあるはずだ。
昇降口の下駄箱を数えるような気分で自分の場所へ向かう。
卒業アルバムや卒業証書で荷物がかさばっているけれど、今日は面倒だとは感じない。
これは、俺がこの学校にいたという証だから。
8組の下駄箱へと足を踏み出すと、前方で黒い人影が立ち上がった。
中庭からの逆光でよく見えなかったけれど、どうやら傘立てに座っていたらしい。
間違いなく俺に向かって近付いてくるそのひとは ――― 。
「野村くん。」
霧原さんだった。
(どうして……?)
待っていたのだろうか?
俺を……?
「あの……。」
何を言ったらいいのか分からない。
尋ねてみるのも怖い。
ぼんやりと彼女を見ているしかない俺に、彼女は穏やかに微笑んだ。
「最後にお話ししたいな、と思って。」
(雪見さんの魔法……。)
すぐに浮かんだのはそんな考え。
(かかったのだろうか? 俺にも?)
頭に、さっき雪見さんに触れられた感触がよみがえる。
励ますような。
祝福するような。
「ええ、と、あの……、ありがとう。」
何故か急に恥ずかしくなってしまった。
急いで下駄箱の方を向きながら、話題を探す。
「あの、よく分かったね。俺がまだ残ってるって。」
変に早口になってしまい、ちょっと落ち込む。
同時に頬が熱くなった。
(なんでだよ……。)
こんな反応、変だ。
彼女は気付かない様子で、「うん。」と言いながら、俺の下駄箱を指さした。
「そこに靴が残っていたから。」
「あ……、知ってた……?」
間抜けな顔をしているような気がする。
頬も熱いままだし。
「だって、見たもの。帰るとき。」
そう言えばそうだった。
ここでさよならのあいさつをしたんだっけ。
(そうだ。自転車通学なんだ……。)
今日は本当にさよならだ。
ここで。
「あの、」
と、俺が口を開いた途端、彼女の言葉が耳に入った。
「今日は最後だからと思ってバスで来たの。一緒に駅まで行ってもいい?」
「え? ……俺と?」
パッとしない答えだ。
と言うか、答えにもなっていない。
だけど。
(いったいどうしちゃったんだろう?)
嬉しいのだ。
笑い出したいくらい。
彼女には好きな男がいるのに。
だから喜んじゃダメなのに。
「うん。……困る、かな? 最後の日だから一人で帰りたい?」
「い、いや、そんなこと!」
あまりにも素早い否定で、また恥ずかしくなってしまった。
彼女が俺の気持ちに気付いたら……。
( “俺の気持ち” って……。)
そんなもの、無い。
ただ……、話したいと思っていただけだ。
なのに。
「よかった。」
と言った彼女の声を聞きながら、鼓動が高まるのを抑えられない。
笑い出しそうになるのをこらえて、真面目な顔をするのが難しい。
(落ち着け、落ち着け。ただ一緒に駅まで行くだけなんだから。ただ話をするだけなんだから。)
時間を稼ぐためにゆっくりと靴を履き替えながら、こっそり深呼吸をした。
明るい外に出る前に頬の熱が冷めるようにと祈った。
その間もずっと、雪見さんの魔法のことが頭を離れなかった。




