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はじまりは、図書室。  作者: 虹色
『HAPPY MAGIC』
86/95

7  回想(6)


彼女と言葉を交わしたのはもう一度だけ。

その翌日のことだった。


図書室の閉館時間で出るときに、彼女の方から声を掛けてきた。


「きのうはありがとう。」


明るい図書室の照明の下でも、彼女の瞳は深い湖のようだった。


「こちらこそ、チョコレート、ありがとう。」


自然に言葉が出て、自分で驚いた。

声を掛けてもらったことにほっとしていることにも。


「コンビニがあって良かったね。暗い道はやっぱり怖いから。」


俺の言葉に彼女はクスリと笑った。

そして、謎めいた微笑みを見せながら言った。


「そうね。借金取りが出るかも知れないから。」


「借金取り?」


暗い道で怖いものと言えば、痴漢や幽霊だと思う。

なのに「借金取り」なんて言った彼女にびっくりした。


「そうよ。『借金のかたに娘を連れて行く!』って、さらわれたら怖いでしょう?」


「そりゃあ、怖いけど……。」


今どきそんな話があるのだろうかと思ったとき、彼女が下を向いて笑っていることに気付いた。

単に、俺をからかっただけだったのだ。


それに気付いても、俺を笑っている彼女を怒る気にはならなかった。

彼女のユーモアを面白いと思った……だけじゃない。

俺は自分がからかわれたことが嬉しかったのだ。

彼女が俺を近しく思ってくれている気がして。


昇降口に着くと、彼女は一番手前の下駄箱に向かった。

1組と2組の場所だ。

下駄箱は2クラスずつ並んで向かい合っていて、8組の俺は4つ目の下駄箱の中庭側。

端から2列目の一番上が割り当てられている。


先に靴を履いた彼女が小走りにやって来る足音が聞こえた。

上履きをしまってから振り向いた俺に、彼女は頭を下げた。


「では、さようなら。」


そうだった。

彼女は自転車通学だったのだ。

そのときまで、すっかり一緒に駅まで歩くつもりでいた自分に呆れた。

勝手な思い込みをしていた照れくささを隠すため、俺もふざけて丁寧に頭を下げた。


「はい。気を付けて。」


彼女はにっこりと笑い、楽しげな足取りで歩み去った。

校舎の間を自転車置き場に抜ける手前で振り向いて手を振ったのが、薄暗い校舎の照明の中に見えた。

それを見送りながら、彼女にふざけてみせたりした自分に戸惑いを感じていた。



それ以来、彼女と話す機会はなかった。

彼女は毎日図書室に来ていたけれど、帰りに一緒にはならなかった。

クラスが離れているせいか、校内ですれ違うこともなかった。

名前も相変わらず分からなかった。


俺は、図書室で編み物をしている彼女を、ただ確認するように見ていた。

ときどき顔を上げて。

なんとなく懐かしい気持ちで。


彼女の編んでいたのはマフラーだった。

水色のマフラーは、彼女の手の動きにしたがって、少しずつ長くなって行った。

その長さに比例するように、俺が顔を上げる回数が増えて行った……ような気がする。


長くなることは終わりに近づくことだと思うと、少し淋しい気がした。

だんだんと、彼女が図書室の景色の一部になっていたから。


12月の半ばごろ、視界の隅で動きがあって目を上げた。

自由席の彼女が両手を上にあげて伸びをしていた。

その右手に握っている編み棒には、もう毛糸が巻き付いてはいなかった。

マフラーが仕上がったのだ。


そして、彼女は図書室に来なくなった ――― 。




冬休みが明けたあと、朝や放課後に周りを見回している自分に気付いた。

見回したり、窓から見下ろしたり。

俺は探していたのだ。

水色のマフラーを。


そんなことをしている自分を馬鹿みたいだと思った。

彼女が誰を好きだろうと構わないのに。

俺には関係ないのに。


もしかしたら、俺は野次馬根性が旺盛なのかも知れない。

雪見さんと児玉先生のことも、ずっと気になっていたし。


でも、何日過ぎても見つからなかった。

そのうちに気付いた。

相手はうちの学校の生徒とは限らない、ということに。


そのまま俺たちは受験シーズンに突入し、3年生は自由登校になった。

俺は彼女のことは気にしないことにして、受験に集中した。






そして、今日の卒業式。


おとといときのうは登校日で、受験日と被っていない生徒は出て来ていた。

卒業式の練習をしながら、一度だけ彼女を見かけた。

そして、気付いた。


卒業式では一人ずつ名前を呼ばれる。

そのときに彼女の名前が分かるはずだ。


1組か2組だということは分かっている。

俺は8組だから、絶対に彼女よりも後方の席にいる。

彼女の後ろ姿は見間違えようがない。

あとは先生がしっかり呼んでくれるかどうかだけど、卒業式なのだから大丈夫だろう。

そう期待していた。


この学校最後の日にようやく名前が分かるなんて、変かも知れない。

もう会わなくなる相手の名前を知っても意味がないことも分かっている。


けれど、知りたかった。

名前くらいは。



普段なら退屈に感じる卒業式。

自分が卒業生でも、在校生の立場でも、ただ立ったり座ったり歌ったり、というだけのものだった。


でも、今年は違う。


事前に渡された式次第には、卒業生全員の名前が載っていた。

でも、それだけではどれが彼女の名前なのかは分からない。

担任が呼ぶ名前をしっかり聞こうと、緊張してその瞬間を待った。



1組から順番に名前が呼ばれ始めた。

呼ばれるたびに一人ずつ立ち上がり、全員を呼び終わったところで代表が壇上に卒業証書を受け取りに行く。


1組には彼女はいなかった。

けれど、壇上の代表を見ていたら、彼女が髪型を変えていたら分からないかも知れないと気付いた。

その考えが思いもよらないほどショックで、胸が痛くなった。

そんなに大きなショックを受けた自分にびっくりして、今度は鼓動が大きくなったり、汗が噴き出してきたりした。

彼女の名前を知ることがどうしてそんなに重要なのか、そのときも今も、全然分からない。


俺の心配は的中せず、2組の途中で問題は解決した。


「きりはら あんず。」


という先生の声に「はい。」と立ち上がったのが彼女だった。


一瞬、ほっとして忘れそうになった。

慌てて記憶を巻き戻して、「きりはら あんず」という名前をインプットした。

その場に式次第は持ってきていなかったけれど、「あんず」という名前なら、あとで見ればすぐに分かると思った。

そうやって記憶したせいか、式のあいだずっと、2組の先生の「きりはら あんず」と呼ぶ声と「はい。」という彼女の返事が頭の中に繰り返し聞こえていた。

そのリフレインを聞きながら、やっぱりその名前も記憶にないな、と思った。


式が終わってから教室で名簿を確認すると、2組に「霧原 杏」という名前が載っていた。

それを見ていたら、駅まで一緒に行った日のことを思い出して、懐かしい気持ちがこみ上げてきた。

たった10分程度のことをこんなに懐かしく思うのは、俺がこの学校でちゃんと人間関係を築けなかったせいだろう。

クラスからはみ出すことはなかったけれど、俺には特に親しい友人といえる相手がいなかったから。


最後の日にようやく名前を知った。

けれど、彼女の名前を口にすることはないだろう。

それだけじゃなく、彼女と話すこともない。


(もう一度、話したかったな……。)


今、図書室にこうやって座っていて、初めて分かった。

ずっと引っ掛かっていたこと。心残りだったこと。


彼女ともっと話したかったのだ。

何を、というわけじゃない。

話して………、そう、ただ、話したかった。

よく分からないけど、二人でいろいろな話をしたかった。


(でも、もう遅い……。)


今日で終わりだから。

卒業したら、もう彼女との接点はない ――― 。







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