6 回想(5)
俺の声に彼女が顔を上げた。
そして、
「ああ、野村くん。」
と、ほっとしたように微笑んだ。
俺はものすごく驚いた。彼女とは知り合いじゃないと思っていたから。
覚えていなかったことが申し訳なくて、大急ぎで記憶をさぐった。
けれど、彼女の顔も名前もまったく思い当たらなかった。
とりあえずそのことを隠しながら、どうしたのか訊いてみた。
すると彼女は、自転車のライトの電池が切れたらしい、と答えた。
「無灯火って違反なんでしょう? 途中に暗いところもあるし……。」
そう言って、困った様子でため息をついた。
家までどのくらいかかるのかと尋ねると、自転車で20分くらいだと言う。
歩いたら一時間近くかかるのだろうか。
「バスが駅から出ているけど、バス停と家もちょっと歩くのよね……。それに、自転車を学校に置きに戻らなくちゃならないし……。」
彼女が学校の方を振り返って憂うつそうに言った。
学校からの道は部活帰りの生徒が歩いている。
その道を逆方向に歩くのは気が進まないのだろう。
彼女がそうすると言うのなら、学校まで一緒に戻ってあげてもいいと思った。
でも、すでに暗くなっている時間でもあり、バスで回り道をする方法を勧めるのはためらわれた。
かと言って、無責任に「ライトが点かないくらい平気だよ。」なんて言うこともできない。
途中でおまわりさんに叱られたり、事故に遭ったりしないとは限らない。
停めた自転車の横で考え込んでいる俺たちの横を、生徒が何人も通り過ぎて行った。
迷いながら何分かたったころ。
ふと考えついた。
とても簡単なことだった。
電池を買って、入れ替えればよかったのだ。
「駅前のコンビニで電池を買えばいいんじゃないかな?」
そう俺が言うと、彼女はぽんと手を合わせて「そうだ。」と、にっこりした。
そして、「さすが野村くん。」と言って俺の顔を見た。
その笑顔を見ても、やっぱり彼女が誰なのか思い出せなかった。
そのまま自転車を引く彼女と並んで駅まで歩いた。
それ以外に選択肢がなかったから。
住宅街を駅へと抜ける道。
街灯から街灯へと進むたび、俺たちと自転車の影が伸びたり縮んだりした。
風に吹かれた落ち葉がカサカサと靴にぶつかった。
「進路は決まったの?」
黙っていると気まずい気がして、俺は尋ねた。
彼女の名前を呼ばなくてもいいように、慎重に言葉を選んで。
「推薦の結果待ちなの。」
彼女は答えた。
「父が、公立の看護科なら行ってもいいって言ってくれたから。看護師ならひとの役にたつ仕事だし、求人もたくさんありそうだしね。」
自分の将来をきちんと考えている彼女を尊敬した。
それに比べて自分は何をしてきたのか……と思うと、情けなかった。
「わたし、邪魔かな?」
少しの間のあと、彼女が尋ねた。
何のことを訊かれたのか分からなくて見返すと、彼女は「図書室。」と言った。
「みんなが勉強しているところで編み物なんかしてたら、気になる?」
と。
「いや、全然。」
と俺が答えると、彼女はほっとした笑顔を見せた。
「よかった。教室に一人で残ってるのは怖いから。」
「ああ、今はすぐに暗くなっちゃうから。……家でやったら?」
言ってから、これでは邪魔だと言っていると誤解されるのではないかと思って焦った。
けれど、彼女はそうは受け取らなかったようだった。
「ダメなの。家でやったらバレちゃうから。」
当然だ。
好きなひとにあげる編み物なんだから、家族には知られたくないに決まってる。
そう気付いてから、このしっかり者の彼女が好きなのはどんな男なのだろう、とぼんやりと考えた。
彼女はあまりおしゃべりなひとではなかった。
ゆったりと落ち着いたペースの話し方は大人っぽい感じだった。
暗かったせいか、大きな瞳は真っ黒で、深い森の奥の湖みたいだと思った。
その瞳でちらりとこちらを見てから「フフフ」と笑う様子は、何か秘密を持っているように見えた。
それを尋ねるべきなのか、尋ねない方がいいのか……、どうしたらいいのかわからなくて困った。
もともと人付き合いが上手くない俺では、話が盛り上がることはないのは当然のことだった。
それでも授業や先生の話をしながら、同じことを面白がったりできるとほっとした。
話していると、彼女が勉強をしっかりしている真面目なひとだと分かった。
初対面の相手と(彼女にとっては違うらしいけれど)ゆっくりとでも会話が続いたことが、自分でも意外だった。
リラックスして笑っている自分に気付いて、こんなこともあるんだなあ、と思った。
コンビニに着いたときには、いつもよりも近かったような気がした。
「電池を取り替え終わるまで見ててもらっても構わない?」
コンビニの前に自転車を停めた彼女が言った。
「自分で出来ると思うんだけど、ちょっと心配だから。」
あごの前で手を合わせて申し訳なさそうに頼む彼女に俺は頷いた。
頼まれなくても、彼女が無事に出発するのを見届けないまま帰るつもりはなかったし。
彼女は俺に荷物の番を頼んで、コンビニに入って行った。
…と思ったらすぐに戻って来て、ライトの電池のケースを開けて電池の型を確認してから、また小走りに店に入った。
そのときの親しみのこもった照れ笑いに楽しくなった。
“大人っぽく見えたけどやっぱり高校生なんだ” 、なんて思って、気付いたら一人で微笑んでいて慌てた。
電池を買って戻って来た彼女に、俺は「やってあげようか。」とは言わなかった。
それでは彼女を軽く見ているようで悪いと思ったから。
予想通り、彼女は確かな手つきで電池を交換した。
ライトもちゃんと点いた。
「本当に野村くんのおかげよ。ありがとう。」
お礼を言う彼女の笑顔を見ながら、俺も嬉しかった。
実際には何もしなかったのに、とても満足な気分だった。
「じゃあ…」と言いかけた俺に、彼女は制服のポケットから何かをつかんで差し出した。
つられて手を広げると、そこに小さなチョコレートの包みを三つ乗せてくれた。
「野村くん、家、遠いでしょう? お腹空いちゃうから食べてね。」
そう言うと、彼女は素早く自転車のスタンドをはずして出発した。
信号を渡る前に一度振り向いて笑顔を見せると、元気よく自転車をこいで行った。
一人になって駅へと向きを変えたとき、彼女が俺の家の場所を知っているようだったことを思い出した。
この学校でそんな話を女子にした覚えはなかった。
男子にだって、数人にしか話していない。
でも……。
(その中の誰かが彼氏なのかも知れない。)
ふと、そいつは幸せ者だな、と思った。
電車の中で、彼女と一緒だった時間のことが何度も頭に浮かんできた。
図書室で見た編み物をしている姿も。
思い出しながら、何か不思議な感覚が湧きあがって来た。
こんなこと少し変かもしれないけれど、言葉で表すと “魂が近い” というのが一番当てはまる気がする。
もちろん、他人の彼女に言う言葉じゃないのは分かっている。
それに、俺は彼女に恋をしているわけじゃない。
そういうのとは違うのだ。
ただ、 “彼女なら” 、何ていうか ――― 何なのだろう?
何がどう “彼女なら” なのか、未だにはっきりとは分からない。




