5 回想(4)
図書室に来る生徒は実にさまざま。
真面目な目的で来ている生徒もいれば、単にのんびりするために来る生徒もいる。
入り口からおずおずと覗いている生徒は、雪見さんに「いらっしゃい。」と言われると、照れながら入って来る。
俺は勉強の合間に、そういう生徒たちを何となく見ていた。
ふと顔を上げたときに図書室を見回して、図書室の風景として。
雪見さんと児玉先生の姿を一緒に見ることはほとんどなかった。
でも、図書室にカップルで来る生徒はいた。
彼らの仲の良い様子は微笑ましかった。
校内でも、登下校の道でも、仲の良い二人連れはどこにでもいる。
けれど、図書室にいるカップルたちは、少し特別に見えた。
ほかの場所で見るよりも落ち着いて、優しい感じに。
雪見さんの幸せのおすそ分けをもらっているのかも、なんて思った。
いろいろなカップルがいたけれど、一番印象に残っているのは龍野と駒居だ。
夏休みから、ときどき一緒に勉強をしに来るようになった。
俺は二人とも知っていたけれど、この組み合わせは意外に思ったことを覚えている。
彼らは二人とも真面目で、図書室にいるときはあまり話をしない。
お互いに勉強を教え合うこともなく、ただ隣同士でノートを開いている。
たまに話しかけるのは龍野の方で、お揃いの手帳を見ながら何か打ち合わせたりする。
そういうときの龍野はとても嬉しそうなのに、駒居はいつもクールな顔のままだった。
そんな駒居がものすごく楽しげな顔をすることがある。
それは決まって龍野が席をはずしているとき。
付せんのメモにせっせと何か書いて、こっそりと龍野の手帳に貼るのだ。
自分の手帳をそっと見ながらにこにこしていることもある。
そういう顔を龍野に見せてやればいいのに、と思ったけど、二人には二人の事情があるのだろう。
一度、そのメモを拾ったことがある。
床に落ちていたらしく、上履きにくっついていたのだ。
よく考えずに手に取ったら、『Huckへ。明日は十五夜だよ。』と書いてあった。
読んだあとで駒居のメモだと気付いたけれど、もう遅い。
二人の秘密を覗いてしまったような気がしてドキドキしてしまった。
不用意に捨てるのも悪いし、かと言って返すのも変だし、とても困った。
仕方なく、家に持って帰ってから、誰にも見られないように処分した。
心の中で龍野に「落としたお前が悪いんだぞ!」と言いながら。
そんなふうに図書室に来るカップルたちを見ても、俺は羨ましいと思ったことはなかった。
自分が普通の生徒とは違う場所……、違う空間に住んでいるような気がしていたから。
二人連れを見ながら、いい組み合わせだなあ、なんて思うだけ。まるで評論家みたいに。
そうして、自分はもう若者ではないんだ、と思った。
誰かを好きになったり、何かに熱中したりすることがなかったから。
そういうことを楽しんでいる他人を見ているだけで満足だったから。
今、こうやっていつもの席に座っていると、いろいろな景色を思い出す。
その中で一つだけ、引っ掛かっていることがある。
引っ掛かる、というか、消化不良というか……、心残りというか……。
11月の後半だったと思う。
ふと顔を上げると窓の外はもう真っ暗で、今日の帰りは星が見えるかなあ、と思った。
そのとき、いつもと違う音が聞こえた。
「ガサガサ」と「ごそごそ」の混じったような音。
意外に大きな音だった。
今まで気付かなかったのに、と思いながら室内を見回すと、普段とは違う景色。
いつもその時間には誰もいなかった自由席に、女子が一人座っていた。
本棚側の端の、学習コーナーに背を向けている席。
長い髪を左右の耳の後ろで二つにまとめ、少しうつむいた後ろ姿。
足元には通学バッグがあり、机の上には口の開いた紙袋が倒して置いてあった。
聞こえたのはその紙袋の音だったようだ。
俺の席からだと、彼女が胸の前で作業をしているのが分かった。
何か、しきりに手を動かしている。
ときどき手を休めてじっと机の上に目をやるのは、本でも見ているらしい。
その動作のあとで、両手を顔の前に持ち上げたところを見てわかった。
彼女は編み物をしていたのだ。
紙袋の中身は毛糸だ。
まだ編み始めたばかりらしい。
細長い棒には、水色の毛糸が巻き付いているようにしか見えなかった。
(来月はクリスマスだもんな。)
すぐにそう思った。
きっと好きな人のために編んでいるのだろう。
クリスマスまで1か月くらいあるその時期から始めれば、どんなものにせよ完成するだろうと思った。
心の中で、「ここで編めば、雪見さんの魔法がかかって幸せになれるよ。」と教えてあげた。
下校時間まで、彼女はずっとそこにいた。
ときどき紙袋の音が「ガサガサ」「ごそごそ」と聞こえてきた。
その音を聞きながら、不思議と心が和んだ。
その次の日。
俺が図書室に着いたときには彼女はいなかった。
けれど、一時間以上経ったときにふと顔を上げると、いつの間にか来ていた。
その日は自由席のカウンター側の端に座っていた。
前の日よりも近くに座っていたのに気付かなかったことが不思議だった。
あの紙袋の音は、結構大きかったから。
どうしたのかと思いながら机の上を見ると、机の上に載っていたのは布製の袋だった。
彼女は毛糸をその袋に入れ替えてきたのだ。
たぶん前日に、紙袋の音が室内に響くことに気付いていたのだろう。
勉強している俺たちに悪いと思って、布の袋に入れ替えてきたに違いない。
そう思ったら、心の中がふわりと温かくなった。
そんな気遣いができる彼女を、いい人なんだなあ、と素直に思った。
そして、俺も周囲にそういう気遣いができる人間になれたらいいなあ、とも。
その日は紙袋の音はしなかったけれど、少し目を上げれば彼女が見えた。
斜め後ろから見る姿は静かで、腕と手もとの毛糸だけが動いていた。
一心に編んでいたけれど、出来上がった部分はなかなか増えていないように見えた。
それを見ながら「がんばれ。」と心の中で応援してあげた。
その日の帰りに彼女を見かけた。
俺よりも先に図書室を出た彼女が、学校を出て2、3分ほどの場所で、街灯の下で自転車の様子を見ていた。
俺は少し手前から、二つに結んだ長い髪で彼女だと気付いた。
自転車に何かトラブルがあったのだということも察しがついた。
部活後の生徒が通っていたけれど、誰も彼女に注意を払わなかった。
俺も、面識のない彼女には話しかけにくくて、そのまま通り過ぎようとした。
彼女も俺の方は見ていなかったから、特に問題はないはずだった。
視線を2メートルくらい先の地面に固定して、彼女と自転車の横を通り抜ける……つもりだった。
けれどそのとき自転車のカゴに入れられた布の袋が目に留まり、それを見たら、黙って通り過ぎることができなくなった。
苦しいような思いで足を止めた。
足を止めたのに、どうやって声をかけたらいいのかわからない。
慣れないことをしようとしたせいで、心臓はバクバクしてしまうし、口の中は乾いてきて。
でも、止まったまま立っているのは限りなく変だ。
かといって、そのまま立ち去ったら、まるっきり人でなしだ。
俺は思い切って口を開け、ようやく「あの。」と声を絞り出した。




