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はじまりは、図書室。  作者: 虹色
『HAPPY MAGIC』
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3  回想(2)


2年生になって担任になった児玉先生は、体は小さいけれど、 “元気” というオーラを発散しているようだった。

ショートカットで、くりくりした目をしていて、よく通るはきはきした声で出席を取った。

校内ですれ違うと、いつも楽しそうに声を掛けてくれたり、手を振ってくれたり、微笑んでくれたりした。


児玉先生を見ていると、なんとなく肩の力が抜けるような気がした。

意地を張ることが無意味に思えた。

それは俺だけが感じたことではなく、普段は悪ぶっている生徒も、何故か気が緩んでしまうようだった。


担当教科が家庭科だということも、児玉先生をほかの先生と違った存在に感じる原因の一つだったと思う。

でも、それだけじゃない。

児玉先生は相手の性格を見抜く……というか、感じるのではないかと思う。

相手の心地よいポイントや、怒れない限界を察知する不思議な勘みたいなものがある。

だから、たいていの生徒が児玉先生に何か言われても「しょうがねえなあ。」と応じてしまうのだ。



クラス替えから一週間くらい経った頃、夕食を食べながら、母親が新しい担任はどうかと尋ねた。

俺は少し考えてから、「いいんじゃない。」と答えた。

すると母親は、最初はびっくりした顔をして、それから柔らかい表情になって「そう。」と言った。

一人で頷きながら、もう一度「そうなんだ。」と嬉しそうな様子で繰り返した。


それを見たら、なんだか切なくなった。


あの事件のあと、俺は学校の話はほとんど「まあまあ。」か「うん。」で済ませていた。

母親は、俺が学校のことを話したがらない……と言うか、学校に興味がないと気付いていたはずだ。

それでもときどき尋ねずにはいられなかったのは、俺のことを心配していたからに違いない。


そんなことにぼんやりと気付いて、自分はやっぱり子どもじみていて自分のことしか考えていないんだな、と思った。


だからと言って、俺の生活が変わるわけではなかった。

勉強をする気にもならず、趣味もなく、毎日学校に行くだけの日々。

ただ、そうやって過ごしながら、 “これでいいのか?” と自分に問いかけるようになってはいた。




俺が変わる最初のきっかけは、6月の終わりに行われた三者面談。

放課後の教室で、児玉先生と母親と俺だけで向かい合ったとき。

これは通常の行事で、学校生活や進路について、親と先生を交えて話し合うことが目的だった。


俺は学校では何も問題を起こしていないことを自覚しているし、何を言われても構わないと思っているから怖くはなかった。

でも、中学で呼び出されたことがある母親は、面談や懇談会はとても緊張するらしい。

前の年の面談では、関節が白くなるほど強くハンドバッグを握りしめていたのを覚えている。


そのときも、廊下で順番を待つ母親は表情が硬かった。

俺にぽつりぽつりと話しかけながら、外を見ることで不安な顔を隠そうとしているように見えた。

けれど、児玉先生と向かい合って座ると、母親の不安は戸惑いに変わった。

児玉先生の無防備な笑顔に混乱した、とでも言うか……。


児玉先生は普通に淡々と、学校での俺の様子を話していった。

“淡々と” と言っても、児玉先生の話し方はどこか親身で優しい。

合間に挟まれるふわりとした微笑みにもほっとする。


それを聞いている母親から緊張と警戒が解けていくのが分かった。

次第に先生の言葉に頷いたり、質問をしたりするようになり、ちらりと笑顔も出た。


それから進路の話になり、話題が俺の成績になった。

その頃の俺の成績は中の下くらいだった。

目立たずに3年間過ごすには、そのくらいがちょうどいいと思っていた。

両親からはときどき「大丈夫なの?」と言われたけれど、いつも「うん。」と答えていた。


でも、母親は本当はずっと心配だったらしい。

児玉先生が資料を見ながら「一年前期の中間テストでは、とっても成績が良かったようですけど?」と言ったとき、今までの我慢や不安が一気にあふれた。

我慢や不安だけじゃない。涙もだ。

母親は中学のときの事件まで遡って話し始め、途中からは泣いてしまったのだ。


俺は隣でどうしたらいいか分からなくて、ただ下を向いて座っていた。

こんなところで泣いてしまった母親への反発と、心配しながらも、俺に余計なことを言わずにいてくれていたことへの感謝と申し訳なさと……。

とにかく言うことも、すべきことも分からなくて、ただ下を向いているしかなかった。


児玉先生はうちの母親が泣いても驚かず、落ち着いた様子で話に頷いていた。

一通りの話を聞き終わると、母親に心のこもった表情を向け、「いろいろとご心配でしたね。」と言った。

その言葉で母親が落ち着いたので、俺はほっとした。

それから児玉先生は、今度は俺に向かって静かに言った。


「悲しかったね。」


その一言が、俺の胸を詰まらせた。


「悲しかった?」ではなく。

「辛かったね。」でもなく。

ただ、「悲しかったね。」と……。


息を止めて歯を喰いしばらないと、俺まで泣いてしまいそうだった。



――― 悲しい。



自分の心の状態に一番ぴったりくるのはその言葉だった。

あの事件以降、それは考えないようにしてきたけれど。


だって。


俺は「悲しい」なんて言える立場じゃない。

Aを傷付けた俺に、悲しむ権利なんかない。


仲間に裏切られたことも、級友から避けられたことも、内部進学できなかったことも、全部自業自得だ。

だから、「悲しい」なんて言うのは自分勝手だ。

だけど………。



――― 悲しくても仕方ないんだ。心がそう感じてしまうのだから。



児玉先生の一言が、俺を解放してくれた。


母親が、俯いた俺を見てまた泣きだした。

泣きながら、児玉先生に「ありがとうございます。」と言ったのが聞こえた。

先生は慌てて「わたしは何もしていません。」と言っていた。

でも、母親の言葉は俺の気持ちと同じだった。



その夜、シャワーを頭からかぶりながら、今までのことを思い返してみた。

その中で一番の心残りだったことは ――― 。


「俺の方こそ、ごめん。」


やっと、声に出せた。


Aに言いたかったこと。

あの日に言えなくて、もう取り返しがつかないと思っていたこと。


自分の声が耳に聞こえたらほっとして、それまで止めていた涙が溢れてきた。

誰にも見られることのない風呂場で、シャワーのお湯と音に隠れて、思いっきり泣いた。




児玉先生が俺を呼び止めたのは、それから何日かあとのことだった。

調理実習が終わり、生徒がバラバラと調理室を出ようとしていたとき。

俺を追いかけて来て、いきなり言ったのだ。

くりくりした目で俺を見上げて、ちょっと微笑んで。


「やっぱりね、もったいないと思うの。」


調理実習のあとだったから、俺が何か食材を無駄にしてしまったのかと思った。

でも、先生が言いたかったのは料理のことではなかった。


「勉強ってね、やったことは絶対に無駄にはならないよ。思いがけないときに役に立つことだってあるんだから。」


予想外の話題であいまいに頷く俺を見上げて、児玉先生は真剣な顔で続けた。


「身に付けた知識は、使い方を間違えなければ、その人を裏切らないと思う。」


“裏切らない” 。


その言葉にハッとした。

それこそが、俺が恐れていることだったから。


他人を、……自分自身さえも、信じることができなかった。

だから何も行動を起こさずに生活してきた。

何に対しても、期待することがないように……。


先生は「ね?」と微笑んで、何事もなかったように教卓に戻って教材の片付けを続けた。

それを見ながら、どうしてこの先生はこれほど俺の気持ちを言い当てるのだろう、と思った。







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