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はじまりは、図書室。  作者: 虹色
『HAPPY MAGIC』
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1  3月1日(火) 卒業式の日の図書室


卒業していく野村くんの高校生活とは……。



「図書室に寄って行ったら?」


明るい笑顔の児玉先生に言われた。

卒業式と教室での最後の別れのあと、職員室の前で話していたとき。

2年のときの担任だった児玉先生に、お世話になったお礼と結婚のお祝いを言うために来ていた。


どうしてそんなことを言うのだろうと見返したら、児玉先生が続けて言った。


「部活をやっていた人たちは部活のお別れ会があるでしょう? 野村くんはどこにも入っていなかったけど、図書室が野村くんの部室みたいなものじゃない?」


(ああ……、そうだ……。)


俺がこの学校で、教室の次に長い時間を過ごした場所。

2年生の途中から、ほぼ毎日通った場所。


「そうですね。そうします。」


ふと思い付いて、一言付け加える。


「児玉先生の旦那さんにもあいさつしなくちゃ。」


ふざけて言った言葉に、児玉先生が驚いた顔をして頬を染めた。


「や、やだな。まだ旦那さんじゃないよ。」


(あれれれ?)


赤くなって恥ずかしがる児玉先生なんて初めて見た!

高校最後の日に大きなお土産をもらった気分だ。


「野村くんがそんなこと言うとは思わなかったよ。びっくりしちゃうじゃないの。あー、恥ずかしい!」


片手で顔をあおいで冷ましているらしい。

恥ずかしがり方も児玉先生らしくて、とても懐かしい。


「あははは! すみません。じゃあ、これから行ってみます。」


それから、姿勢を正してもう一度。


「児玉先生、本当にありがとうございました。これからもお元気で頑張ってください。」


「うん。野村くんも頑張ってね。」


笑顔の児玉先生に背を向けて歩き出してから、「お幸せに。」と言うのを忘れたことに気付いた。

でも、もういいや、と思った。

俺が言わなくても、児玉先生が幸せになることは間違いないだろうから。




職員室のあるA棟から隣のB棟へと曲がり、昇降口への階段を下りずに進めば図書室。

校舎内にはまだ生徒がたくさん残っていて、笑い声や誰かを呼ぶ声が廊下を響いてくる。

廊下の窓から見える自転車置き場にも、話したり泣いたりしている生徒たち。


「お、野村、またな。」


「おう。またな。」


駆け足で追い越していく同級生。


(俺はこの学校にちゃんといたんだ……。)


ふと、そんな言葉が浮かんだ。

当たり前のことなのだけど、それは、俺には大きな意味がある。




この廊下を何度歩いただろう。

児玉先生の言葉のとおり、図書室での勉強が俺の部活代わりだった。


図書室の二つの戸口を過ぎて、カウンター前の三つ目の入り口へ。

閉められた戸の横には『休館日』の札が下がっている。

戸にはまっているガラスから覗くと、電気が消えた室内には誰もいなかった。


(雪見さんもいないのかな……?)


カウンターの横からつながっている司書室の戸は開いていて、電気が点いているのが見えた。

雪見さんは司書室にいるらしい。


戸を引いてみると鍵はかかっていなかったので、そうっと開けて中に入る。

電気が点いていなくても、3月の昼間はそれなりに明るい。

誰もいない静かな図書室には、このくらいの明るさがちょうど良いように感じた。

このまま黙ってぼんやりしようかと思ったけれど、雪見さんを驚かすことになっては悪いので、声を掛けることにした。


(司書室を覗くのは初めてだ……。)


司書室の開いている扉の前で思った。


この扉はいつも閉まっていた。

扉のガラスから中を垣間見ることはできたけれど、近寄って覗き込んでみたことはなかった。

最後の日に、これもまたお土産みたいなものだ。


すぐ前には大きな作業机がある。

修理中の本だろうか。大きなクリップで留めてある本が何冊か。

右側の窓の前にはパソコンの乗った事務机。椅子の背にスーツの上着とネクタイが掛けてある。

奥には本棚がいくつか並んでいる。

その間にグレーのカーディガンの上に黒いエプロンを掛けた雪見さんがいた。


コンコン。


何て声を掛けたらいいか分からなくて、開いている扉をノックした。

今になって気付いたのだ。

ずっと図書室に通っていたのに、俺は一度も雪見さんの名前を呼んだことがなかった。


「ああ、野村くん。」


けれど、雪見さんは俺の名前を知っている。

本を借りたこともない俺の名前を。

児玉先生が呼んだから。


笑顔で近づいてくる雪見さんを見ながら思う。

この人のことも懐かしい、と。


ワイシャツのボタンをはずした中に、ちらりと銀色のチェーンが見えた。


(意外とお洒落な人なんだ……。)


アクセサリーなんて縁がなさそうに見えるのに。

これも最後の日のお土産だ。


「卒業、おめでとう。」


穏やかな笑顔。

この一年の間に、この笑顔を何度も見た。


「ありがとうございます。」


答えながら思い出す。

雪見さんがこのエプロンを掛けることになった日のことを。



あれは、3年になってすぐのことだ。

あの頃は図書室の利用者がほとんどいなくて、その日も図書委員が帰ったあとの図書室にいたのは俺だけだった。

そんな図書室の雰囲気を明るくしたいと相談した雪見さんに、児玉先生が「カフェ風のエプロン」がいいと提案したのだ。


それまで紺の作業着みたいな上着を羽織っていた雪見さんに、「おじさんっぽい」とズバッとダメ出しをした児玉先生が面白かった。

その頃の雪見さんは顔が丸くてお腹が出っ張っていたから、地味な服を着ていると本当におじさんっぽかった。

実際、俺は雪見さんは結構な年だと思っていたのだ。


そんな雪見さんに遠慮なく本当のことを言った児玉先生がいかにも児玉先生らしくて、思わず笑ってしまった。

大人になったら他人の欠点は指摘しないものだと思っていたのに。

でも、児玉先生の言葉は決して相手を傷付けるようなものではなく、ただ可笑しかっただけ。


学習コーナーの隅でこっそりと笑っている俺には気付かないと思ったのに、児玉先生はちゃんと見ていた。

そして、「ねえ、野村くん?」と同意を求めてきた。

俺がちょっと焦りながら頷くと、勝ち誇った顔で雪見さんに「ほらね。」と言った。


雪見さんは一瞬情けない顔をしたけれど、すぐに期待するような顔をして児玉先生を見た。

たぶん、エプロンを一緒に買いに行ってもらいたかったのだろう。

転任してきて間もないあの頃から、雪見さんは児玉先生のことが好きだったのだ。

児玉先生は全然分かっていないようだったけど。


(あれからずっと、どうなるかと思っていたけど……。)


俺がこっそりと観察していたとは、二人ともまったく思わなかっただろう。


二人は春休みに結婚する。

そして、児玉先生はほかの学校に行ってしまう。



「図書室にお別れを言いに来たのかな?」


穏やかな微笑みを浮かべた雪見さんが言った。

「はい。」と答えながら、自分に会いに来たとは思わないんだな、と思った。

会話はほとんどなかったけれど、あいさつくらいはしていたのに。


そう思って、すぐに気付いた。

児玉先生も同じことを考えたのだと。

毎日顔を合わせていた雪見さんではなく、「図書室に」と。


(二人のそういうところが好きだったんだよなあ……。)


俺の気持ちを察して、自然に気を配ってくれる人たち。


児玉先生は、俺がこの学校で一番世話になった先生だ。

そして雪見さんは、俺がこの学校で一番親近感を持っていた人。

二人とも、そんな自覚はないだろうけど。


「ゆっくりして行っていいよ。本当ならコーヒーでも出してあげたいところだけど、残念ながら、なくてね。」


図書室の電気を点けてくれながら言われた言葉に楽しくなった。


「せっかくカフェのマスターっぽくなったのに、残念ですね。」


俺の言葉に雪見さんは一瞬きょとんとした顔をしたけれど、すぐに笑い出した。


「あははは! そうだ。あのとき聞いてたんだよね? まったく、児玉先生は遠慮がないから。ははは。」


(でも、そういうところも好きなんですよね?)


からかう言葉は心の中にとどめておく。

雪見さんは、俺が親近感を持っているとは思ってもみないだろう。

あいさつをするときにだって、笑顔を向けたりしなかったのだから。


「あの頃は利用者が少なくて困っていたんだよ。野村くんが毎日来てくれて、どれほど有り難かったことか。」


「あ、そうだったんですか……?」


思いがけない話だった。


「そうだよ。誰にも利用されない図書室なんて悲しいからね。本当に感謝してるんだよ。」


(感謝? 俺に……?)


胸の中がじわっと熱くなった。

自分が誰かの役に立てていたとは思わなかったから。


(俺は、ちゃんとここにいたんだ。)


さっきの言葉が実感をともなって沁み込んでくる。


曖昧で、どこにも属していないような気がしていた日々。

けれど、そうではなかった。

俺は、存在を認められていた……。


「好きなだけゆっくりして行っていいからね。僕はこっちにいるから。」


胸が詰まって何も言えない俺にもう一度穏やかな微笑みを向けて、雪見さんは司書室に戻った。

一人になって、あらためて明るい図書室をゆっくりと見回してみる。


(こんなに清々しい気持ちで卒業できるとは思わなかった……。)


明るい光と一緒に思い出せる高校生活なんて、自分には無縁のものだと思っていた。

けれど今、心に浮かぶのは、この一年間図書室で見て来た楽しげな景色ばかり。


(雪見さんが来て、図書室が変わったから。)


レイアウトだけじゃない。

たぶん、俺にとって図書室が変わったのは、雪見さんと児玉先生のあのやり取りを見てから。


児玉先生が好きなのに口に出せずにいる雪見さんを見ているとほっとした。

雪見さんがとても身近に感じられて、あれからずっと密かに応援していた。

だからだと思う。

図書室に来ると、なんとなく楽しい気分になった。


(べつに、俺に楽しいことが起こると思ったわけじゃなかったけど……。)


そう。

図書室で起きていることを見ているだけで楽しかった。

他人に興味を持つようになったのは、とても久しぶりのことだった。








わたしの住む地域では卒業式を3月1日行う高校がとても多いので、このおはなしでもこの日に設定させていただきました。

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