34 広瀬勝吾 10月6日(月) 昼
梨奈先輩に会えたのは昼休みだった。
教室に会いに行こうと決めて、4階に下りたところで偶然会えた。
階段から廊下に出ようとした俺の目の前を、ボラ部の戸田先輩と一緒に通りかかったのだ。
「先輩!」と呼ぶと、すぐに気付いてくれた。
「あ〜、広瀬くん、ちょうど良かった!」
俺が何も言わないうちに、梨奈先輩は戸田先輩に「あとでね。」と手を振って、廊下の端に俺を引っ張った。
引っ張られながらほっとした。
落ち込んでいるとか、苦しそうだとか、そんな様子が見当たらなかったから。
冬服になってから、先輩はポニーテールをやめて髪を下ろしている。
緩やかにうねりのある肩下までの髪を耳にかけている梨奈先輩は、夏よりも大人っぽくて、会うたびに少し気後れする。
でも、俺を見つめる目は夏と変わらず優しくて、それを確認すると心が落ち着くのだ。
「ねえ、聞いた? 雪見さんの噂。」
「はい。今日の朝。」
噂話らしく顔を近付けてこっそりと話すと、変わらないレモンの香りがふわりと漂う。
一瞬、夏の自転車置き場が目に浮かんだ。
梨奈先輩が俺の顔を赤くなるほどこすってくれたときのこと。
そんなに昔のことじゃないのに、とても懐かしい気がするのが不思議だ。
「わたしのところには昨日の夜に電話が来たの。びっくりしちゃった、わざわざ電話で教えてくれるなんて。」
「ああ、……宮原先輩、ですよね?」
「あれ? 知ってるの?」
「あ、はい、俺も今朝、宮原先輩から……。」
俺が聞いたのは、それだけじゃないけど。
「そうなんだ……。」
先輩は何かを考えるように視線を逸らした。
やっぱり、雪見さんとたまちゃんの噂は先輩には辛いのだ。
「あのう……、先輩、大丈夫ですか?」
そっと声を掛けると、先輩はハッとしたように俺を見て微笑んだ。
「『大丈夫』って、何が?」
首を傾げてにっこり笑う先輩は、やっぱり綺麗だ。
思っていたよりも明るい表情だったことに少しとまどってしまう。
先輩は強がって、気丈に振る舞っているのだろうか?
でも、この笑顔の裏には傷付いた心が隠れているに違いない。
「あの……、雪見さんの噂……。」
梨奈先輩が雪見さんを好きだったことを知っている俺に、あの噂で傷付いていることを隠す必要はないはずだ。
「ああ、うん。」
先輩の笑顔に淋しさが混じったように見えた。
けれど、それはすぐに消えて、明るい口調に戻った。
「心配してくれたの? ありがとう。」
「ああ、いえ。」
口調に何か違和感を感じる。
気軽過ぎるって言うか……。
不思議な気がして、そっと梨奈先輩を観察してみる。
「でも、もう知ってたことだから。まあ、元カレの話はびっくりしたけど。それにしても、こんなに噂になっちゃうなんて、気の毒だよね。」
表情が曇っているのは、単に雪見さんたちを気の毒に思っているからにしか見えない……けど?
(なんか……他人事……?)
「そ、そうですね。」
「わたしね、あの話を聞いて思ったの。雪見さんと児玉先生って簡単に幸せになっているように思っていたけど、幸せって、誰でも一筋縄では行かないんだなあって。」
「あ、はい……、確かに……。」
(そんな一般的な感想で終わり……?)
相槌以外の言葉が浮かばない俺の前で少し遠い目をしていた梨奈先輩が、何かを思い出したようにピタリと俺に目を据えた。
「だけどね、なんだか腹が立っちゃって。」
「ああ……、そうですよね。」
当然そうだ。
これこそ普通の反応だ。
「なんかさあ、……嫌な感じなの、宮原くん。」
「はい。」
うん。
好きだった人の話を言いふらしている相手に好感を持つわけがないよな。
「雪見さんの話のあとにね、急に、広瀬くんとはどういう知り合いかって訊くの。」
「はい?」
予想外の話題にまた混乱してしまう。
けれど、すぐに質問の意味が分かって鼓動が速くなる。
先輩はその質問の意味に気付いたのだろうか?
そして、何て答えたんだろう?
「でね、 “ボラ部の文化祭のことで、お母さんに相談に乗ってもらった” って説明したんだけど。」
(それだけか〜……。)
それほど期待はしていなかったけど、やっぱりがっくり来た。
「そしたらね、『そうだよなあ。あんな頼りないヤツ、佐藤が相手にするわけないよなあ。』って言って笑ったんだよ! 頭に来るでしょ?」
“頼りないヤツ” か……。
そう言われても仕方ない。
一週間前には梨奈先輩の前で泣いちゃってるし、練習試合でも相変わらず緊張してミスしてるし。
肩を落とした俺に、梨奈先輩は怒った顔を向けた。
「広瀬くん。がっかりしてる場合じゃないよ。」
「あ、はい。」
(そう言われても……。)
「もう! 悔しくないの? 広瀬くんは、全然頼りなくなんかないのに。」
「あ、そう…ですか?」
「そうだよ。わたしは悔しいよ、そんなこと言われて。」
真剣な顔で訴えてくる先輩を見て気付いた。
梨奈先輩は、俺のために怒ってくれているんだって。
雪見さんの噂を言いふらされたことではなく、俺を「頼りない」と言われたことに腹を立てているんだって。
(そうか……。)
急に肩が軽くなったような気がした。
自然と背中が伸びる。
「はい。悔しいです。」
梨奈先輩をまっすぐに見て答えた。
“悔しい” と口にしたけれど、心の中には雲ひとつない。
晴れ晴れとした気持ちで、先輩と向かい合うことができる。
「でしょう?」
梨奈先輩がにっこりした。
それからすぐに、また真剣な顔に。
「だからね、頑張ってしっかり者になるんだよ。」
「え、あ、はい。」
(もうやってるけど。)
「わたしも手伝うから。ね?」
「手伝うって……?」
「あー……、よく分からないけど、メンタルトレーニングとか?」
「ああ、そうですね。はい。」
「あ、わたしがすごいプレッシャーをかけるとか。」
「ああ、はい。」
梨奈先輩のプレッシャーって何だろう?
妙なミッションでも考え出すつもりだろうか?
そんなことを思ったら吹き出しそうになった。
先輩があまりにも真剣な顔をしているから、笑うわけにはいかないけれど。
「だいたいさあ、わたし、宮原くんに電話番号なんて教えた覚えがないんだよ。いくら特ダネを早く話したいからって、どこから聞いたんだか……。」
俺の気持ちには気付かないまま、梨奈先輩は不愉快そうな顔でブツブツ言っている。
それを見ながら、俺は心の中で宮原先輩に舌を出した。
(宮原先輩、残念でした。)
今朝の宮原先輩の顔が目に浮かぶ。
でも。
(梨奈先輩は俺の味方です。宮原先輩が俺をけなしてくれたお陰で、俺と梨奈先輩はこれからもっと仲良くなっちゃいますからね。)
俺が頼りになる男になることは、もともと自分の目標だ。
でもこれからは、それを梨奈先輩が手伝ってくれるのだ。
宮原先輩の意図は完全に裏目に出たってこと。
「ねえ、広瀬くん?」
梨奈先輩が微笑んで俺を見た。
まっすぐな視線。
相変わらず先輩は、俺を弟のように思っているのだろう。
「はい。」
けれど、いつかは。
――― と。
(あ、あれ?)
目が合った途端、梨奈先輩がびっくりした顔をして、さっと視線をはずしてしまった。
そのまま戸惑うように、両手を頬に当てて……。
(やだな。こんな反応されたら……。)
胸がドキドキしてしまう。
何か言わなくちゃと思うのだけど、思考がまとまらない。
「あ、あの、またね。メール、するかも。じゃあね。」
チラチラと俺を見ながら言って、梨奈先輩は走って行ってしまった。
(今のって……。)
先輩の後ろ姿を見送りながら、ドキドキが止まらない。
落ち着こうと思って、俺も慌てて階段を駆け上がる。
その間も心の中には、さっきの梨奈先輩の姿が新しい意味を持って浮かび上がってくる。
(もしかしたら……。)
期待はまだ言葉にはしない。
けれど、今までに感じた浮かれた気分とは違う何かで、息ができないほど苦しい。
ゆっくり呼吸をしようとしても、うわべだけの浅い呼吸にしかならない。
5階の廊下の片隅で落ち着くために目を閉じて、数を数えながら息を吸ってみる。
(1…、2…、3…、4……。梨奈先輩。俺、頑張ります。)
先輩が期待してくれるから。
先輩が信じてくれるから。
先輩に頼りにされる男になるために。
もう一度数を数えながら、今度はゆっくりと息を吐く。
「 ――― ふぅ。」
お腹の底の息まで吐いて目を開けると、見慣れているはずの廊下がいつもよりくっきりと明るく見えた。
それだけで、もう自分が新しくなったみたいな気がして嬉しくなってくる。
何でもできそうな気がして両手を思いっきり広げたら ――― 。
「きゃっ?!」
「あ。」
通りかかった英語の横川先生の頭を俺の拳がかすった。
「危ないじゃない!」
「す、すみません。」
落ち着いたしっかり者への道は、まだまだ遠そうだ。




