33 広瀬勝吾 10月6日(月) 朝
文化祭が終わって一週間。
代休が終わった先週の水曜日から学期は後期に入り、俺たちは強制的に通常の学校生活に戻った。
制服もブレザー着用の季節に戻り、校内の景色が秋っぽくなった。
梨奈先輩はあの日に自棄食いをして、だいぶすっきりしたようだった。
食べている間も、俺が想像していたよりも元気だったのでほっとした。
あの後も、学校で会っても、メールや電話でも、梨奈先輩は元気で楽しそうにしている。
でも、俺はやっぱり心配だ。
だって、ボラ部で噂になるほど、梨奈先輩は雪見さんを好きだったんだから。
彼女がいるって納得できたとしても、失恋した傷はやっぱり辛いだろうと思う。
だから、俺は今でもなるべく梨奈先輩の近くにいようと思っている。
特に先輩が図書委員の当番のときは、必ず図書室に行くことに決めている。
一番辛いのは、やっぱり雪見さんに会うことだと思うから。
まあ、先輩は俺の意図には気付かないようで、昼休みに科学雑誌を読んでいた(ふりをしていた)俺に
「広瀬くんって理系なんだー。」
とにこにこと話しかけただけだったけど。
それにしても、あの日、あそこで自分が泣いてしまうとは思わなかった。
本当にみっともなくて、最悪の行動だ。
今でも情けなくて落ち込む。
もう二度と、梨奈先輩の前で泣いたりしない。
けれど。
あれから自分が落ち着いてきたような気がしている。
たった一週間だから、確実だとは言えないけど。
先輩に会ったときに嬉しいのはもちろん変わらない。
でも、話し始めるときに一呼吸置いて、興奮状態を冷ますくらいはできるようになった。
それと、少しゆっくり話すことで、今までよりもきちんとした文章で話せるように。
“慣れた” ということもあると思う。
でも、一番の理由は、先輩が俺のことを「元気の素」と言ってくれたことだ。
あんな俺でも先輩の役に立つことができていたと思ったら、それが俺の心の重心みたいなものになった。
驚いたり、緊張したり、パニックになりかけたりしても、その部分だけは揺らがないでいるような。
それを手掛かりにして、自分を取り戻すことができるようになったような気がしている。
もしかしたら、これが “自信” なのかな、と思う。
自分のどこかが ――― 小さなことでも、他人に肯定してもらえたこと。
自分の全部を否定しなくてよくなったこと。
自分にもいいところがあると思えること。
それを考えるとほっとして、嬉しい。
梨奈先輩に感謝して、俺のいいところを少しずつ増やしていきたいと思う。
その話を聞いたのは、朝の昇降口だった。
「お、広瀬! ちょうどよかった!」
話しかけて来たのはサッカー部の宮原先輩。
梨奈先輩と同じクラスの先輩だ。
「おはようございます。」
「おまえって、たまちゃんのクラスだったよな?」
あいさつをする俺をほかの生徒の邪魔にならない場所に引っ張りながら、楽しそうにくすくす笑っている。
連れて行かれた先には、同じ一年生の森がいた。それと先輩が二人。
(何か失敗したっけ……?)
先輩3人に叱られるのではないかと不安になり、森とそっと視線を交わす。
でも、先輩たちは上機嫌で、もう一人通りかかった真田を呼び止めた。
「俺達さあ、昨日、見ちゃったんだよ♪」
円陣を組むように頭を寄せ合って、先輩が話し始めた。
話が見えず、一年生同士、またそっと視線を交わす。
「あの……、何を……?」
真田が尋ねると、先輩たちは「イヒヒヒヒ。」と笑った。
それから。
「たまちゃんのデート現場。」
「「「ぅええええええ?!」」」
一年生三人が驚いて立ち上がった。
俺が驚いたのは、ほかの二人とは違う意味だったけれど。
(バレた。この様子だと一気に噂になる。)
学校中がこの話で持ちきりになったら梨奈先輩がどんな気持ちになるのか考えたらドキドキしてきた。
でも、先輩たちの様子を見ると、もう止められないのは明らかだ。
学校に来る途中でも、いや、すでに昨日の夜にだって、誰かに話してしまっているだろう。
俺たちはさっきよりももっと小さく集まって、先輩たちの得意気な、でも一応こっそりとではある話を聞いた。
「昨日さあ、フットサルの大会に行ったらさあ、いたんだよ、たまちゃんが。」
(フットサルの大会。そう言えば、雪見さんがやってるって言ってた気がする……。)
「相手は誰だと思う?」
「え? もしかしてうちの学校なんですか?」
「そう。ほら、図書室の。」
「あ。雪見さん?」
「ピンポーン!」
「「おおお………。」」
「もう結婚も決まってるらしいぜ。」
「「へええええぇ……。」」
(結婚……。ああ……、梨奈先輩……。)
「いつから付き合ってるんですか?」
具体的な質問をした森に、先輩たちは残念そうな顔を向けた。
「それは教えてくれなかった。たまちゃんも雪見さんも、結構口が堅いんだよな。」
答えた宮原先輩に、残りの二人が同意する。
「でもさ、雪見さんがたまちゃんに手料理をご馳走してるらしいぜ。」
「「「え?」」」
(逆じゃないんだ?!)
驚いた俺たちに気を良くして、先輩達はますます楽しそうになる。
「そうそう! 先月も2回だって! はっきり言ったよな?」
「言った言った。たまちゃんの元カレ出現でさ。」
「え?!」
「元カレ?!」
「そこに?!」
(まさか、生徒の前で修羅場か?!)
「それがさあ、たまちゃんのこと『かすみ』なんて呼び捨てにしちゃってー。雪見さんなんか、苗字でしか呼んでないのにー。なあ?」
「そう。その元カレが、あ、黒川さんって言ってたけど、すげー金持ちのエリートっぽくて、自信満々な男で。」
「そいつがさあ、たまちゃんに断られても諦めないって言ってさあ。」
「そうそう。で、雪見さんに、自分と勝負しろって。」
「勝負?!」
「たまちゃんを賭けて?!」
「すげえ。」
「だろ?」
「「「はい。」」」
(まるでドラマみたいだ……。)
こんな話じゃ、先輩が言いふらしたくなるのも仕方がない気がする。
俺だって、思わず夢中になって聞いちゃったし。
「まあ、雪見さんは挑戦を受けたこと、あとでたまちゃんに怒られてたけどな。あはははは!」
感心する俺たちの前で、先輩たちは得意気に笑った。
ふと我に返った森が、先輩に尋ねる。
「あのう、この話って、秘密なんですよね……?」
先輩たちが顔を見合わせてから小声で答えた。
「雪見さんは『話してもいいけど、最低限の相手にしてくれ』って言ってた。」
「二人の関係は、今日、校長に話すって。」
「あと、『勝手な想像を付け加えないように』って言われた。」
「……って、ことは……。」
俺たち一年も顔を見合わせる。
(雪見さんとたまちゃんは、噂が広まるのを覚悟したってことだ。)
「俺たちもしゃべってもいいのかなあ?」
(そっちか?!)
「いいんじゃないの? “必要最低限” なら。」
要するに、ネズミ算式に広まるってわけだ……。
「雪見さん、意外にカッコ良かったぜ〜。」
ぼんやりしている俺の向かい側で町田先輩が言った。
「黒川さんの挑発に堂々と立ち向かったし、勝負しろって言われたときも迷わなかったんだから。」
「うん。俺たちが黙っていられないだろうって分かったら、たまちゃんに『明日、校長先生に話しましょう。』って、きっぱり言ってさあ。」
「へえ。」
(そうか。雪見さんって、ただ穏やかで優しいだけの人じゃないんだ……。)
「でもさあ、くくくく……、たまちゃんには負けちゃってたよな?」
「ああ。たまちゃんに勝てる男なんかいないんじゃねーの?」
宮原先輩の指摘に全員が笑い、なんとなく解散になった。
俺は梨奈先輩のことが気が気じゃなくて、なるべく早く会いに行こうと思った。
(もう教室にいるのかな……?)
でも、2年生の教室が並んだ4階に足を踏み入れるのはかなり勇気がいる。
考え込みながら靴を履き替えて廊下に出たとき、また宮原先輩に呼び止められた。
「はい?」
振り向いた俺の肩に先輩が腕を掛ける。
背が高い宮原先輩が、一年生によくやる態勢だ。
これをやられると、俺たち一年生は少なからず緊張してしまう。
宮原先輩が厳しいとか、意地が悪いとか、そういうことではないけれど、やっぱり威圧感を感じてしまうのだ。
「昨夜、俺、佐藤に電話したんだ。」
(佐藤? ……あ、梨奈先輩?)
どうしてそんなことをわざわざ俺に言うのだろう?
不思議な気がして先輩の顔を見上げると、先輩はニヤリと笑った。
その笑顔に俺の緊張が高まる。
「ほら、たまちゃんってボラ部の顧問なんだろ? 知りたいんじゃないかと思ってさ。」
(わざわざあれを話すために?! 梨奈先輩の気持ちも知らないで……。)
思わず睨み付けそうになったのをギリギリで止めて、無表情に先輩を見つめ返す。
そうしながら、やっぱり宮原先輩が急に俺にそんな話をしたことが腑に落ちない。
ついこの前まで普通の先輩後輩の関係だったのに。
俺が、何か嫌われるようなことでもしたのだろうか?
黙って見つめ返していると、先輩はふっと真面目な顔をした。
そして。
「俺、お前には負けないから。」
そう一言だけ言うと、くるりと背を向けて階段の方に行ってしまった。
それをぼんやり見送ってから気付いた。
梨奈先輩のことで、宮原先輩に宣戦布告されたってことに。




