21 8月12日(火) 可愛い後輩
ドーナツ屋さんのショーケースの前で、ようやく静かになってきた鼓動にほっとした。
でも、広瀬くんに触れられた腕と背中にはまだ温かい気配が残っていて、それを意識せずにはいられない。
そんなことを悟られたら恥ずかしいから、必死に隠しているけれど。
(あんなところで転びそうになるとは思わなかった……。)
地面には何もなかったはずだから。
たぶん、初めて履いたサンダルのヒールが、タイルの継ぎ目にでも引っ掛かったのだと思う。
広瀬くんに、またドジなところを見られてしまった。
見栄を張って、初めてのサンダルなんて履いてくるんじゃなかった。
「決まった?」
鼓動が治まってきたことで余裕ができて、やっと広瀬くんの方を向くことができた。
さっきまでは、それさえもできなかった。
ドキドキしていることに気付かれたくないのと、視線を合わせることが恥ずかしくて。
広瀬くんが真剣にショーケースを見ているので、そのままこっそりその横顔を観察してみる。
日焼けした肌にくりくりした大きな目。黒眼が大きいことにさっき気付いた。
すっきりと高めの鼻。引き結んだ薄い唇。
(整った顔立ちって言えるよね……。)
と、広瀬くんが急にこっちを見た。
「決まりました。」
向けられた笑顔に、さっきの景色がよみがえる。
間近で見つめ合ったほんの数秒。
また鼓動が速くなってしまう。
腕と背中に、広瀬くんに支えられたときの重みがよみがえる。
動揺を隠そうと、咄嗟に顔をショーケースに向けて言葉を探した。
「見ると、わたしも食べたくなっちゃうなあ。」
あの支えられた瞬間、思いがけない力強さに驚いた。
少年っぽい華奢な体つきだから、わたしを支えられるほど力があるとは思ってもみなかった。
……自分が転ぶとも思ってもみなかったけど。
「一緒に食べましょう!」
広瀬くんの声が聞こえる。
この声の調子だと、きっとにこにこしているに違いない。
彼の声は、表情と同じくらい表現力に富んでいる。
「太ったら広瀬くんのせいだからね。」
広瀬くんをちらりと睨んで、余裕のある態度を装う。
でも本当は、視線を合わせる勇気がないのだ。
さっきのことを思い出してしまうから。
二人分の注文をして待つ間、店員さんが動き回るのを見ながら頭の中を整理する。
(広瀬くんは後輩。)
そう。
知り合ったきっかけは違っているけれど、部活の後輩と同じ。
ボラ部の活動に協力してくれている後輩。
ボラ部には男子部員はいないけど、男女混合の部はたくさんある。
友人の中には、男子の後輩と仲良くしている子もいる。
だからわたしと広瀬くんが仲良くしていても、特別なことではないのだ。
(可愛いと思うのは仕方ないよね?)
最初にそう思ってしまったのだから。
雪見さんが図書室で絵本を読んでくれた日、それを聞きながら無邪気に笑っていた広瀬くんは、本当に楽しそうで可愛かった。
親しくなった今も、あの日のイメージは変わらない。
最初のイメージよりもしっかり者だということは分かってきたけれど。
(それに、わたしが好きなのは雪見さんだもの。)
それだけは揺るがない。
何がなんでも、わたしは雪見さんが好き。
なのに……。
「あ、ごめ…ん……。」
トレイを受け取ろうと伸ばした手が、広瀬くんの手とぶつかった。
それを、まるで熱いものにでも触れたように手を引っ込めて、そんな自分の行動に慌てる。
ドキドキしてしまうのはどうしてだろう?
「あ、いいえ……。すみません……。」
照れたように謝る広瀬くんの顔をまっすぐ見ることができないのはどうしてだろう?
(やっぱり、慣れてないからだよね……?)
深い意味なんてない。
だって、わたしの好きな人は雪見さんなんだから。
「あのう…、これ、……お土産です。」
席に着くと、広瀬くんがリュックから小さな紙袋を差し出した。
「お土産って……?」
予想外のことだったので、すぐには意味が分からず、その紙袋をじっと見つめてしまう。
「ええと、合宿の……。」
「あ、そうか!」
そう言えば、きのうまで合宿だったんだ。
だからこうやって、今日、会うことになったんだもんね。
でも、お世話になっているのは、わたしたちボラ部の方だ。
なのに、お土産なんて貰うのは申し訳ない。
「なんか……悪いよ。」
そう言った途端、後悔した。広瀬くんが、あまりにも傷付いた表情をしたから。
まるで自分が彼を苛めているみたいな気がした。
「あ、あの、でも、その、安いものですから。地域限定のお菓子で……。」
傷付いたことを隠しながら、気軽な雰囲気で微笑もうとしている。
その健気な様子に胸がキュンとしてしまった。
(あ〜、ごめんねごめんね! もらうから!)
「あ、お菓子なの?」
紙袋を受け取ると、広瀬くんはほっとしたように微笑んでくれた。
それを見て、わたしもほっとする。
「ありがとう。開けていい?」
「はいっ。あの、き、今日の、お礼ですっ。」
(「今日のお礼」って、今日は今までの分のお礼のためにおごりに来たのに……。)
そんなことを思っても、嬉しそうににこにこしている広瀬くんに、余計なことを言いたくなかった。
だから黙って袋を開けながら、来週の家族旅行で広瀬くんにお土産を買って来ようと決めた。
「わあ、リンゴ味のグミ? 可愛いね。合宿ってどこだっけ?」
「長野です。夜は結構涼しかったんですよ。」
「そうなんだ〜。いいな〜。」
広瀬くんと部活や合宿の話をしながら思う。
自分が誰かを喜ばせることができるって、とても嬉しい。
わたしの言葉やすることで誰かが幸せになってくれたら、わたしも幸せな気持ちになれる。
(これってボランティアの基本だよね?)
そう思ったところでちょっと訂正。
(広瀬くんに関しては、ボランティアとは違うかな。)
広瀬くんはただの “誰か” ではない。可愛い後輩なんだもの。
楽しい気分でいてほしいと思うのは当然のこと。
「あ、そう言えば、広瀬くんの小さいときの写真見たよ。」
土曜日に広瀬くんの家に行ったとき、玄関や居間にたくさん飾ってあった。
入学式やサッカーをやっているところや、赤ちゃんの弟くんを抱っこしているところ。
ご両親に大切にされているんだね、と、聡美と話しながら帰って来たのだ。
「え?! しまった! 片付けておくように言えばよかった!」
目を剥いて慌てる彼が面白くて、もっとからかってみる。
「『ショウくん』って呼ばれてるんだね。高梨さんが何度も言ってたよ。」
「うわ。その呼び方は小学校のときに断ったのに……。」
ますます苦い顔をする広瀬くん。
「そうなの? でも、可愛いじゃない?」
「だから嫌なんです。」
今度は少しふくれっ面に。
本当に、感情がそのまま表情に出てしまう子だ。
「嫌なんだ〜?」
「嫌です。」
ふて腐れて答える広瀬くんに、わざと笑顔で話を続ける。
「残念だなあ。わたしたち、これからそう呼ぼうと思ってたのに〜。」
「え? 『わたしたち』って……?」
広瀬くんがぱっちりと目を開けてこちらを見た。
驚かせたことが楽しくなって、わたしの口も滑らかになる。
「ボラ部の2年生だよ〜。みんなで可愛がってあげようって……。」
わたしが言い終わらないうちに、広瀬くんが首をふるふると横に振った。
「い、いいです。遠慮します。」
「そう?」
「はい。あの、」
まだ言葉が続くのだと思って広瀬くんを見返した。
けれど、彼はそのまま下を向いてしまった。
よく見ると、耳が赤い。
「……いいです。」
(あんまりからかい過ぎちゃったかな?)
純情な後輩を、こんなに恥ずかしがらせてはいけなかったかも。
「ごめんね、冗談だよ。」
機嫌を直してほしくて、彼の顔を覗き込む。
すると、広瀬くんはちらりとわたしを見返して、慌ててまた目を伏せた。
(これなら大丈夫だな。)
心の中で笑ってしまう。
このパターンは、広瀬くんとわたしのゲームみたいなものだ。
わたしがあと一言甘やかすか、からかうかすれば、広瀬くんはそれ以上ふて腐れてはいられないのだと勘で分かる。
「ほら。ドーナツを半分あげるから。」
自分のドーナツを半分に割っていると、広瀬くんがゆっくりと顔を上げた。
まだ困ったような、拗ねたような顔をしている。
「先輩だけなら……いいです。」
「え? 何が?」
意味が分からなくて尋ねたら、広瀬くんはふっと視線をそらしてしまった。
「……いいです。」
「そう? はい、これ、どうぞ。」
「……どうも。」
(まだ少しご機嫌斜めかな?)
と思ったら、わたしがあげたドーナツに大きな口で噛みついた。
そして、にっこり。
(よかった。)
それに応えて微笑んで、また話を再開。
思ったよりも時間が過ぎるのが速くて、お店を出て市立図書館に向かったのは10時を過ぎてからだった。




