6 5月14日(水) (2)
「はずれ。休んだのはじいちゃんのためじゃない。母ちゃんのためだ。」
少し明るい表情になった裕司が言う。
「それって……違うの?」
「うん、違う。俺はじいちゃんのことは看られない。母ちゃんも父ちゃんも、俺たちには手を出させないから。トイレも風呂も、着替えも食事も、『大丈夫だから。』って笑顔で言うんだよ。それに……やっぱり、いざとなったら手が出ない……。」
「そう……。」
なんとなく辛いな……。
「だから、俺は母ちゃんに付き添うことにしたんだ。俺、けっこう母ちゃんと話すから、俺がいればストレス解消になるんじゃないかと思って。」
「ああ……。うん、きっとそうだね。」
わたしの言葉に裕司が嬉しそうな顔をする。
「最初は、俺が学校で友達と上手く行かないのかと思って心配してたみたいだけど、最近は俺に愚痴もこぼしてくれるようになってさ。」
「そう。」
裕司は優しい。
きっと、おばさんには何も理由を言ってないんだ。
でも、おばさんは気付いているのかも。
「母ちゃんは、俺とマサユキにはじいちゃんの愚痴を言ったことがなかったんだ。じいちゃんが認知症で面白いことをやったりしたときには笑いながら話してくれたことはあったけど、自分が辛いってことは言ったことがなかった。」
「そうなんだ……。」
「今だって、たいした愚痴じゃないけどな。でも、この前はちょっとしんどかったな。」
「そうなの?」
「じいちゃんがデイサービスから帰って来たとき、送って来た施設の人がじいちゃんに『ほら、お嫁さんがお待ちかねですよ。』って言ったんだって。それが母ちゃんには耐えられないくらいキツかったんだ。」
「その、一言が……?」
「うん。母ちゃんは冗談っぽく言ってたけど……『待ちかねていなくちゃいけないのかな?』って言った声が震えてて……。」
待ちかねていなくちゃ……。
「智沙都にはよく分からないよな。普通の人には単なる言葉なんだよ。外出から帰ってきたら、家族が待っててくれるよ、『ほらね。』って。昔の母ちゃんなら、そんなの気にしなかったと思う。」
「うん……。」
「母ちゃんはもちろん、出迎えのときは笑顔でじいちゃんに『おかえりなさい。』って言ってるよ。だけど、『お待ちかね』なんて当たり前みたいに言われて……、うまく説明できないけど、じいちゃんと一緒にいるだけで精一杯なのに、 “帰って来るのを楽しみに待ってるのが当然だ” って言われたように感じて、自分が責められたような気がして傷ついたんだと思う。」
たった一言で傷ついてしまう。
誰も、何も、悪意なんてないのに。
「母ちゃん、今はじいちゃんには話しかけられないんだ。 ―― ああ、もちろん、必要なことは言うよ、『朝だから起きて。』とか、『ご飯だよ。』とか、『トイレ行こうね。』とか。じいちゃんがわけがわからなくても怒鳴ったりしないし、嫌な顔もしない。だけど、それ以上は無理みたい。」
わたしの頭にはいつも見ていたおばさんの記憶しかない。
うちのお母さんと同年代のはずなのになんとなく可愛い雰囲気を漂わせて、いつもにこにこしていたおばさんの記憶。
そのひとが、裕司をこんなに心配させるほど……。
「しばらく前までは、よく話しかけてたんだぜ。じいちゃんが好きな野球とか相撲のこととか。自分は全然興味ないのにさ。」
それはわたしも知っている。
昔、裕司の家に遊びに行っていたころも、おばさんがおじいちゃんに笑顔で話しかけていたのを覚えている。
「だけど、今の母ちゃんにはそれはもうできないんだ。そんな余裕がないんだよ。」
裕司がまた淋しそうな顔をする。
「じいちゃんの症状が進んだこともあるけど、毎日のいろんなことの積み重ねで、いっぱいいっぱいなんだと思う。……ほら、花粉症ってさ、毎年少しずつ積み重なって、その人の許容量を超えると発症するって言うだろ? ストレスも同じなんじゃないかなって、最近思うよ。」
少しずつの積み重ね……か。
「おじいちゃん……、やっぱり大変なんだね?」
「うん、まあな。……でも、家族だから。」
そう言って、裕司はあきらめた顔で微笑んだ。
「うちのじいちゃんさ、すげえこだわりがあって。」
そう言った裕司の声が少し明るくなっていて、ほっとする。
「こだわり?」
「いろんなものが決まった場所にないとダメなんだよ。1センチでもずれてちゃダメなんだ。座布団とか、ポットとか、玄関の靴とか、新聞とか、洗面所のタオルとか……何でも。誰かがその場所を離れると、すぐにそこに行って位置を直すんだ。台所まで。」
なんか、嫌なプレッシャーかも……。
「それに、何時になったら雨戸を閉めるとか、玄関の明かりを点けるとか、風呂を沸かすとか。季節で変えるっていうのが分からなくなってて、やってないと何度も言うんだよ。」
ふええええ……。
「あと、食事が最大の楽しみだから、夕方になると、母ちゃんから目を離さないんだ。メシの仕度してるときも、じーっと見てるんだぜ。認知症だって分かってすぐからだから、もう6年くらいそういう状態なんだよ。」
「ああ……。」
おばさん……気の毒……。
わたしがもし勉強をしようとして、それを担任にじーっと見られていたりしたら(それも毎日!)、耐えられない!
「だからそういうとき、俺が『ほら、テレビ見てろよ。』とか『おとなしく座ってろよ。』とか言ってやるわけ。そうすると、じいちゃんは『はいよ~。』とか機嫌よく言って座るんだけど、2、3分すると、また始めるんだ。母ちゃんは、もうじいちゃんには何を言っても無駄だって諦めてて、それ以上ストレスを溜めないように、なるべく視界に入れないようにしてるのがわかる。だけど、見てないと、食べられるものがあると何でも食っちゃうから一人にできないし。」
想像してみても、おばさんの気持ちを本当に理解することはできないのかも知れない。
おばさんの気持ちも、裕司たちの気持ちも。
「おばさん……大丈夫なの?」
「うん……。あと少しで終わるから……。」
「あと…少し?」
「うん……。今、父ちゃんが施設を探してるから……。」
施設……。
世間ではよくあることだ。
でも、自分の知り合いがそういうことになったと聞くと、とても複雑な気持ちになる。
「可哀想だと思う……よな? 俺もそう思ってた。だけど、あの本を読んで変わった。」
「あの本……。」
「もちろん、家族と離れたら淋しいだろうと思う。だけど、施設の人は、そこで暮らしている人が幸せに過ごせるように考えてくれてる。だから、もう家で看るのは限界だって思ったら、そこを頼ってもいいんだって。それは、じいちゃんを見捨てるってことじゃないんだって。」
「ああ……、そうだね。」
「本当はさあ、俺が言おうと思ったんだ。父ちゃんに、『このままだと母ちゃんが危ないぞ。』って。だけど、間に合わなかった。」
裕司の淋しそうな顔を見ると、わたしも淋しい気持ちになってしまう。
「おじさんが気付いたの?」
「違う。母ちゃんが自分で言ったらしい。 ――― 母ちゃんには言わせたくなかったんだよ、家族を切り捨てるようなことを言うのは辛かったはずだから。よく、父ちゃんの親だし、自分が働いていたときに俺たちの世話をしてもらったからって言ってたからな。」
裕司……。
「だけど、俺もいざとなったら簡単には言い出せなかった。そしたら日曜日に父ちゃんが施設の見学に行くって言っててさ……。俺、何の役にも立たなかったよ。」
そう言ってため息をついた裕司の横顔を、わたしはただ尊敬の気持ちでいっぱいになって見つめた。
裕司はもうお子様なんかじゃない。
言葉にされない気持ちを理解しようとして、誰かのために黙って行動するようになって。
顔つきだって、いつの間にかとても大人っぽくなった。
「あ、でも、一つだけ言った。『なるべく近くの施設に』って。そしたら俺だって顔を出せるから。まあ、そんなことは父ちゃんだって考えてたはずだけど。」
「……優しいんだね、裕司は。」
ぽつりと出た言葉に、裕司がぎょっとしたように身を引いた。
わたしに褒められたことが、よほど気持ち悪かったのかな。
「そ、そうか?」
「うん。おばさん、きっと、すごく助かってると思うよ。」
「 ――― そうかな?」
「そうだよ。……みんなに、そう言えばいいのに。部活を休んだ理由。」
「やだよ。」
また嫌な顔。
「なんで?」
「だって……マザコンぽいから。」
「え……?」
「母ちゃんのためだなんて、言えるわけないだろ?」
「べつに、おばさんのためじゃなくて、おじいちゃんのことでも……。」
「いいんだ、言わなくて。」
「ふうん……。」
そんなに恥ずかしいの?
みんな裕司のこと見直すと思うけど。
こういうところは、やっぱりお子様かしら?
なんて思っていたら、裕司がにっこりと笑って言った。
「やっぱり、幼馴染みはいいな。」
「………え、そう、か、な?」
あんまり嬉しそうな笑顔だったので、今度はわたしがびっくりしてドキドキしてしまう。
「うん。」
“幼馴染み” ……。
今でもそう思ってくれてるんだ……。
「ふうん。」
なんだか、やけに嬉しい。
たった一言言われただけで、ほっとして、胸の中に小さな灯りがともったような気がする。
「“こいつなら分かってくれる” っていうのがあるだろ?」
「あ……ああ、そう?」
笑顔で同意を求められたら照れくさくなって、持っていたバッグの中を見てみたりする。
そんなことをしている自分にますます慌てながら。
そうしているうちに、裕司が足を止めた。
つられてわたしも立ち止まる。
「話聞いてくれてサンキュー。なんか、ほっとした。」
「あ……、そう? よかった。うん。」
お礼を言われてまた照れくさくなり、それでもなんとか普通の表情を取り繕ってうなずいてみせる。
「じゃあな。お疲れ。」
裕司はさっと手を上げてわたしに合図をすると、少し戻るように道路を渡って行った。
その背中を見送りながら、初めて自分の家の前まで来ていたことに気付いた。
(もしかして、送ってくれたのかな……?)
門を開けながら、いきなり予想外の可能性が浮かんできた。
それに自分で驚いて、同時に頬が熱くなって、また慌ててしまった。
ちょっと重いお話でごめんなさい……。