13 7月28日(月) 今日は失敗の日
(やっぱり今日はダメだ……。)
広瀬くんと並んで昇降口に向かいながら、そっとため息をつく。
朝の事件に引き続き、広瀬くんに、今度は痛い思いをさせてしまった。
(だけど、なんだか可愛いんだもん。)
汚れた手で汗をぬぐってしまうなんて、小さい子みたいで。
だとしても、赤くなるほど顔をこする言い訳になるわけじゃないけど。
(可哀想に……。)
わたしが先輩だから、遠慮して何も言えなかったに違いない。
ただひたすら申し訳ない。
そのうえ、木場さんのことを軽々しく言ってしまったりして。
考えなしの上に口が軽いなんて、どうしようもないよね。
広瀬くんの方がよっぽどしっかり者だ。
(あーあ……。)
またため息。
これじゃあ、雪見さんに認めてもらうなんて無理だ。
隣を歩いていた広瀬くんが、昇降口の外にある水道に小走りに向かった。
(ついでだから、あのタオルハンカチももう一度濡らしておこう。)
今の時期は暑いから、タオルもすぐに温かくなってしまう。
あんなことをしたお詫びに、少しでも長く冷やせるようにしてあげないと。
水道の上に置かれたタオルハンカチをとって隣で蛇口をひねると、広瀬くんがちらりとこちらを見た。
サラサラの髪がふわりと揺れる。
「あの…先輩、いい香りが、します…ね。」
少し詰まりながらつぶやいて、また自分の手に視線を戻す。
その態度とすっきり整った横顔に胸がドキッと鳴って、自分でびっくりした。
「え、あ、あ…そう?」
急だったので、返事に困る。
でも、慌てている自分を見せたくない。
「昨日買ったんだ。いい香り、かな?」
年下の男の子相手に恥ずかしがったりしたら変だ。
平気な態度に見えるように、視線をそらさずに微笑んでみせる。
そんなわたしに広瀬くんは、こちらを見ずにコクンと頷いた。
(やだ〜、可愛いよ……。)
男子の後輩って、こういう感じなんだろうか?
うちは三姉妹だし、女子だけの部活にしか入ったことがないから、年下の男の子と親しくなったことがない。
立ち上がって、首に掛けていたタオルをはずして手を拭く広瀬くんをぼんやりと見てしまう。
わたしよりも少し背の高い姿はまだ華奢で、少年らしさを醸し出している。
わたしの視線を避けるように少し横を向いた日焼けした顔は、さっきこすられた左の頬の赤みが痛々しい。
「はい、これ。このまま使ってて。」
「ありがとう…ございます。」
広瀬くんの遠慮がちな様子に影響されて、お姉さん的な気分で余裕が出て来た。
なんだか楽しくなって、落ち込んでいた気分がすうっと消える。
「あの。」
思い切ったように顔を上げた広瀬くんに、にっこりと微笑む。
優しい先輩に見えるように。
「なあに?」
「ええと、あの、文化祭のこと……。」
「……文化祭?」
「あの、先週…伊田が……。」
(ああ!)
「広瀬くんのお母さんに相談していいって言ってた…あれのこと?」
「はい。あの…、俺、訊いてみましょう…か?」
「え?」
「あ、ええと、その……、コツとか、気を付けていること、とか、あと…、失敗例とか。」
「え、お母さんに? ホントに? 実際にやってる人のお話だったら、すごく参考になるよ。いいの?」
「はい、あの、ええ、できます。」
「うわあ、ありがとう!」
なんて気が利くんだろう!
こんな年頃になると、親と話すのを嫌がるのかと思っていたけど、すっごいいい子だよね?
「で、その、あの、先輩に伝えるのは……あの、どうしたら……。」
(あ、そうか。)
「連絡先ね。教える教える。携帯持ってる?」
「あ、はい。」
(気が利きながらも図々しくないところもいいなあ。)
赤外線でデータを交換しながら、少しドキドキしてしまう。
わたしのアドレス帳には、男子はほとんど入っていない。
男の子とそこまで仲良くなったことがないのだ。
(まあ、広瀬くんから事務的な用事以外が送られてくることはないだろうけど。)
わざわざそんなことを考える自分に笑ってしまう。
いったい何を期待しているのか。
昇降口を通って階段を上り、図書室の廊下に差し掛かる直前、広瀬くんが立ち止まった。
つられてわたしも足を止める。
「どうしたの?」
振り返ると、広瀬くんの真剣な顔。
またしても胸がドキッと鳴る。
「その……、梨奈先輩って、呼んでもいいですか?」
少しかすれた声。
真剣な表情とその声が意味するものは……何?
「あの……?」
鼓動が速くなった。
さっきからこんなことばっかり。
だけど……。
こういう質問の意味は尋ねにくい。期待していると思われたら恥ずかしいから。
ただの社交辞令かもしれないのに。
でも、広瀬くんが、もしかしてわたしのことを……だとしたら、断らなくちゃダメだ。わたしは雪見さんが好きなんだから。
(こういうことって、どのくらいが普通なんだろう?)
全然分からない。
困って答えられないでいると、広瀬くんが慌てて付け足した。
「あ、その、ほかにいるんです、あの、『佐藤先輩』って。」
「……あ、そうなの?」
(なんだーーー! 変なこと訊かなくて良かったーーー!!)
一気に脱力。
考え過ぎだった自分が、逆に恥ずかしい。
「ええ、その…先輩って、ゴリラみたいな人で……、だから、なんかイメージが……。」
「あの、いいよ。どうぞ。」
ほっとしたら簡単に返事ができた。
ちょっと考えれば分かるはずだった。
佐藤姓は本当にいっぱいいるのだから、呼び分けをしたくなるのは当然だ。
「ありがとうございます!」
勘違いしかけたことを気取られないように、 “そんなこと何でもないわよ” 的な笑顔を作って広瀬くんに向ける。
(後輩なんだから、気にすることなんてないんだ。呼び捨てにされるわけではないし。)
そう自分に言い聞かせて並んで歩く。
慌てた自分が馬鹿みたい。
けれど。
「梨奈先輩。今日はありがとうございました。」
図書室の戸を開ける直前、笑顔で言った広瀬くんにまた胸がドキッとして……。
男子の後輩に慣れるのは、まだ少し時間がかかりそう。




