14 7月10日(木) やっと落ち着いたのに
龍野くんに彼女がいることを知った日は、夜までずっと胸がちくちくした。
何度もため息をついていることに気付いて、情けなくなった。
寝るころになると、この前までは何とも思っていなかった人のことでこんな思いをするのは変だ、と思った。
けれど、翌朝には不思議と落ち着いていた。
完全に元どおりという気分ではないけれど、辛い期間は過ぎて、軽い虚脱状態とでも言うような。
眠りが癒しになるというのは本当のことらしい。
だとしても、たった一晩でこんなに吹っ切れているのは、わたしの恋心がそれほど大きくなかった証拠かも。
やっぱり、早く分かってよかった。
でも、学校の廊下や物理の授業で龍野くんと顔を合わせなくちゃいけないときは、どうしても悲しくなる。
それを悟られないように振る舞うことも空しい気がする。
けれど、この前のように龍野くんに心配されるのは困る。
そんなことをされたら、思いっきり怒鳴ってしまいそう。
だから頑張った。
放課後、一日頑張れた達成感で音楽室に行くと、後輩たちが「もう大丈夫なんですか?」と声を掛けてくれた。
それにお礼を言いながら、わたしには心配してくれる仲間がいる、と自分に言い聞かせた。
龍野くんがいなくても……。
部活の個人練習の時間は、今日は麻美と一緒にやろうと約束してあった。
二人で練習するときはわたしの練習場所で、と決めている。
一緒に階段を降りながら、 “この前みたいに龍野くんがいたらどうしよう?” なんてびくびくしたけれど、もうそんなことがあるわけない。
龍野くんは、わたしが元気がなかったから心配してくれたのであって、元気になったことを確認した今では、もう用事はないのだから。
なのに。
楽器と譜面台を持って階段を下り、廊下に出ると……。
「あれ? 誰かいる。」
麻美と同時にわたしも気付いていた。
けれど、言葉が出なかった。
廊下の壁に背を付けて座っていた男の子。
わたしたちに気付いて立ち上がると、背が高いのが分かった。
それを確認しなくても、わたしには分かっていたけれど。
どうしようかと迷ってわたしを見る麻美と、こちらに歩いてくる龍野くんを見つめて動けないわたし。
龍野くんはわたしたちの前で立ち止まった。
「ちょっと……話せるかな?」
低くてかすれた声。
視線はわたしを捉えたあと、すぐに逸らされた。
「胡桃……?」
麻美の声で一度彼女を見るけれど、どうしたらいいのか分からない。
龍野くんを見上げても、心の準備をしていなかったから、何を言えばいいのか分からない。
まるで助けを求めるように、トランペットと譜面台を持つ手に力が入る。
「どうして……?」
やっと出たつぶやくような声。
口の中が渇いているみたい。
頭がぐるぐるする。
胃のあたりが重い。
「あの……。」
龍野くんがちらりと麻美を見た。
「できれば…駒居と二人で。」
そう言ってまた目を伏せる。
その間にわたしの心は、悲しくて恐ろしい気持ちでいっぱいになってしまう。
「胡桃?」
麻美が腕をつかんだ。
それにつられて麻美を見ると、真剣な顔をしている。
「大丈夫?」
(一人にしても平気かって訊かれてる……。)
「うん……。」
頷きながら微笑んだつもりだけど、ちゃんと分かってもらえただろうか?
「わかった。頑張るんだよ。」
そう言って、麻美は階段を駆け上って行った。
それを見送って、龍野くんに向き直る。
「あの、ごめん、練習中に。」
龍野くんが申し訳なさそうに言った。
おおらかで元気な龍野くんが、今はこんなに畏まっている。
わたしに関わったばかりにそんな思いをしたりして……。
不思議なことに、元気のない龍野くんを見たら、急に悲しさも怖さも消えてしまった。
それに代わって浮かんできたのは 「ごめんね。」 という気持ち。
「ええと、荷物を置いてもいい?」
自然に微笑むことができた。
もうわたしは大丈夫。
廊下の突き当たりまで行って荷物を下ろし、後ろに立っている龍野くんと向き合う。
「あの…、ええと…、」
龍野くんは口を開いては言葉に詰まり、頭を掻いたり、上を向いたりしている。
こんなに落ち着かない龍野くんは珍しい。
よほど言いにくい話なのだ。
「その、なんか、や…、焼きもちをやいてるみたいで……。」
(焼きもち……?)
「あの、その、……この前、俺、『良心の問題』なんてカッコいいこと言っちゃった……けど、その……。」
(ああ、なるほど!)
龍野くんの用事が何なのか思い当たって、また気の毒になってしまう。
龍野くんは、彼女が焼きもちを焼いているから、もうこの前みたいにわたしの心配はできないって言ってるんだ。
自分はわたしのために行動してくれたけど、彼女がそれに納得できないでいるからって。
わざわざそんなことを言いに来てくれるなんて、本当に正直なひとだ。
「ああもう! なんで普通に話せないんだ!」
龍野くんが頭を抱えて叫んだ。
そんな姿を見せられたら、ますます申し訳なくなってしまう。
「いいよ、龍野くん、分かってるから。気にしないで。」
龍野くんが驚いてわたしを見る。
「分かってる? いつから?」
「昨日。」
「昨日?」
眉間にしわを寄せて、龍野くんが首を傾げる。
「……昨日?」
確認するように尋ねられ、わたしは「うん。」と頷く。
龍野くんは腕を組んで少し考えてから、不思議そうな顔でわたしを見た。
「昨日、俺の気持ちに気付いた?」
「龍野くんの気持ち……?」
わたしも首を傾げる。
どうも話がずれている気がする。
考えてみてもよく分からなくて、仕方がないから訊いてみることにした。
「ええと、焼きもちっていうのは……?」
「え?!」
わたしの質問に、龍野くんが身構える。
「あの……誰が?」
「ええと……俺。」
(……何だろう? 文法が間違ってるのかな? “彼女がわたしに” 焼きもちを焼くんじゃないのかな?)
龍野くんはわたしとは目を合わせずに、下を向いている。
「あの、誰に?」
「あ、その…、佐川……。」
(?????)
どうしてここに佐川くんが出てくるんだろう?
「あの……、よく分からないけど、龍野くんは佐川くんの彼女が好きなの?」
「え?!」
驚いてる。当たり?
ってことは……。
「ああ! だから、わたしに取り持って欲しいってこと?」
「いや……、え?」
「ああ、でも、ちょっと無理だよ。佐川くんたちってすごく仲いいし、わたしも二人の仲を裂く手伝いは ――― 」
「いや、違う違う違う。っていうか、佐川の彼女って……?」
「え? 麦山高校のアヤちゃんだよ。吹奏楽部の。」
「あれ…? じゃあ……駒居とは……?」
「佐川くんとわたし? 同じ部活で部長と副部長だけど……。」
「同じ部活……? 佐川って……ブラバン……?」
「……知らなかった?」
「同じクラスでも、あんまり接点が無かったから……。」
(ちょっと待って。龍野くんが、佐川くんとわたしの仲を勘違いして、焼きもちをやいてたってこと……?)
もしかして。
驚いて龍野くんを見上げると、ほっとした顔で笑っていた。
「よかった! じゃあ、俺、駒居の相手に立候補したい。ダメかな?」
「『ダメかな?』って……。」
笑顔の龍野くんを見上げたまま、わたしの頭の中は、いろいろな景色が入り乱れてごちゃごちゃになっていた。




