13 7月9日(水) そういうことだったんだ
お礼を渡そうと意気込んでいたけれど、いよいよとなってみると難しい。
チャンスはいくらでもありそうなのに、言い出せない。
廊下で見かけると、逆に隠れたくなってしまう。
物理のときは、ギリギリに行って、そそくさと帰って来てしまった。
お昼休みはほとんど教室から出ないで過ごした。
(わたし……何をやってるんだろう……。)
単にお礼を渡すだけ。
重大な告白をするわけじゃない。
(佐川くんに用事があるときは、あんなに簡単だったのに……。)
こんなに決心がつかないってことは、やっぱり龍野くんは特別なんだ……と、変なところで納得。
納得したら、余計に緊張してきてしまったけれど。
結局、授業が終わっても渡しに行けないまま、部活に行く時間になってしまった。
いつでも渡せるように、紙袋はスカートのポケットに入れたまま。
これでは袋がくしゃくしゃになって、見栄えが悪くなってしまう。
バッグのポケットかポーチに入れ替えようかと思うけど、チャンスのときに渡せないのは困る。
(メールか電話が使えればなあ……。)
龍野くんが言い出さないなら、わたしから言えばよかった。
でも、あの日はそれは悪いような気がしたし……。
いつもの練習場所に向かうため、音楽室を出る。
廊下の窓から見える外は雨。
窓に近付いて下の中庭を覗くと、水色の傘が一つ、A棟の下をくぐって行くところだった。
向かいのB棟の1階にある昇降口の屋根の下、D棟側の隅にカップルが立っている。
今いる4階からだと屋根の陰で顔は見えないけど、きっと二人ともにこにこ笑っているんだろう。
男女のペアで一緒にいてもカップルじゃない場合もあるけど、あの二人は絶対にそうだ。
陸上部のジャージを着た女の子が制服姿の男の子の腕につかまって甘えている。
男の子の方が「放せよ」的な仕種をしてるけど、女の子は気にしていない。
(あんなふうに甘えられるなんて、すごいな。)
みんなが通る場所で堂々と、なんて、わたしには無理。
小さなお礼すら渡すことができないんだから……。
仲良しのカップルに微笑ましい気分になって階段を2階まで下りる。
職員室の前を通りながら、もう一度昇降口の方へ目を向けると、さっきのカップルがまだ ――― 。
(龍野くん?!)
思わず窓にへばりつくようにして確認。
やっぱり間違いなく……。
(龍野くんだ……。)
なんだか変だ。
見た景色をウソだとは思わないけれど、意味がちゃんと嵌まらない。
混乱しているのか、受け入れを拒否しているのか、頭の中が舟に乗ったように揺れている。
ぼんやりと歩きながら、何度も頭を振ってみる。
そうすることで目が覚めて、あの二人についての正しい解釈が見つかるような気がして。
けれど、頭を振っても、瞬きを繰り返しても、どうも納得がいかない気がする。
「は ――― 。」
半分のため息。半分の深呼吸。
いつもの場所で、ゆっくりと練習の準備をしている間に気持ちを落ち着ける。
トランペットで最初の音を出したら、すうっと事実が一つにまとまり始めた。
曲を吹き始めると、すべてのことが、あるべき場所に整理されていく。
(龍野くん、彼女がいたんだ。)
ようやくそれが、頭と心で理解できた。
不思議だけど、そのことは、今までまったく考えてみなかった。
でも、いても変じゃない。あんなに優しくて、いいひとなんだから。
それに、今までのこと全部、彼女がいたからだと思えばしっくりくる。
連絡先を交換しようと言わなかったこと。
「単なる良心の問題」だと言ってわたしを誘ったこと。
要するに、わたしは彼女としての対象じゃないと、最初から示されていたのだ。
それなのに、わたしは勝手に盛り上がって、期待して、お守りまで買ったりして……。
彼女がいるのに、元気がないわたしを心配してくれたんだ。
きっと相手の子も、龍野くんのそういうところを理解している優しい子なんだろうな。
(わたし……、馬鹿みたい。)
ひと際高く、強く、トランペットを吹く。
龍野くんには、ちゃんと心配してくれる人がいるのに。
龍野くんが、誰にでも気軽に話しかけるひとだって知っていたのに。
自分が特別に心配してもらえたつもりになって、こんな……。
楽譜が一区切りついたところで、ポケットから蛙の入った紙袋を取り出してみる。
一日中持ち歩いたそれは、角が少し毛羽立って、軽く折れ曲がっている部分もある。
なんとなくみすぼらしい感じが、今のわたしに似ている。
(これ、どうしよう?)
彼女がいる人に、お守りなんか渡せない。
何か縁のある人ならいいかも知れないけれど、わたしはただの知り合いでしかないから。
龍野くんは困るだろうし、いくら心の広い彼女でも、やっぱり嫌だろう。
かと言って、お守りっぽいものを捨てるのは、罰当たりな気がするし……。
袋を耳元で振ってみると、チリチリチリ…と、小さな鈴の音がする。
蛙の人形もこの鈴も、わたしはとても気に入って買ったのだ。
(自分で使えばいいか。)
蛙のお守りなら交通安全っぽいし、ポーチにでも入れておけばいいかな。
(わたしが大事にしてあげるからね。)
心の中で蛙に話しかけ、今度は無造作にポケットに突っ込む。
(渡す前でよかった。)
心からそう思う。
こんなものを渡していたら、困った勘違い女だと迷惑がられるところだった。
たぶん、龍野くんはそれを態度で示したりはしないだろうけど、受け取ってくれていたら、わたしはますます期待して……。
(本当に、深入りする前でよかった。)
うん。
今ならまだ傷は浅い。
ショックは収まったと思ったのに、全体練習になってみるとどうも上手く行かない。
やたらと大きな音を出したり、楽譜を飛ばしたりしてしまう。
「あー、ごめん!」と何度言ったことか。
「胡桃? 調子悪い?」
休憩に入ったとき、麻美が心配して訊いてくれた。
(仲良しの友達の麻美。)
「大丈夫。」
笑顔で答えながらも、呼吸が上手くできず、心臓がドキドキしてくる。
なんだか急に顔が熱くなったような気もする。
「勉強のし過ぎ? 胡桃は真面目だからなあ。」
「……そんなことないよ。」
(麻美。わたし、「真面目」って言われたくないの。)
ふと、そう思った。
その瞬間、思い出した。電車の中で龍野くんに「しっかり者なんかじゃない。」と愚痴を言ったことを。
あのときの景色と音が、くっきりとよみがえる。
龍野くんは少し驚いた顔をしながらも、「そうか。」と受け止めてくれて……。
(龍野くん……。)
龍野くんの声を思い出して、一気に悲しくなる。
笑顔を保っていられない。
あのひと言が、どれほど慰めになったか……。
「胡桃……?」
麻美が心配そうに顔を覗き込む。
「ちょっと……お腹が痛いの。」
それから小声で付け足す。
「生理痛。」
麻美が「ああ。」と頷いて、「薬いる?」と訊いてくれる。
それに首を振って、
「今日は帰ってもいいかな?」
と尋ねる。
こういうとき、女子はお互い様だと思っているから、ダメだとは言わないことが多い。
「うん、そうしたら? 最近いろいろあったから、疲れてるのかもね。」
麻美は佐川くんのことを言っているのだ。
(今のわたしの状態が失恋のせいだと知ったら、いったいどれくらい驚くんだろう?)
“失恋” という言葉で自分の気持ちを再確認することになり、また空しい気分に襲われる。
「ありがとう。ごめんね。」
急いで荷物を片付けて、みんなに謝りながら音楽室を出る。
あとの言い訳は麻美が引き受けてくれるはず。
とにかく一人になりたい。
平気な顔をするのが辛いから……。




