10 7月6日(日) やっぱり、ありがとう
更衣室で熱めのシャワーを浴びながら、胸の中でいろいろな感情がぐるぐると渦巻く。
腹が立つ、恥ずかしい、可笑しい。
結局、最後に勝ったのは、 “可笑しい” だった。
(だって、あのときの顔!)
ほんとうに、何度思い出しても笑ってしまう。
池の中でわたしが立ち上がったとき、龍野くんは心底驚いた顔をしていた。目をまん丸にして。
その理由を思うと恥ずかしくはあるけれど、まあ、セクシーな下着だったわけじゃない。(だからと言って、見られてもいいわけじゃないけど。)
それに、そのあとの龍野くんの行動は、誠実だったと言えると思う。
だから、龍野くんの失敗は、あそこでわたしが怒ったことでおしまい。
けれど、あのときの驚きようと慌てぶりは、どうしても忘れられない。
何度思い出しても、笑いがこみ上げてくる。
ほんとうに、よっぽどびっくりしたんだろう。あんな龍野くん、見たことない。
わたしをここに誘ったときも、午前中に手を差し出してくれたときも、わたしを女として考えていないようだった。
普段でも、あんまり男子とか女子とか気にしないタイプみたいだし。
そんな龍野くんでも、さすがにあれはダメだったらしい。
「く…ふふふ………。」
頭からシャワーのお湯をかぶりながら、また笑ってしまう。
(あのときは、わたしが怒ったことに驚いているのかと思ったけど。)
よく考えると、少し気の毒でもある。
あの筏に乗ろうと言ったのは、わたしだ。
なのに、上手く乗れないからと言って怒られて、予想外のものまで見せられて、急いで更衣室まで連れて来なくちゃならなくて。
きっと今ごろ、次は何を言われるかと心配しているんだろうな。
(悪いことしちゃったな……。)
そもそも今日は、元気がないわたしを心配して、龍野くんが誘ってくれたんだものね。
調子に乗ってはしゃいだ自分が悪いのに、失敗した龍野くんを怒るなんて間違ってる。
(謝って、お礼を言わなくちゃ。)
シャワーを終えて服を着るころには、穏やかな気持ちに戻っていた。
そうは言っても、顔を合わせるのはちょっと恥ずかしい。
更衣室のドアから覗いてみると、休憩コーナーのベンチに、こちらに背中を向けて座っている龍野くんがいた。
恥ずかしいけど、あんまり待たせるのは申し訳なくて、そうっと更衣室から出る。
龍野くんの肩越しに、スポーツ飲料のペットボトルを両手でもてあそんでいるのが見えた。
「お待たせしました。」
決心して明るく声を掛ける。何事もなかったように。
それに反応して、龍野くんが慌てて立ち上がって振り返る。
「ああ、あの、さっきは」
「あの、さっきはごめんね。あと、どうもありがとう。」
龍野くんの言葉を遮って、お詫びとお礼を一気に言いながら頭を下げる。
「あ、ええと、その、」
上から龍野くんの困った声が聞こえる。
その様子を想像して、頭を下げたまま、また笑ってしまう。
もういいかな、と思って起き上がろうとしたとき。
「ええと、俺の方こそ、ごめん!」
という声がして ――― 。
ガツッ!
「うっ。」
「いてっ!」
頭のてっぺんあたりに衝撃が……。
「いたたたたた……。」
「痛え……。こんなに近いとは思わなかったのに……。」
わたしは後頭部の上の方、龍野くんは額の上あたりを押さえて、向かい合うベンチに座り込む。
痛いというよりも、衝撃でクラクラする。
(龍野め! どんだけの勢いで頭を下げたのよ?!)
つい、恨みのこもった目つきで見てしまう。
その視線に気付いて、頭を押さえていた龍野くんがしゅんとなった。
「ごめん……。」
いつになく小さな声。
その声と態度は、大きな体とはあまりにもミスマッチで……、怒りはあっという間に消えてしまった。
その代わりに浮かんできたのは……。
「ふっ、うふふふふふ……。」
こらえようとしてもこらえきれず、笑いが漏れる。
「あれ、ごめん、その…うふふ、あの、何でもない。ごめん。」
笑いを止めようとしながらちらりと様子を窺うと、龍野くんは困った顔をしている。
そんな顔を見たらまた気の毒になって、わたしはどうにか笑うのをやめた。
「……ごめんね。」
機嫌が悪くなっていませんようにと願いつつ、顔をのぞきこんで謝る。
ちらっとわたしの様子を見て少し迷うようにしてから、ようやく龍野くんが背筋を伸ばした。
「……いいよ、べつに。」
それから小さく息を吐いて、照れくさそうに笑った。
つられてわたしも微笑みを返す。
ほっとした空気が流れて、龍野くんが何かに気付いたようにこちらを見た。
「駒居。髪の毛、ちゃんと乾かして来なかったのか?」
「え?」
続けて「これで大丈夫だよ。」と言おうとした。
けれど、すっ、と龍野くんが身を乗り出して手を伸ばしてきたのを見て、息を止めてしまった。
心臓がドクンと打つ。
一瞬後、龍野くんの右手が、左の耳をかすめて髪の先をつまんだ。
「なんだか濡れてるみたい…だ……け・ど……。」
硬直しているわたしと目が合って、途切れがちになった言葉と一緒に手も止まる。
そして、今日二度目の驚いた顔。
「ごめん!!」
言うと同時に、龍野くんは手を勢いよく引っ込めて後ろへ回した。
それからあたふたと視線をさまよわせ、最後に斜め下に。
その間、わたしは動けないまま、ずっと龍野くんを見ていた。
彼の首から上が真っ赤になったところも……。
(うそ……。)
髪に触れられたことよりも、龍野くんが赤くなったことにびっくりしてしまう。
池に落ちたときだって、驚いて慌ててはいたけど、赤くなんてなっていなかったのに。
(うわ、やだ。なんか………かわいいかも。)
龍野くんには似合わない評価だと思うけど、浮かんできた言葉はそのままわたしの胸に居座る。
だって、ほかに表現のしようがない。
(とにかく、この場をなんとか収めないと。)
急に主導権が自分に回って来たことに気付いて、 “しっかり者” 的な自分が目覚めた。
「龍野くん?」
少しからかい気味の口調で声を掛けると、龍野くんがわたしにちらりと視線を向ける。
「恥ずかしいでしょう?」
それを聞くと、また視線を斜め下に向けてしまう。
横を向いた龍野くんの耳はまだ赤い。
「だからね、男の子は女の子に気安く触っちゃダメなんだよ。」
「……うん。わかった。」
頷きながら、低い声が返ってくる。
後悔しているのか、反省しているのか、それとも今後のことを考えているのか、龍野くんは動かない。
この様子だと、まだしばらくは何も言ってくれそうにない?
(もうちょっとからかった方がいいのかな。)
「でもね。」
そう言って立ち上がる。
“え?” という顔でわたしを見上げた龍野くんの頭を、右手で一気にぐちゃぐちゃっとかき回す。
「女子はやってもいいんだよ。」
「うわ、やめ……。」
驚いた龍野くんが手で払いのけたときには、もうわたしは手を引っ込めていた。
「なんだよ、ちゃんとセットしたのに!」
文句を言いながら、急いで両手で髪を直している龍野くんが可笑しい。
「そう? あんまり変わらないよ?」
と言うと、怒った顔をしてわたしを見たけど、全然怖くなんかない。
龍野くんが、こんなことで怒るわけがないもの。
駅までの道を、たくさんおしゃべりしながら気持ちよく歩いた。
駅前のハンバーガーショップで一息……という提案はなかった。
そのことをちょっぴり残念に感じている自分を、肯定したい気持ちと否定する気持ちが交互に浮上する。
龍野くんはそんなことには気付かない様子で、いつもと変わりなく話して、笑う。
姫ケ崎から一駅でサヨナラする龍野くんにもう一度お礼を言って、急行へと乗り換え。
一人になってしばらくして、自分の心の中が、楽しかったことでいっぱいになっていることに気付いた。
(楽しいことが、こんなにいっぱいある……。)
そのことに、素直に感動した。
わたしの生活は、嫌なことばかりじゃない。
辛くて悲しいことはあるけど、楽しいことも、ちゃんとある。
そう思ったら、部活のことにも、新しい気持ちで向かい合うことができるような気がしてきた。
(そうだよ。今まで一緒にやってきた仲間なんだもの。)
みんなと対立することが怖くて、はっきりした意見を言わなかった。
嫌われたり、仲間外れにされたりすることが怖かった。
わたしには、必要なことをするための “覚悟” が足りなかったのではないだろうか……?
(よく考えてみよう。)
どうするのが一番いいのか。
どうしたら、上手く行くのか。
一緒にやってきた仲間のこと。
誰に、どう言えばいいのか、よく考えよう。
わたしの言葉に耳を傾けてくれることを信じて。
上手く行かなかったら……。
また龍野くんに愚痴を聞いてもらえるかな……。




