8 7月6日(日) 笑って、話して、ぼんやりして
(大丈夫かな?)
更衣室の鏡の前でチェック。
着ているのは、ゆったりしたダークグレーの七分丈パンツとベビーピンクのポロシャツ。
室内は靴は履かない決まりになっているので、足にはスニーカーソックス。
ロッカーの鍵のついた腕輪の赤が、ちょっとしたワンポイントになっている。
あごのあたりで切ってある髪は、雨の日の湿気でまとまらずにふわふわしている。
(まあ、こんなものか。)
自分の能力と見合うように、気合いの入った運動着に見えないものを選んできた。
ポロシャツの色は薄いけど、しっかりした生地なので下着は透けないはず。
(……なんてことを気にしても、龍野くんにはどうでもいいことなんだろうけど。)
ペットボトルとタオルを持って更衣室から出ると、階段前の休憩コーナーに龍野くんが座っていた。
白いTシャツと黒い七分丈のトレパン。
学校でよく見る姿でほっとする。
「おまたせ。」
声を掛けると顔を上げて笑って頷いた。
(それは単なる返事? それとも、わたしの服装にOKを出してくれたってこと?)
わたしったら、何を考えているんだろう?
龍野くんの言葉や動きに、いちいち意味を求めるなんて変だ。
おとといだって龍野くんは、わたしを誘うのは、純粋に良心の問題だって言ったんだから。
くだらないことは考えないで、思いっきり遊ばなくちゃ!
――― と、思ったけど。
はっきり言って、なめていた。
アスレチックって、もっと簡単な、子供だましのようなものだと思っていたのに。
もちろん、簡単なものもある。
でも大半は、本気で力を出さないと登れなかったり、集中しないと落ちそうになったりする。
いつの間にか来ていた小学生たちが、するすると動き回っているのが信じられない。
最初はこの歳になって人前で本気を出すのが恥ずかしかったけど、そんなものはすぐに捨ててしまった。
できない方が恥ずかしいし、龍野くんに馬鹿にされるのが悔しい。
女の子なら、人によっては「できないよ〜。」なんて言って甘えるのかもしれないけれど、わたしはそんなタイプじゃない。
やってみせて、龍野くんを感心させたい。
とは言え、体は思うようには動かず、コツもわからない。
丸太の急斜面をロープを使って登る場所なんて、ロープを握って足を斜面に突っ張ったまま、しばらく動けなかった。
うしろで龍野くんが、「押してやろうか?」と言って、爆笑していた。
仕返しに、ロープの網を渡るところでは、無理矢理追い抜きながら揺らしてやった。
「危ない、やめろ!」
と言いながら、片足を網の穴に突っ込んでしまった龍野くんを思い切り笑った。
ときどき、先に行った龍野くんが手を差し出してくれることもある。
登ったてっぺんで、わたしを引っ張り上げるために。
一番最初はさすがにどうしようかと迷った。
けれど、二人の間に妙な気詰まりが生じてしまうのが嫌で、思い切ってその手を取った。
龍野くんの手は大きくて、力強くて、とても頼りになる手だ。
本人がそのまま凝縮されているような手。
その手で掴まれると安心する。
“もう大丈夫” と思える。
最後に一回りのコースを決めて、二人で競争して午前中は終わり。
小学生に負けないほどたくさん大きな声を出して、たくさん笑った。
お昼を食べるために3階の展望フロアに上ったときは、心地よく疲れていた。
「わあ、海だ!」
展望フロアの広い窓の外にベランダがあり、その向こうには海が広がっていた。
来るときには雨が降っていたから足元しか見ていなかったけれど、ここは岬の上なのだと思い出す。
今は、雨は止んでいる。
灰色っぽい海のところどころに、雲の切れ間から光がさしていた。
「来るときに見えた駐車場はそれ。駅は後ろの方だよ。」
隣に立った龍野くんが示す方を見ると、左側に駐車場がある。
その向こうに芝生の原っぱとバーベキュー場が見えて、ずっと先の低いところに砂浜があった。
「あっちが渡り浜海岸?」
「そう。」
こんなに広い景色を見るのは久しぶりだ。
学校の校舎からはもちろん町を見渡すことはできるけど、海のように、人工のものが何もない景色ではない。
ここでお昼を食べる人はいないようで、展望フロアはわたしたちの貸し切り状態だった。
窓の前の特等席を選び、丸いテーブルに買ってきたものを広げた。
午前中のことをお互いにからかいながら、お腹が痛くなるほど笑う。
あんまり笑ってばかりで、買って来たサンドイッチがなかなか減らない。
なのに、同じように話したり笑ったりしている龍野くんは、あっという間にお握り3つと焼きそばパンを食べきってしまった。
それが可笑しくてまた笑ったら、龍野くんに「わけが分からない。」と呆れられた。
食べ終わってから、ベランダに出てみた。
手すりに腕を乗せて寄り掛かると、少し湿気を含んだ潮風が耳元を吹き過ぎる。
目を閉じて頭を腕に乗せたら、のんびりと繰り返す波の音が少し遠く聞こえて眠気を誘う。
「気持ちいい……。」
「……うん。」
一拍置いて、隣から返事が。
(さっきのは独り言? それとも返事を期待していた?)
自分でもよく分からない。
龍野くんの存在があまりにも自然で、どうでもよくて。
目を開けて隣を見ると、龍野くんも腕にあごを乗せて、ぼんやりと海を見ていた。
(ありがとう。)
ふわっと感謝の言葉が浮かぶ。
けれど、またしても、それは声にならない。
代わりに違うことを口にする。
きっと、龍野くんが喜んでくれることを。
「わたしね、あの本を読み終わったよ。ほら、『アンナプルナ登頂』。」
思ったとおり、龍野くんがこっちを向いてにっこりした。
「あれを読みながらね、なんか、自分と似てるなあって思っちゃった。」
「駒居と? 似てる?」
不思議そうに目を丸くする龍野くんに微笑んでみせる。
「うん。あの隊長さんがね、いろんな人の寄せ集めのパーティの中で、いろんな意見を言われちゃうこととか、一人で責任を負わなくちゃいけないこととか。」
「ああ。……なるほど。」
「ふふふ、そりゃあね、わたしは誰かの命を預かってるわけじゃないし、すごい期待を背負ってるわけでもないけど。」
「うん。普通の高校生だもんな。」
「そう。だけどね、思ったの。」
もう一度海に目を向けて、あのときの気持ちを思い起こす。
「もしかしたら、自分は逃げてるんじゃないかって。」
「……逃げてる?」
「うん……。みんなに良く思われたくて、対立することを避けてるんじゃないかって。」
「ああ……、そういうのって、誰にでもあるよな。」
少しハスキーな穏やかな声が、胸にゆっくりと広がる。
いつも龍野くんは、わたしの言葉を受け止めてくれる。
(優しいね、龍野くんは。)
「ふふ。」
浮かんだ言葉に、自分で思わず笑ってしまう。
こんなことを言ったら、龍野くんはびっくりして腰を抜かしてしまいそう。
「でも、問題がなかったことにはできないんだよね。」
「うん……、そうだな。」
目を閉じて、龍野くんの声を味わう。
ふと、もう一歩近づいたらどうなるんだろう、という思いが頭に浮かんだ。
(何考えてんの?!)
あまりにも馬鹿馬鹿しくて、自分で笑ってしまう。
そんな考えを打ち消すために、龍野くんの方に向き直って明るく言った。
「ねえ。雨が上がったから、外のもやってみたいな。」
「え? 外?」
龍野くんがベランダから下を覗く。
この建物の前から右手にかけて、アスレチックの施設が点在している。
「濡れてるとすべって危ないぞ。」
難しい顔をする龍野くんは珍しいかも。
「そう? じゃあ、見るだけでもいいけど。」
「うーん、そうだな。一回りしてみるか。」
「うん。」
少しでも体を動かしたい。
何かしていないと、わたしは余計なことを考えてしまうから。




