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はじまりは、図書室。  作者: 虹色
『ハックルベリイとわたし』
33/95

6  7月4日(金) 龍野くんの良心の問題


「ここで待ってれば、来ると思って。」


穏やかな低い声で龍野くんが言った。

わたしはその意味を図りかね、右手のトランペットと楽譜を胸に抱き締める。


A棟一階の廊下の端。

自転車置き場と体育館が見える窓。

外は雨で、今日は自転車置き場に来る生徒はいないけど、わたしがここで練習をしていることを知っている生徒は多いはず。

特に校内を歩きまわっている登山部の人たちならなおさら。

でも……。


「あの……?」


何を言われるんだろう?

わたし、何か失礼なことした?

あ、もしかしたらお昼休みのこと?

心配してもらったのに、会話を切っちゃったみたいになったから……?


「俺、考えてたんだけど…… 」


考えてた……?


「駒居って、男と出かけたら怒るヤツいる?」


男と出かけて怒る人……? わたしに……?


(ん?)


それって、つまり……。


「それって……わたしに彼氏がいるかってこと?」


「まあ、そうかな。」


「い…、いいえ、いませんけど。」


その質問はどういう意味? …とは訊けない。

でも、人のいない場所でわたしを待っていた龍野くん……。


一つの可能性が頭に浮かび、かあっと頬が熱くなる。


(いやいやいや、そんなことが起こるわけないよ。それに、龍野くん、ものすごく落ち着いてるし。)


頭の中で宥めても、鼓動が大きくなるのは止められない。頬の熱も引かない。

けれど、恥ずかしいのが勘違いだったらもっと恥ずかしい。

だから、何でもないふりをして、龍野くんをじっと見返し続ける。


「じゃあさ、日曜日に出掛けない?」


(出掛けるって言った! ってことは、やっぱりそうなの?!)


「あの……、ええと……。」


それなりの確信を得ても、100%確実とは言えないので返事に困る。

首を傾げて困っているわたしを見て、龍野くんは「ああ!」と明るく頷いた。


「ごめんごめん。デートに誘ってるわけじゃなくて。」


(え?)


驚くわたしの前で、龍野くんは今ごろになって照れたように頭を掻いた。


「ストレス解消に行かないかなー、と思って。フィールドアスレチックって知ってる?」


「知ってるけど……。」


期待…じゃなく緊張した分、一気に脱力。

でも、ストレス解消なんて……。


「うちの近くにあるんだよ。なんだか駒居さあ、今週になってから、見るたびに具合悪くなってるよ。物理の時間なんか、顔、真っ白だったぜ。」


ぎゅっと心臓が縮んだ。

誰にも気付かれないようにしていたつもりだったのに。


「あ…、そうだった……?」


(でも……、元気がないこと、心配してくれたんだ……。)


気付いてくれたことが嬉しい。

心配してくれたことも嬉しい。

有り難くて、思わず目を閉じて、深く息を吐いた。


「部活のことなんだろう?」


少し落とした声に、龍野くんのいたわりを感じる。

固まっていた辛い気持が緩んで、鼻の奥がつんとする。


「うん……。」


「誰にも相談できないでいたんだろう?」


「うん……。なんとなく、言えなくて……。」


龍野くんには素直に言える。

信じていい相手だと、心が感じてる。


「やっぱりな。」


小さくため息をついた龍野くんをそっと見上げると、呆れたように笑っていた。


「駒居って真面目すぎて、一つのことばっかり考えるタイプだろ? 息抜きとかしてんのか?」


「息抜き……。音楽を聞いたりはするけど……。」


「ほら見ろ。じっとしてるから、気持ちも動けなくなるんだ。辛いときは、体を動かさなくちゃダメだ。」


「……そう?」


「そう! 無理にでも何かする。それが一番!」


あまりの力説に、思わず笑ってしまう。


「ふふ。それは龍野くんだからじゃないの?」


「そんなことないだろ。誰にだって効くはずだ。」


そう言って胸を張る龍野くんに気持ちが和む。

とは言え、心配してもらっているからといって、どこまでも頼るわけにはいかない。


「ありがとう。でも、大丈夫だよ。」


「なんで?」


「だって……、そんなにお世話になるのは悪いから。」


「『悪い』って……、うーん……、そうか?」


「うん。」


頷くと、龍野くんは真面目な顔でしばらく考えていた。

それからパッと明るい顔になって言った。


「少し前、俺、本を読んだんだ。『ハックルベリイ・フィンの冒険』。知ってる?」


「ハックルベリイ……、トム・ソーヤーの……?」


「そう。『トム・ソーヤーの冒険』のあとの話。俺、普段は物語ってあんまり読まないんだけど、図書室の雪見さんに紹介されてさ。」


「図書室の雪見さん? 誰?」


「新しく来た司書だよ。始業式で紹介されてたけど?」


「そうだっけ?」


「うん。まあ、その人にちょっと『名作なんて本当におもしろいのか?』みたいなことを言ったんだよ。そしたら、自分はこれは好きだけどって出してくれて。」


「へえ。」


誰にでも気軽に話しかけるところは、龍野くんらしいよね……。


「本当は、半分挑戦みたいな気持ちで言ったから、『名作っていうのはね』なんてくどくど説明されるのかと思ったんだけど、そんなこと何も言わないで、ふわーんて笑って『これ、僕が好きな本だけど、試しに読んでみる?』ってさ。」


「ふうん。」


「でさ、あ、本はすげえ面白かったよ、一気読み。で、返しに行ったとき、雪見さんに『 “ものごとの価値は自分で決めていい” ってことだよね?』って言ったんだ。俺が名作のことを言ったから、その本を紹介したんだと思って。」


ものごとの価値……。


「そしたらさあ、あの人、『ああ、キミもそう思った?』なんて言うんだよ。またふわーんて笑ってさ。もっと理屈っぽいことを言うのかと思ったのに、違ってて気が抜けたよ。でも、俺、あの人は好きだな。今月はあの本も選んでたし。ああ、話が逸れたな。」


龍野くんに紹介されて読まないままの本の話が出て焦ったけれど、すぐに話題が変わってほっとした。


「ええと、その本なんだけど、主人公のハックが、筏でミシシッピ川を下る旅の話なんだ。」


「……うん。」


話がどこにつながるのかまったく分からない……。


「ハックはもともと浮浪児で、町の普通の人の暮らしとか父親の暴力が嫌で、自由が欲しくて旅に出たんだよ。」


暴力は分かるけど、普通の人の暮らしまで嫌だなんて、浮浪児も筋金入りだなあ。


「だけど、ハックは一人じゃないんだ。逃げ出した黒人奴隷のジムが一緒なんだよ。」


「黒人奴隷?」


そういう時代の話なんだ!


「そう。自分が売られそうになって逃げて来たんだ。でも、その頃の奴隷って雇い主の財産だったらしくて、その逃亡に手を貸すのは、他人に損害を与える行為ってことになるらしいんだ。最後の方でそれに気付いて、ハックは悩むんだよ。」


「悩むって……?」


「ジムの居場所を知らせて、持ち主に財産を返すべきか、ジムをこのまま逃がすか。ジムを逃がすことは、ハックも罪を背負うって意味なんだ。」


「ああ……そうか……。」


「で、最終的に、ハックはジムを逃がすことに決めるんだよ。持ち主に返したら、ジムは家族から遠いところに売られてしまうから。それに旅の間、ジムがハックを可愛がって面倒をみてくれたことを思い出して、世間の決まりよりも、自分の良心に従うことにしたんだよ。ハックはそれを “良心” だとは思っていないけど。」


「自分の良心……。」


「そう。俺、あの本ではそこが一番気に入ったんだ。」


龍野くんがにっこりと笑う。

普通の人なら “微笑む” かも知れないけれど、作りの大きな龍野くんの顔は、動きも大きい。“微笑む” では表現が控えめ過ぎる。


「だから、俺も自分の良心に従おうと思って。」


「龍野くんの……良心?」


「そう。駒居がさ、無理してるみたいだから。」


「あ……。」


軽い言い方だったけど、その笑顔と気持ちに胸を衝かれた。


「俺なんかが出しゃばらなくてもいいのかも知れないけど、なんか、見るたびに具合が悪くなってるのは見ていられないから。」


龍野くん……。


「放っておいて、気付いたら学校に来られなくなっていた、なんてことになったら、後味悪いし。これから受験もあるしな。」


放っておいたら後味が悪いから?

龍野くんの良心が、見ていられないから?


「一緒に出かけたら誤解するヤツもいるかもしれないけど、今、駒居は助けが必要だと思う。だから手を貸す。純粋に、俺の良心の問題。どう?」


緊張が解けて行く。

自分の周りの硬い殻がほろほろと崩れていくような気がする。


(ありがとう……。)


お礼を言いたいのに、声にならなかった。

その代わりに出たのは、何とも可愛くない一言で。


「わたしは逃げ出した奴隷ってわけ? で、龍野くんがハックルベリイ?」


それを聞いて、龍野くんはニヤリとした。


「駒居はまだ逃げ出してないだろ?」


「逃げ出す寸前だよ。」


情けない気分で言うと、龍野くんが笑った。

それを見てわたしも笑い、日曜日の約束をして、龍野くんは去って行った。


その日の全体練習も、翌日の土曜練習も、日曜日の気晴らしのことを考えて乗り切ることができた。

そして、紹介してもらった本も最後まで読み切った。








『ハックルベリイ・フィンの冒険』マーク・トウェイン著 村岡花子訳

新潮社(新潮文庫)

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