5 7月4日(金) なんだか何もかもダメ
おとといの帰りに取り戻した穏やかな気持ちは、昨日の午後まで続いた。
けれど、いざ音楽室に行くと、やっぱり気分が重くなった。
全体練習が進むにつれて緊張感が高まって、終わりごろにはわたしもつい口調が険しくなってしまった。
それを自覚しながら抑えられない自分に腹が立って、落ち込んでしまった。
帰り道では、落ち込んでいることを隠すためにわざとはしゃいで、それにまたイライラした。
烏が岡で麻美が電車を降りて一人になったとき、ほっとしている自分が妙に悲しかった。
そして……今日も落ち込んだ気分のまま。
でも、誰も気付かない。
気付かれないように、元気に振る舞っているから。
笑顔であいさつをして、普段どおりの会話。
けれど、心の中は梅雨の空と同じ重い灰色。
朝もお昼も食欲はないけれど、お母さんやクラスメイトにあれこれ訊かれるのが嫌でちゃんと食べた。
ときどき泣きたくなると、トイレに行って深呼吸。すって、はいて、すって、はいて。
もしかして、思い切って泣いたら、絞ったあとの雑巾みたいに心が軽くなるのだろうか?
自分が落ち込んでいることを見せないようにしているのに、誰も気付いてくれないことが悲しい。
矛盾している心に、また落ち込む。
教室で話していた昼休みの終わりごろ、部活が近付いたと思ったら息苦しくなってきた。
胸がざわざわして、とても嫌な感じ。
(こんな調子だと、耐えられないかも知れない……。)
浮かんだ予感に怖くなる。
自分の心が壊れてしまうような気がして怖い。
「なんだか手がベトベトする。お弁当のソースが付いてるのかも。洗ってくるね。」
やたらと詳しい言い訳がわざとらしい気がしつつ、みんなから離れて廊下に出る。
昼休みの賑やかな廊下を歩いていると、辛いのは自分だけのような気がして、孤独な気持ちになる。
「ふ………。」
またため息だ。
楽しげな誰かに話しかけられるのが嫌で、窓側の端に寄り、視線を2メートルくらい先の床へと固定して歩く。
これならみんな、わたしが急いでいると思ってくれそうだから。
(あ。)
目の前で紺のズボンが立ち止まった。
ぶつかりそうになったせいだと思って、避けるために廊下の真ん中方向へと一歩踏み出す。
「ごめんなさい。」
「 ――――― のか?」
謝りながら横をすり抜けようとしたときに聞こえた声に、足が止まった。
「え? あ……。」
顔を上げたら、龍野くんだった。
前から歩いてきた女子を通すために慌てて後ろに戻ると、龍野くんと向かい合う形になって……。
「ちゃんとメシ食ってんのか?」
ぼんやりと顔を見上げていたわたしに、龍野くんが少しゆっくりと言葉を繰り返す。
(ちゃんと、メシ……?)
一瞬考えてから、自分が食事をしていないように見えたのだと気付いた。
それほどあからさまに元気がなかっただろうか?
「…うん、もちろん。ちゃんと食べてるよ。」
頷きながら、笑顔になる自分が不思議だ。
同時に、何故か視界がぼやけてきて……。
「え、と、手を洗いに行くところなの。またね。」
両手を龍野くんの顔の前に広げてみせて、急いでその場を離れる。
急ぎ足で歩きながら、龍野くんの一言が胸にじんわりと沁みた。
最後の6時間目は物理の授業だった。
龍野くんと交わした短いやりとりにすがるような気持ちで5時間目を乗りきり、ほっとしながら選択教室1へ向かう。
クラスの仲良しグループでは、物理を取っているのはわたしだけ。
彼女たちと離れていれば、無理をして笑っている必要はない。
それに、物理の授業には龍野くんがいる。
ちょっと顔を見るだけでも落ち着くような気がする。
龍野くんで落ち着いたら、部活に出る元気も出そうな気がする。
けれど。
(早すぎた……。)
物理の教室に着いても、龍野くんは来ていなかった。
落胆の度合いが予想以上に大きい。
窓から2列目一番後ろの自分の席に向かう足取りが、少し鈍る。
それでも、無理に笑顔でいる必要がないことで気持ちが楽なのは間違いない。
席に着いたら、今度はなんだか落ち着かなくなってしまった。
そわそわした気分で教室の入り口を見てしまう。
でも、あんまりじっと見ていたら、まるで龍野くんを待っているみたいだ。
そんなことをされたら、龍野くんは困ってしまうかも。わたしが龍野くんに……何ていうか、期待しているような感じがして。
(うん……、そうだよね。)
龍野くんは誰にでも気さくに話しかけるひとだから、わたしのことだって特別じゃない。
それはちゃんと分かってる。
わたしだって、龍野くんに特別な気持ちを持っているわけじゃない。
ただ話しやすい男の子っていうだけで……、それと、あの外見がほっとするから。
(でも、あんまり頼り過ぎないようにしなくちゃ。)
話すとほっとするのは本当だけど、だからってそれに頼ってばかりいるのは変だし、申し訳ない。
部活の問題はわたしの問題で、龍野くんには関係がないんだから。
そう考えて、教室の入り口から目をそらした。
肘をついた手に顎を乗せて、前回までのノートをパラパラとめくりながら時間を潰す。
大きな話し声と笑い声が聞こえて、龍野くんが教室に入って来たのはチャイムとほぼ同時だった。
席に着く音が聞こえても、わたしは顔を上げなかった。
授業中、何度か見られているような気がしたけれど、授業に集中して気付かないふりをした。
そんなふうに気持ちを固めたせいか、今日は放課後に音楽室に向かう足取りに迷いがない。
べつに、何かを決心したわけじゃない。
何て言うか……、諦めのような、なげやりのような、どうでもいい感じ。
“心が空っぽ” って言うのは、こういう状態のことなのかも知れない。
怒りも悲しみも、……楽しささえも無い。
声を出すことも億劫だ。
廊下で一緒になった麻美の話に笑ってみせているけれど、最低限の言葉しか返していない。
わたしは金曜日に個人練習の前に走ることにしているけど、今日は雨なので中止。
さっさと荷物を置いて、楽器と譜面台を持って音楽室を出る。
部長のわたしが何も言わなくても、みんな各自でちゃんとやってくれる。
(今日、わたしが一言も話していないことに、誰も気付いてなんかいないんだろうな。)
勝手に空しい気分になりながら、A棟一階のいつもの場所へ向かう。
(雨だけど風はないから、突き当たりの窓を開けても大丈夫だよね。)
と考えながら降りて来たA棟西側の階段から廊下に出たら、突き当たりに人がいた。
窓からの逆光の中に、立ったまま壁に寄り掛かって本を読んでいるらしい男子生徒のシルエット。
(そんな……。)
お気に入りの場所に人がいて、思い切り動揺してしまう。
今まで、ここに人がいることなんて一度もなかったのに。
ここに来れば、大丈夫だと思っていたのに。
何もかもが上手く行かないような気がしてきて、泣きたいような気分になる。
“気分” だけじゃなかった。
じわっと目元が熱くなりハッとした。
(まずい。トイレ ――― 。)
くるりと反対方向を向いて。
「駒居!」
(?!)
わたしの名前が呼ばれた?
つまり、知り合い?
それに、あの声……。
何秒か目を閉じて、あふれそうな涙を止める。
目が赤くないようにと祈りながらそうっと振り返る。
「龍野くん……?」
ゆったりとした歩調と笑顔で近付いてきたのは龍野くんだった。




