4 7月2日(水) 愚痴は電車の中で
(やっちゃった……。)
麻美とまで一緒にいるのが辛いと思ったのは初めて。
解放感と一緒に、罪悪感も少し。
けれど、後悔はしていない。
本当に買う予定があったわけじゃないけれど、アリバイ作りのためにと思って本屋に行った。
駅のショッピングセンター2階にあるここの本屋はそれほど大きくなくて、通路に沿って細長い。
改札口側の入り口から入ると左側に本売り場、右側に文房具売り場。左の手前が参考書のコーナーになっている。
最終下校の時間なので、うちの学校の生徒の姿もちらほら見える。
(うちの部員はいないよね……?)
部員と一緒にいるのが辛くて逃げてきたのに、またここで一緒になったりしたら立ち直れない。
そろそろと本棚の間を抜けて、<高校参考書>の表示のある棚へ向かう。
手前の棚の向こうに男子の後ろ姿が見えるけど、うちの部員にあんなに大きな人はいない。
でも、もしかしたら……。
(やっぱり。)
龍野くんだった。
熱心に物理の参考書を開いて見ている。
大きな体と真面目な顔。
揺るぎのない安定感が漂っていて、ほっとする。
「今まで自主練?」
ためらいなく隣まで進み、声を掛けることができた。
驚いた表情でぱちぱちと瞬きをしながらこちらを向いた龍野くんの様子が楽しくて、ちょっと笑ってしまう。
「なんだ、駒居か。…いや、もう少し早く上がったんだけど、図書館に寄ってたから。」
「図書館?」
図書室、の聞き違い?
「学校からの途中にあるだろ? 知らない?」
「え……? ああ、そういえば……。」
矢印のついた看板が立っていたっけ……。
「龍野くんて、本、よく読むんだね。」
「うーん……、まあ、そうかもな。でも、偏ってるよ。山とか登山の本ばっかりだから。」
「ふうん。」
「今日は一人なのか?」
「え?」
唐突な質問に戸惑う。
「ほら、ブラバンって、いつも女子が固まって帰ってるだろ?」
「ああ……、うん、駅まで一緒に来たよ。」
答えながら、さり気なく目をそらす。そのまま参考書の棚に並んだ背表紙を目で追って。
そんなわたしを数秒見ている気配のあと、龍野くんの落ち着いた声が聞こえた。
「……そうか。」
その声にほっとした。
突っ込んで尋ねられなかったことにも。
それから龍野くんは口調を変えた。
「物理の参考書?」
明るく問われたのは、当たり障りのない話題。
わたしが部活の話をしたくないことに気付いたのだろうか?
「うん、まあ……。何か使ってるの、ある?」
「そうだな……。」
一冊ずつ取り出して見比べながら、次第に気分が晴れて行く。
結局、買わずに店を出ながら、いつの間にか嫌なことを忘れていたことに気付いた。
「駒居は家どこ?」
改札口を抜けながら龍野くんが尋ねた。
「南鵜川。この線で烏が岡から7つめ。龍野くんは?」
「俺は烏が岡で鯨崎線に乗り換えて、渡り浜。急行で3つ。」
じゃあ、烏が岡まで一緒か。
男の子と二人で電車って初めてだけど、龍野くんなら気にしなくていいかな。たった3駅だし。
ホームに降りると日が落ちるところだった。
始まったばかりの夕焼けで、東の空がかすかにピンク色。
風は止まっていて、少し蒸し暑い。
ホームには、うちの生徒は一人も見当たらなかった。
最終下校の帰宅ラッシュは過ぎたらしい。
ホームに立っている人もまばらだ。
この時間になると、住宅街にあるこの駅は、乗る人よりも降りる人が圧倒的に多くなる。
電車を待ちながら、自分たちの家の最寄り駅の話題で時間をつぶす。
「ファーストフードなんか1軒しかないんだよ。友達とおしゃべりしようとしても、コンビニの前か公園が普通なんだから。」
「じゃあ、うちの方が栄えてるかも。ファーストフードは2軒あるから。だけど、夏になるとめちゃ混みでさあ。海岸が近いから、その人たちでいっぱいなんだよ。」
「ああ、渡り浜って、海水浴場だっけ?」
「そんなに大きくないけどな。俺の家は海からは少し引っ込んでるけど、海に行くときは、海パンで自転車に乗って行く。」
「いいねえ。『暑いからちょっと行ってくるよ〜。』って泳ぎに行けるんだ。」
「うん、そんな感じ。」
到着した電車からたくさんの人が降りたけど、席が空くほどではない。
入ったドアの向かい側のドアの前に並んで場所を確保。
龍野くんはバッグを足の間の床に置いてドアに寄り掛かり、わたしはドア横の手すりにつかまる。
車内に入っている冷房が気持ちいい。
動き出した電車のドアのガラスから見える街並み。
見慣れている景色なのに、なんとなく見入ってしまう。
駅前の自転車置き場、その向こうに並ぶ屋根の色、遠くのビルの形……。
間違い探しのように、過ぎて行く景色を確認していく。
「部活、揉めてんのか?」
龍野くんの声が聞こえて、ハッとした。
意識が飛んでいたわけではないけれど、誰かと一緒にいるのにぼんやりしていたことに、自分でも驚いてしまう。
「あ……、まあ……、そうなんだよね。」
驚いて、慌てたせいか、誤魔化すことができなかった。
「なんていうか……、3年生が二つに分かれちゃって、それが練習中にぶつかってね。ここのことろ毎日。」
素直に話したら、またため息が出てしまった。
「人数が多いと大変だな。」
「うん……、それでも先輩たちはちゃんとやってきたのにね。」
「集まってるメンバーが違うんだから、いつも同じっていうわけには行かないだろ? 駒居は部長なんだっけ?」
「そうだよ。でも、全然役に立ってない。みんなから、 “役立たず” って思われてるよ、きっと。」
「何か言われたのか?」
「一部からは、こうなったのは、わたしがはっきり言わないからだ、って。それに、仲裁に入るとどっちからも睨まれるんだよ……。」
ああ、また落ち込んできた……。
「べつに、いじめられてるわけじゃないんだけど……、そういう態度を取られると傷付くよ。ああ…、憂うつ……。」
「しっかり者だと思ってたけど、案外弱気なんだな。」
龍野くんの言葉に、少し腹が立つ。
「しっかり者なんかじゃないよ。みんな勝手にそう思ってるだけ。」
「う…、そう、か?」
不機嫌な顔でちょっと強く言ってしまったので、龍野くんがたじろいだ。
申し訳ない気がしつつも気持ちが静まらなくて、外を見ながら愚痴を続けてしまう。
「そうだよ。思ってるっていうより、部員たちはそう思ってる方が便利だから、そう言ってるだけ。そう言って、嫌なことを押し付けてるんだよ。自分じゃなければ、誰だっていいんだよ、みんな。」
「そんなことないと思うけどな……。」
「ううん、そうなの。間違いなく。」
(麻美だって言ったんだから。「部長なんだから仕方ない」って。)
思い出すと、今でも悲しくなる。
誰にもわたしの気持ちは分からない。
誰も、わたしの味方になってくれない。
「そうか。」
ふっと聞こえた穏やかな声に、いつの間にか入っていた力が抜ける。
呼吸が楽になったような気がする。
「大変だな。」
たった一言にほっとする。
こんなふうに穏やかに返してくれるときの低いハスキーな声には、癒しの効果があるのかも。
「うん……。」
ドアに肩で寄り掛かったら、ワイシャツを通して伝わってくる冷たさが気持ち良かった。
それから授業のことや進路のことを話した。
女の子同士で話すよりもゆっくりめのペースで交わす会話は、わたしの気持ちを静めてくれた。
「じゃあな。」
と降りて行く龍野くんに穏やかな気持ちで頷いたあとは、暗くなり始めた外の景色をぼんやりと眺めながら電車に揺られていた。
眺めながら………、龍野くんとの会話を、頭の中で何度も思い出していた。




