3 7月2日(水) 気分はますます落ち込むばかり
「お。」
「あ。」
翌日の物理の授業。
選択教室1に行くと、教室前の廊下で龍野くんと一緒になった。
「昨日、悪かったな。」
「え?」
入り口を抜けながら急に謝られて驚く。
「いや、いきなり本を薦めたりしてさ。あの本を見てるヤツがいるって思ったら嬉しくなっちゃって。駒居が興味あるかどうか分からないのに。」
「あ、ああ…、いいよ、べつに。」
図星だったので慌ててしまう。
一応、あの本は借りたけど、読む気にならないままカバンに入れっぱなしだ。
後ろめたいので、席に向かいながら、さり気なく話をそらす。
龍野くんの席は窓側から3列目の一番後ろ、わたしはその窓側の隣。
話をそらすとは言っても、咄嗟に浮かんできたのは部活の話題。
気がかりなことは頭から離れないので仕方ない。
「龍野くんは、もう部活は引退したの?」
「俺? まあ、そうなんだけど、自主練で出てるって言うか……。」
「自主練?」
「うん。夏休みに親戚の伯父さんが南アルプスに連れて行ってくれることになってるから、その準備で。荷物を背負って階段を上ったり下りたりするには、学校が都合がいいんだよな。」
「ああ、そうだね。」
たしかに登山部の人たちが、リュックを背負って校内を歩きまわっている姿はよく目にする。
それに、走ったり、筋トレをしたりしているところも。
それにしても、部活以外でも行くのか。
本当に山登りが好きなんだ……。
「ブラバンはまだなんだろ?」
「あれ? 知ってた?」
「だって、駒居、先週も外周走ってたじゃん、ブラバンのポロシャツ着て。俺、途中で追い越したよ。」
「ああ、そうなんだ……。」
運動は苦手だから、走ってる姿もサマになってなかっただろうなあ……。
「引退はいつ?」
「夏休みの最初の大会で終わり。」
「へえ、受験があるのに頑張るなあ。それだけ結束が固いってことかもな。」
結束……?
「そうでもないんだよね……。」
ダメだ。
また思い出してしまった。
昨日もやっと行ったのに、全体練習では雰囲気が悪くて……。
「ふぅ………。」
思わずため息が出てしまう。
龍野くんは吹奏楽部には関係がないと思うと、なんとなくほっとする。
クラスで仲良くしているグループには吹奏楽部のアユミがいるので、部活の愚痴は気をつけなくちゃいけないから。
「大変そうだな。」
「うん…、まあね。」
そこまで話したところで先生が来て、話はおしまいになった。
話したのは短い時間だったけれど、龍野くんの「大変そうだな。」という言葉に、とても気持ちが癒された気がした。
けれど。
部活はやっぱり気分が重かった。
放課後、音楽室に入った時点で、緊張感が伝わって来た。
……もしかしたら、わたしが緊張していて、それがみんなに伝染したのかも知れない。
とにかく、何とも言えないピリピリした雰囲気が立ちこめていた。
それぞれが楽器を持って個人練習に散って行くのを重い気分で見送る。
以前は音楽室から出て行きながら、
「あとでねー。」
なんて明るく声を掛け合ったのに、今日は通る部員がぶつかった椅子のガタガタいう音しか聞こえない。麻美はいつものように手を振ってくれたけど。
リサたち3人が一緒に出て行きながら、小声で何かを話している様子を視界の隅でとらえて、胃のあたりが重くなる。
彼女たちの表情で、佐川くんのことか、わたしのことを話しているのだろうな、と感じてしまったから。
打楽器は大きいので、打楽器担当はこの音楽室か、隣の準備室で練習をしている。
佐川くんも、準備室からティンパニを出してくるところ。
(やっぱり言わなくちゃダメ?)
昨日の練習でも、佐川くんの舌鋒は相変わらずだった。
注意するなら人がまばらになる今ならチャンスだと思うけれど、どう話を持って行ったらいいのか分からない。
この前、ちらっと言ったときには、「分かった。」とは言ってくれた。
でも、そのあとふて腐れているのがはっきり分かって、なんだか悲しい気分になった。
自分がもっと上手く言えればよかったのに、と、結構落ち込んだ。
誰かに “悪いところを直してほしい” と伝えるって、とても負担が大きいし、その割に報われない。
だからみんな、わたしに押し付けようとするんだよね……。
(無理だ。今日は気力が出ない。)
自分から何かをしようと思えない。
とにかく今日も、さっさと終わってほしい。
トランペットを持って廊下に出ながら、自分がなんとなくこそこそしていることに気付く。
(どうしてわたしが!)
階段へと歩きながら、なんだか腹が立ってしまう。
こんなに部全体のことを考えているのに。
部長なのに。
どうして誰も分かってくれないの?
どうしてわたしだけが、こんな想いをしなくちゃならないの?
「部長なんだから、仕方ないんじゃない。」
麻美の言葉が頭の中に響いた。
胃のあたりがまた重くなる。
いっそのこと、病気にでもなってしまいたい。
そうすれば、大手を振って部活を休むことができるし、休んでも文句を言われない。
入院するほどじゃなくても、ちょっとだけ、軽い病気か怪我でも……。
なんて考えても、そう上手く行くはずがない。
わたしは健康だし、自分から怪我をするのは怖いもの。
「ふぅ………。」
また、ため息が出てしまった。
なんだかもう、何もしたくない。
階段を2段ほど降りて、コンクリートの手すりから下をのぞいてみる。
カクカクと長方形の螺旋を描いて、4階分の手すりが見える。
その規則的で動きのない景色が、不思議なほどほっとする。
音楽室から聞こえるティンパニとマリンバの音。
校舎のどこかから聞こえるクラリネットやサックス、フルート、トロンボーン。
前は、こんなバラバラの音に自分の吹く音が混じるのも楽しかった。
「はぁ………。」
もう一つため息をついて、腕時計を見る。
全体練習までの時間を確認し、それが始まったあとのことを思って気が滅入った。
「 ――― これで終了します。お疲れさまでした。」
「「「お疲れさまでした。」」」
午後6時。ミーティング終了。
今日はこれで終わり。
予想通り、全体練習は嫌な雰囲気だった。
佐川くんがほかのパートの欠点をズバズバと指摘し、それにカチンと来たリサたちが嫌味を返す、という具合で。
わたしが仲裁に入ると、佐川くんは正論でわたしを言い負かそうとし、リサたちは睨んできた。
そんなことが二度ほどあったあと、わたしは仲裁に入るのも嫌になってしまった。
(一人になりたい……。)
これほど切実に、そう思ったことはない。
みんなと一緒にいることが、こんなに負担になるなんて。
駅まで数人ずつグループになって、何事もなかったように話しながら歩いてきた。
日が長い今の時期は、午後6時だとまだ昼間と変わらないくらい明るい。
今日は梅雨の晴れ間で雲がないから、いつもよりも余計に。
歩きながら話すのは受験のこと、アイドルの話、夏休みの予定。部活の話題を慎重に避けるように。
それぞれの話題に適切に返事をし、適度に笑い、感心した顔をする。
そうしながら、ずっと胸の中はもやもやとして落ち着かない。
(誰か助けてよ!)
何を、どう助けてもらいたいのか分からないけれど、心の中で必死に叫ぶ。
でも、表面上は笑顔を絶やさず……。
改札を抜ける直前、どうしようもなく耐えられない気分になって、勇気を振り絞って口に出した。
「あ、ごめん、麻美。わたし、本屋に寄るんだった。先に行ってて。」
わたしが降りる駅に本屋がないことは麻美も知っている。
けれど、突然口にした用事を麻美は信じてくれるだろうか?
定期を持つ手が震えてる。
顔が引きつっているのが分かる。
まっすぐに麻美を見られないので、肩に掛けたスクールバッグの中をガサガサと探すふり。
「いい参考書があるって教えてもらったんだ。たしかメモが……。」
「一緒に行こうか?」
麻美が無邪気に尋ねた。
(こんなに仲良しの麻美でも、わたしの気持ちを理解してはくれない。)
ますます悔しく、そして悲しくなって、笑顔を作るのが難しくなる。
「いいよ、大丈夫。すぐに見つかったら、同じ電車に間に合うかも知れないし。」
「そう……?」
「うん、急いで行ってくるね。じゃあね。」
どうにか笑顔を作って手を振る。
駅に付属のショッピングセンターへと小走りに向かいながら、涙がこぼれないように深呼吸をした。




