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はじまりは、図書室。  作者: 虹色
『ハックルベリイとわたし』
29/95

2  7月1日(火) 読むつもりなんかなかったのに


放課後に図書室に寄るのは初めて。昼休みに何度か来たことがあるだけ。


室内は軽く冷房が利いていた。

湿気の少ない爽やかな空気が体を包み、「いらっしゃい。」と歓迎してくれているような気がする。


入り口の左側にカウンター、右側には四角い机が2つあって、何人かがおしゃべりをしたり、雑誌を読んだりしていた。

思っていたよりもざわめいて和やかな雰囲気で、緊張が緩む。

前に来たときと、机の配置が変わっているみたい。

中庭に面して広がる窓に沿って並んだ勉強用の机では、何人かがノートや参考書を広げていた。


さて……。


(どうしよう?)


右奥には本棚が縦にずらりと並ぶ。そちらにも何人かの生徒が見える。

けれど、本棚を見て回るにしても、何を見たらいいのか分からない。

そうは言っても、ここでいつまでも突っ立っているのは変だし……。


困ってもう一度室内を見回すと、勉強用の机の左手前に、本が展示してあることに気付いた。

助かった思いで近付くと、雲型に切り抜いた厚紙に『7月の特集は <旅> です!』と書いて立ててある。

小さい机に表紙が見えるように何冊か置いてあり、となりのワゴンにもずらりと本が立ててあった。

『7月の』と書いてあるということは、毎月テーマを決めて、本を並べてあるということか。


(アンナプルナ………?)


ワゴンに並んだ背表紙の一つに目が留まる。

暗号のような、お菓子の名前のようなカタカナの羅列。

そのあとに「登頂」と続いているからには、山の名前なのだろう。

手に取ってみると、表紙には雪を被った険しい山の写真。


(綺麗……。でも、この山に登れるの?)


わたしが見たことがある山は、どれも地面が土だ。

でも、この写真の山は、岩か氷の塊でできているように見える。


「それ、すげー面白いよ。」


ふいに斜め後ろで声がして、驚いて振り向いたら、白いワイシャツの肩が見えた。

少しハスキーな低い声は聞き覚えがある。

そのまま見上げると、日に焼けた顔が白い歯を見せて笑っていた。


太い眉にパーツが大きめのくっきりした顔、ごわごわした真っ黒の髪。

5組の龍野(たつの)大貴(だいき)くんだ。

同じクラスになったことはないけれど、去年も今年も選択の物理の授業を一緒に受けている。


「……そう?」


体も声も大きい龍野くんは、見た目どおりの元気で物怖じしない男の子だ。

授業のときも、わからない部分はどんどん質問するし、先生のつまらないジョークを遠慮なくからかう。

席が近いわたしにも遠慮なく話しかけてくる。

授業以外の場所で話しかけられたのは初めてだけど。


(読んでみようと思ったわけじゃなかったんだけどな……。)


手元の本に視線を戻しながら、ちょっぴり困ってしまう。


「俺、中学のときに読んだんだ。人類で初めて8000メートル級の山に登ったフランスの登山隊の話なんだよ。」


「へえ。」


「だけど、なにしろ今から60年くらい昔の話でさ、あ、それヒマラヤの山なんだけど、地図なんか、想像図しかないわけ。」


「え? 想像図? 地図が?」


ヒマラヤに行くのに?

ずいぶんいい加減な。


「そう。今みたいに衛星写真とかないから、ヒマラヤ山脈を外側からながめて、 “裏側はこんな感じかなー” って描いたらしくて。」


「うそ……。」


仕方がないとはいえ、そんな地図だったら、ない方がマシだったんじゃないのかな?


「だから最初は何度も行ったり来たりして、地図を作りながら、ルートを決めるところから始めるんだ。だけど、天気の関係で登れる期間が限られてるし、国の威信は背負ってるしで、すげえプレッシャーでさ。」


「それは……大変だね。」


「だろ? それに、その頃だと、防寒具も今みたいなものはなかったし、荷物だってものすごく重かったはずなんだ。」


「ああ、そうか。たしかにね。」


そう思ってあらためて表紙の写真を見ると、ますます無謀な挑戦のように思えてくる。


「な? 俺、その本読んで感動して、それで登山部があるからってこの学校に決めたんだよ。」


「へえ……。」


進路に影響を与えるほどの感動って、すごいな。


「まあ、さすがに部活で雪山に挑戦はしないけど。駒居もきっと感動するから読んでみて。じゃあな。」


あ、行っちゃった。

唐突に現れて、さっさと行ってしまったなあ……。


(うーん、どうしよう? 登山とか、全然興味ないけど……。)


まあ、たまには本を借りるのもいいか。

電車の中で読むものがあるっていうのもいいかもね。


「あ。」


(何時? もうそろそろ行かないと。)


腕時計を見ると、4時5分前。

慌てて本をカウンターに持って行く。

学生証を見せて貸し出しの手続きをして、本はバッグに突っ込んだ。


小走りに職員室の前を抜けて、C棟の階段を、今度は迷いなく駆け上がる。

さっきまでの躊躇はどこかに消えてしまった。


(ギリギリの時間だと、迷ってるヒマなんてないもんね。)


ギリギリと言うよりも、どちらかと言うと遅刻だ。

でも、今週の全体練習は4時半からで、それまでは各自の個別練習の時間。

この時間は部員それぞれに、好きな場所で練習したり、ランニングをしたりしているはず。

遅刻しても、みんなに迷惑がかかるわけじゃない。


4階の廊下に着くと、音楽室前の廊下で1年生が音出しをしながらおしゃべりをしていた。

室内からはティンパニのリズミカルな大きな音と、マリンバの軽やかな流れが聞こえてくる。


「「こんにちはー。」」


「こんにちは。」


1年生のあいさつに手を振って応えて音楽室に入る。

練習していた打楽器担当が、ちらりとわたしを見て、また楽器に注意を戻した。

その中にいる佐川くんの表情が気になったけど、敢えて見ないようにした。


準備室の吹奏楽部専用のキャビネットから自分のトランペットを出して廊下に出る。

わたしのお気に入りの練習場所は、A棟の1階、西側の端にある体育館に抜けるドアの外。

A棟と体育館は10メートルくらい離れていて、2階の渡り廊下でつながっている。

わたしが行くのはその渡り廊下の下にすのこが並べてあるところ。

体育館と、図書館のあるB棟の間には、屋根をかけた自転車置き場がある。


音楽室からは遠いけど、去年から、わたしはここで練習している。

立つ位置によって日陰もあり、ひなたもあり、屋根もあり、雨や風が強ければ校舎に入っていればいい。

それに、体育館や校庭から運動部の声が少し遠く聞こえることや、ときおり通りかかる生徒がいるところもなんとなく好き。


梅雨の晴れ間の今日は、何日ぶりかで校舎の外へ。

少し暑いけれど、校舎と体育館の間を通る風がわたしの短い髪の中を吹き抜けて行く。

校舎のどこかから「ボ―――――――… 」と聞こえるチューバの音に応えるように、わたしも一息音を出す。


お気に入りの場所で一人で練習しているうちに、だんだん心が晴れてきた。

音楽室に戻りながら、 “これなら大丈夫” と思った。


けれど。


全体練習が進むにつれて、佐川くんの機嫌が悪くなってきた。


「入るのが遅い。」

「もっと大きな音出ないのかよ?」

「揃ってない。」


何度も演奏を止めて指摘する。

指揮のアユミが、一度通しでやろうと言ってもダメ。

後半は、3年生の一部が佐川くんを無視し始めた。

わたしが取り成そうとしても効き目はなく、演奏がやたらと荒くなっただけ。

後輩たちは、どうしていいか分からない顔をしている。


練習が終わるころには、また憂うつな気分になっていた。








『アンナプルナ登頂』モーリス・エルゾーグ著 近藤 等訳

岩波書店(岩波少年文庫) 1989年

*『処女峰アンナプルナ』を若い人向けに書きなおした本です。

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