19 それから
電話で話した翌日、僕たちは境山にアイスクリームを食べに行った。
その日は大雨だったけど、雅さんは張り切って紺色の長靴をはいてやって来た。
僕はスニーカーとジーンズの裾をぐっしょり濡らして、二人で笑いながら店まで行った。
大雨のせいでアイスの店はすいていて、その日は店内で食べることができた。
食べながら、今までのことを謝り合い、これからのことを話した。
一緒に帰る約束は、僕の部活に遠慮した雅さんが、「気持ちだけでいい。」と言ってくれた。
毎朝一緒に登校しているし、休日に会うこともできるから、と。
彼女の思いやりから出た言葉だったけれど、僕はそれは受け入れられなかった。
僕としては、週に一度くらいのつもりで考えていたのだ。
部活に入っていない雅さんは、一人で帰る日がほとんどだったから。
結局、押し問答の末、雅さんが図書委員の放課後の当番の日に一緒に帰ることになった。
これなら予定も決めやすいし、だいたい月に2回くらいなら雅さんも気兼ねしないで済むと言ったから。
そんなことを話しているうちに、冷房の効いた店内で濡れた靴とジーンズのままアイスを食べたせいか、僕はお腹が痛くなってしまった。
初デートでそんなことになってものすごく落ち込んだけど、雅さんはただ心配してくれただけで、嫌な顔はしなかったのでほっとした。
雅さんも僕も、僕たちの関係については、特に誰にも言わなかった。
けれど、それはじわじわとクラスに浸透して行ったらしい。
ときどきクラスメイトから、「いいよなあ、ムカイは。」なんて言われることがある。
友達から羨ましがられるという経験は僕には新鮮で、何度言われても戸惑いばかりだ。
佐倉は「ほら見ろ。」と言った。
僕が勝手に諦めていただけで、最初から十分に可能性はあったのだと。
「じゃなきゃ、相談するのにわざわざ休みの日に会うかよ?」
そう言われてみるとそんな気もするけれど、僕にはなにしろ初めてのことだったからよく分からない。
それに、誰かの恋愛話を聞いたこともないから、 “普通” という基準が分からないのだ。
ただ、今はっきり分かっているのは、 “これからは雅さん以外の女の子とは二人だけで出かけてはいけない” ということ。
まあ、僕に相談したいなんていうひとが、そう何人も現れるわけはないと思うけど。
天園は、雅さんと僕が一緒にいるところを見ると、ほかの組み合わせは想像できない、と言った。
どこがとははっきり言えないけれど、僕たちは雰囲気が似ているのだそうだ。
それを聞いて思い出したのは、雅さんが言っていた「テンポが遅い」という言葉。
あのとき、僕も彼女の言う意味がすぐに理解できたし、二人とも友達との間で同じような経験をしていた。
もしかしたら雅さんと僕のほかのひとよりも遅いテンポが、二人の間ではちょうどよく合っているのかも知れない。
それに……。
“ほかの組み合わせは想像できない” ってことは、雅さんと僕が “お似合い” ってことじゃないだろうか?
(外見も性格もあんなに可愛い雅さんとお似合いだなんて!)
口には出さないけれど、僕は嬉しくて、ことあるごとに、心の中で繰り返し叫んでいる。
不思議なことに、僕の中でも変化が起きた。
雅さんに頼られていたと知り、天園にお似合いだと言われ、友達から羨ましがられて、劣等感が少し減った気がする。
自分も捨てたものじゃないと、思えるようになったのだ。
それに、雅さんに頼りにされていると思ったら、少しだけ自信もついた。
外見だけはどうしようもないけれど、それを口にすると、雅さんが「どうして?」と不思議そうな顔をする。
その様子を見たら、他人に不快感を与えない外見なら気にする必要はないのかな、と思うようになった。
要するに、雅さんが気にならないなら特に問題はない、というだけかも知れないけど。
「毎日よく降るね。」
雨の音の合間に聞こえる鈴を転がすような声。
隣を見ると、ピンク色の傘の下から雅さんが僕を見上げている。
約束したとおり、彼女が図書委員の放課後の当番の日に一緒に帰るのだ。
「そうだね。蒸し暑くて、梅雨は嫌だな。」
彼女の仕事が終わるまで、僕も図書室で宿題をしながら待っていた。
自由席には今日も人がいて、僕はマトリョーシカに触れることはできなかった。
「でもね、梅雨にちゃんと雨が降らないと、野菜がうまく育たないんだよ。」
「ああ、そうなんだ?」
「そう。梅雨には雨が降って、夏は暑くて、とか、ちゃんとその季節のお天気じゃないとダメなの。」
そう説明して、雅さんが「ね?」と言うように首を傾げて僕を見た。
その頬はピンク色。そして、ぱっちりした目と小さな口。
(やっぱり、マトリョーシカに似てる。)
思わず微笑んでしまった僕に応えて、彼女も傘の下から微笑む。
まだときどき照れくさくなって、黙ってしまうこともあるけれど、一緒にいられる時間は楽しい。
「烏が岡で、どこかに寄る? って言っても、僕はあんまり詳しくないけど。」
「んー……、どうしよう?」
最近、ふと考えることがある。
あの金曜日、僕が黙っていたら、どうなっていたのだろうと。
「ちょっとだけ、おやつかな? 歩きまわるのには傘が邪魔だから。」
「おやつ? じゃあ、アイスクリーム屋以外で。」
あの日、僕が何も言わなかったら……。傘を貸さなかったら。図書室に行かなかったら。
そもそもの最初に、僕がマトリョーシカを見付けなかったら ――― 。
「え? ああ、そうだね。うふふふ。」
けれど、それは起きた。
偶然が重なったのか、起こるべくして起こったのか、僕には分からない。
ただ、もしかしたら、何かを “行動に移す” ということが、ものごとが変わるきっかけになるのかも知れない、なんて思う。
「ねえ、向風くん?」
「ん?」
隣を見ると、今度は傘の陰で雅さんの顔は見えない。
「わたしも……呼ぼうかな?」
「何を?」
「あの……向風くんのこと。」
僕を?
「どこに?」
「ふふっ。『どこに』じゃないよ。名前。」
「名前?」
「うん。あの……『駿ちゃん』って。」
(うわ。)
ちょっと言われただけで、顔が熱くなった。
雅さんが、僕を……?
「え、と、あの、い、いいよ。うん。」
ダメだ。
耳まで熱い。
「あー、あの、でも、僕はちょっと、その雅さんのことは、その……。」
(ニックネームで呼ぶのは、恥ずかしすぎて無理だけど……。)
「あっ、あの、わたしのことは、いいの、今のままで。」
慌てて僕を見上げた雅さんの頬も、いつもよりも赤かった。
あのマトリョーシカと同じくらい。
それを見て、僕も何故かますます恥ずかしくなってしまう。
「そ……、そう?」
「うん、あの、だって、……恥ずかしいもん。」
そう言いながら、雅さんはまた傘の陰に隠れてしまった。
彼女がそうやって恥ずかしがりながら、僕たちの関係を一歩進めてくれたと思ったら、僕はただもうドキドキして何も言えなくて……。
(こんな調子で、僕たちはいったいどうなるんだろう ――― ?)
まったく分からない。
でも、楽しい。
きっとこれが、僕たちの進み方なんだ。
少しずつ、手探りするみたいに、一歩ずつ。
駅に着いて傘を閉じて顔を合わせたらやっぱり照れくさい。
お互いにちらりと目を見交わして、下を向いて笑ってしまった。
たぶんこれからも、僕たちは何度もこんなことを繰り返すのだろう。
照れくさくて、恥ずかしくて。
それでもときどきは勇気を出して、一歩踏み出してみたい。あの日、雅さんに傘を貸したように。
そして……少しずつ、それぞれの世界を広げて行けたらいいなあと思う。
お互いに支え合って、励まし合って。
僕がついていたから、自分の家が農家だとみんなに言うことができたって、雅さんが言ってくれるから。
僕でも役に立てるって、雅さんが教えてくれたから。
だから雅さん。
これからも、よろしくお願いします。
----- 『傘をさしたマトリョーシカ』 おしまい。 -----
お読みいただき、ありがとうございます。
二つ目のおはなしは楽しんでいただけましたでしょうか?
次は3年生が主人公のおはなしです。
部活のことで悩んでいる胡桃に手を差し伸べてくれたのは…。




