2 5月8日(水) (2)
(おかしいな。コンタクトの調子が悪いのかしら……。)
瞬きをして何秒か目を閉じ、もう一度、目を開ける。
中央より少し窓寄りの本棚の間、その真ん中あたりで立ったまま本を読んでいる男子生徒。
(やっぱり裕司だ……。)
自分の目で見ているのに、簡単には信じられない。
先月の第一回の図書委員会で裕司を見かけたことさえオドロキだったのに、そのうえ本を読んでいるなんて。
しかも、立ったままで、まるで借りて行く時間さえ惜しむみたいに。
何を読んでいるんだろう?
あんなに熱心に。
まあ、裕司が読むものなんて、たいしたものじゃないに決まってるけど。
そう。
裕司はいつまでたってもお子様なんだから。
でも、気になる……。
だって、あの裕司が!
仲間と一緒にじゃなく!
本を読んでるなんて!
自分でも挙動不審だとは思うけど、少し離れた本棚の間を通って、奥側から裕司に近付いてみる。
棚の向こうに裕司の肩が見えたところで、こちら側からでは、読んでいる本のタイトルが見えないことに気付いた。
(わたしったら、何をやっているんだろう? 裕司のことなんか、放っておけばいいんだよね。)
自分のやっていることが馬鹿みたいに思えて、見つかる前に戻ろうと思った瞬間、遠くから大きな声が ―― 。
「裕司! お前、そんなところで本なんか読んでないで、ちゃんと仕事しろよ!」
ハッとした様子で顔を上げた裕司が慌てて左右を見回す。
そして隠れる暇のなかったわたしを見付けると、
「悪い、これ戻しといて。」
と、読んでいた本を押し付けて、反対側に走り出て行ってしまった。
(……なによ。当たり前みたいに……。)
びっくりして何も言えなかった。
それがひどく悔しい。
こんなことをするなんて、まさにお子様の証拠だ。
本を棚に戻すくらい、すぐにできることなのに。
どうやら裕司は図書委員のお当番で来たのに、途中でここに突っ立って本を読んでいたらしい。
仕事を忘れてほかのことに夢中になってるなんていうところも、やっぱりお子様だ。
ため息をつきながら落とした視線の先に、裕司に押し付けられた本のタイトルが。
『おばあちゃんが、ぼけた。』……?
なんだかふざけたタイトル。
挿絵もなんとなくとぼけたイラストで、いかにもあいつが選びそうな気がする。
(もう。なんでわたしが……。)
棚に本を戻しながら、なんとなく不愉快な気分になってしまう。
あいつとは高校に入ってからほとんど話もしていない。
なのに今、たまたま目に入ったからと言って、他人に後始末を押し付けていなくなってしまうなんて。
自分が借りる本を探して本棚の間を歩きながらも、なんとなくむしゃくしゃする。
あいつはずっとお子様のままだ。
小学生のころと、全然変わっていない。
小学生のころ……。
あのときは、自分が裕司を好きだと勘違いしていた。
小さいころから一緒にいたし、男子の中で一番仲の良い相手だったから。
でも、それはあくまでも “勘違い” だ。
小学校6年生のバレンタインデイにはっきりと気付いた。
6年生にもなれば、みんなには内緒でチョコを渡したいと思うのは当然のこと。
だから、わたしはその朝、裕司が家を出てきたところを待ち構えるようにしてチョコを渡したのだ。
恥ずかしさを隠して何でもないふりをしてチョコを差し出したわたしに、裕司はちょっと照れたような顔をした。
それがとても嬉しかった。
なのに!
学校に着いて教室に入った途端、あいつはわたしのチョコを見せびらかしたのだ!
大きな声で、
「智沙都にチョコもらっちゃった〜♪」
と言いながら。
あのときは言葉で言い表すことができないほどショックだった。
今思い出してもイライラする。
冷やかしの口笛や女子の視線もキツかったけど、一番大きかったのは、裕司に対する失望。
(ガキだ。子どものまんま。)
そう思ったら、一気に冷めてしまった。
そして、その場で分かった。
こんなにすぐに気持ちが冷めてしまうってことは、本当に裕司のことを好きだったわけじゃないんだって。
親しみやすさを恋だと勘違いしていただけだって。
友人たちに冷やかされても、
「まあ、幼馴染みだからね。」
と不機嫌に答えていたら、午後にはみんな、義理で仕方なく渡したと思ってくれたらしい。
それ以来、誰もわたしと裕司のことを特別な関係だと考える人はいなくなった。
そんなわたしの心の変化には気付かないまま、中学2年のとき、裕司はまた同じようなことをした。
チョコをあげたのは、もちろんわたしではない。陸上部の一年生だった。
同学年の女子は、裕司は中身がお子様のままだってことを知っていたから、誰も本命チョコはあげなかった。
でも、部活中しか知らない一年生には、楽しくて親切な先輩に見えたらしい。
そんな後輩の気持ちを考えず、あいつはもらった手紙を仲間に見せてしまったのだ。
後日、陸上部の友人から、その一年生がからかわれて泣いていたと聞いて、本当に気の毒に思った。
それでも、中学までは、わたしと裕司の間に会話のやりとりはあった。
裕司があれこれとくだらないことを話しかけてきたり、宿題の手助けを頼んできたりして。
わたしはそれを叱ったり、文句を言ったり……、たまには冗談を言い合って笑ったり。
家も近いし、あの頃はわたしも部活に入っていたから、帰りに会うことも多かった。
さっきみたいに「やっといて。」って頼まれるのは久しぶりだ……。
高校に入ってからは、ほとんど話していないから。
同じクラスだったのに……。
まあ、あいつと仲がいいと思われなくてよかったけど。
入学式の日、クラス分けの紙を見て、同じ3組に裕司の名前があってがっかりした。
また一年間、あいつの面倒をみなくちゃいけないのかって。
お母さんたちはお互いに情報交換ができるって嬉しそうだったけど。
でも、教室に行ってみると、裕司はもうなんとなく雰囲気の似た男子数名と楽しそうに話していて、わたしのことはちらりと見ただけだった。
五十音順の席ではわたしと裕司は離れていることもあり、お互いに一言も交わさないままその日は終わった。
翌日になると、裕司は初日の男子に2人の女子が加わり、賑やかなグループを作っていた。
わたしには隣の席の落ち着いた、大人っぽい雰囲気のお友達ができた。
裕司は同じクラスの永岡くんに誘われてバスケ部に入り、バイトをするつもりだったわたしは帰宅部に決めていた。
朝は余裕を持って登校するわたしと、自転車を飛ばしてギリギリにやってくる裕司では、家を出る時間も違っていた。
裕司はグループの仲間と、部活以外はたいてい一緒に過ごしているようだった。
おしゃれな女の子たちの影響なのか裕司も見る間に垢抜けて、見た目からは “子どもっぽさ” はなくなってしまった。
わたしたちの家が近いことが広まっても、誰もわたしたちの関係を詮索しなかった。
裕司はわたしに話しかけて来なくなっていたし、わたしは裕司たちのグループのメンバーが苦手だったから近付かなかった。
もちろん、普通のクラスメイトとしての接点はあったけれど。
わたしは仲良しの美羽ちゃんやほかの女子と一緒にいて、そのまま、春のクラス替えで “さようなら” 。
先月の図書委員会まで、裕司とは二度と話す機会はないのではないかと思っていた。
と言っても、その日だってその後だって、目が合って合図をしたくらいのものだけど。
借りるために選んだ本をカウンターに持って行こうと思ったところで足が止まる。
カウンターの中にいるのは誰?
裕司……ではない。
よかった。
不用意に見回して目が合ってしまったら嫌だな、と思いながら貸出の手続きをして、そそくさと廊下に出る。
(そういえば……。)
ふと、かなり前に聞いた母親の言葉を思い出した。
「裕くんのおじいちゃん、認知症が進んできたみたいよ。緑さんが仕事を辞めることになったんですって。」
緑さんというのは、裕司のお母さんのこと。
うちの母親と裕司のおばさんは、「緑さん」「志保さん」と呼び合っている。
あの話を聞いたのはいつだっけ?
中学のころだったから、2年…いや、3年前……かな。
裕司のおじいちゃんが認知症だというのはその前から聞いていたけど、ときどき家の前に出ていたおじいちゃんは、昔と変わったようには見えなかった。
だから、おばさんが介護のために仕事を辞めると聞いて、そんなに悪いのかと驚いたのを覚えている。
(あれから3年か……。)
最近、おじいちゃんの姿はめったに見かけない。
もしかして、裕司がさっき読んでいた本は、おじいちゃんのことと関係があるの……?
――― あ。
新しいコーナーを見てくるのを忘れた。
裕司のことで動揺しちゃってたから……。
いいや。
あさっての昼休みは図書委員のお当番で来るんだものね。
2年生になってから、図書室に行くのが前よりも楽しくなった。
自由席ができたことも、昇降口前に貼ってあったポスター(『待ち合わせには図書室をどうぞ!』)も、戸が開けっ放しになっていることも、なんだか新鮮な気がして。
利用する人が増えるかな……?
去年は図書委員会の仕事は楽過ぎて退屈だったから、少しはお客さんが増えるといいな……。
『おばあちゃんが、ぼけた。』村瀬孝生著 イースト・プレス
※面白いですけれど、絶対にふざけた本ではありません。どうぞ誤解のありませんように。