2 6月13日(金) 帰り道
教室前のロッカーから折り畳み傘を取り出し、窓から外を眺めたり、トイレに寄ったりしながら時間をつぶした。
10分くらい経ったところで見切りを付けて、昇降口へ。
これで今日は雅さんと顔を合わせることはないはず。
ところが ――― 。
「あの……。」
靴を履き替えていたら、信じられない声が。
(どうして?! なんで僕を放っておいてくれないんだよ?!)
あまりにも惨めな気分になって、言葉もなく彼女を見つめることしかできない。
「この傘……。」
いらないって言うのだろうか?
僕からは何も借りたくないと?
それとも ――― 。
「あ……、もしかして、誰かと待ち合わせだった……のかな?」
そうだ。
雅さんはこんなに可愛いんだから、彼氏がいるのは当たり前だ。
傘なんて、もともと必要なかったんだ。
なのに、僕は余計なお節介を焼いて……。
「ああ……ごめん。そうだよね。男物の傘なんか持ってたら…… 」
「あの、違い、ます。」
雅さんが僕が渡した傘を両手で握り締めて、懸命に何かを言おうとしている。
こんなに頑張って僕に何かを言おうとしている彼女は初めてで、失恋の胸の痛みの一方で感動してしまう。
「じゃあ……?」
僕が黙ると、雅さんがゆっくりと深呼吸してから口を開いた。
「あの、向風くんは、大きいから。」
僕が……大きいから?
よく分からなくて黙って彼女を見てしまう。
「こっちの傘、使ってください。わたしがその……、」
そこまで言って、雅さんが僕の手元に視線を移す。
「折り畳みを……借りるから。」
(雅さん………。)
ズドン! と、ハンマーで胸を殴られたような気がした。
これを言うために、彼女はここで待っていてくれたのだろうか?
(これは何だろう? 何かの罠? それとも、今までの不幸に耐えて来たご褒美?)
「あの……、」
どう答えればいいのか思い付かない。
彼氏を待っていたわけではないってこと?
嬉しさ半分、警戒半分。
ぐずぐずしている僕に向かって、雅さんがそっと傘を差し出す。
ぼんやりした頭でそれを受け取ると、雅さんはにっこりと笑った。
(きっとご褒美に違いない!)
折り畳み傘を渡しながら、頭の中に花畑が広がった。
けれど。
駅までの道が長い……。
たった10分の道のりだけど、僕は今まで女子と二人きりで歩いたことなんかない。
……いや、天園とはあるけど、彼女は女子ではあっても男子と同じだ。
今の相手は雅さんだ。
隣に並ぶことさえ恐れ多い。
傘をさしていて、普通より距離をとっていられるとしても。
心臓はバクバクしどおしだし、手も額も汗だらけ。
夏服に変わってからネクタイがいらなくなったから、ワイシャツの襟元を開けていられるのが有り難かった。
何を話せばいいのか分からないけれど、何も話さないのはあまりにも気まずい。
それはたぶん、内気な雅さんも同じだろう。
僕からは彼女がさしている傘に隠れて、顔は見えないけれど。
のどから心臓が飛び出しさないように、ゴクリとつばを飲み込み息を吸う。
頭の中はごちゃごちゃだけど、話し出せば何か出てくることに賭けよう。
「ええと……。」
「あの。」
(う?!)
傘を傾けて僕を見上げた雅さんと、しっかりと見つめ合ってしまった!
恥ずかしい!!
慌てて反対側を向いてから、あまりにも失礼だったかと思い直してゆっくりと視線を戻す。
彼女の顔は、また傘に隠れてしまっていた。
「あの……どうぞ。」
僕が言うと、何歩か進んだあとに、雅さんの可愛らしい声が聞こえた。
「あの……、さっき、ごめんなさい。」
「え?」
謝られるとは思っていなかったので驚いた。
「あの……、図書室で……。」
「ああ……。べつに、あれは……。」
はっきり言って、忘れてほしい。
見なかったことにして、僕の “変なヤツ” 的なイメージを消してほしい。
でも、彼女は忘れてはくれないのだ……。
「わたし……見ていたの。」
「うん……。」
知ってるよ。
ばっちりと。
僕の気味の悪い行動を。
「あのね、みんな同じで……面白くて……。」
そうだよね。
面白いよね ――― って?!
「『みんな』?」
「うん……。」
聞き違いじゃないんだ。
僕だけじゃない?
みんな?
頭の中を整理するために黙っていたら、雅さんが懸命に話し始めた。
「あのね、だって、面白かったの。この前のお当番のときに気付いたの。それで、図書室に行くたびに見ていたの。みんな、あのお人形を開けてみたくて来るの。で、誰もいないところを見計らって、嬉しそうに開けてみるの。」
僕だけじゃなかったんだ……。
「最初に開くと、みんな『おお!』っていう反応をするの。で、次を開けるたびにだんだん笑顔になって……、最後はみんな、机に横に並べて見てるの。それが嬉しそうで……、見てるとわたしも楽しくて……。それに、みんなが同じ反応をするから面白かったの……。」
雅さんの声がだんだんと小さくなって、傘もしょんぼりしているように見えた。
けれど、僕の心はその逆で、彼女の言葉が進むに従って立ち直っていった。
「ええと、じゃあ、僕のことも同じように……?」
雅さんが傘を上げて僕を見る。
そのつぶらな瞳に見惚れて、何の話をしていたのか一瞬忘れてしまう。
「ごめんなさい! 隠れていたわけじゃないの。カウンターの引き出しをひっくり返してしまって……、片付けて立ち上がったら向風くんがいたから、つい……。」
頭がくらくらする。
僕は今、雅さんをこんなに近くで見ている。
「あの……、僕のこと、変なヤツだとか……。」
その部分だけは、間違いなく確認したい。
僕が雅さんに嫌われていないことを。
「そんなこと……どうして?」
この瞳がウソをついているはずがないよね?
「う…、ううん、いいんだ。何でもない。」
頭の中の花畑で小鳥がさえずっている。
(あんな人形なんか、なんでもなかったんだ……。)
……いや。
あれは幸福をもたらしてくれる人形かも。
あの人形がなければ僕が図書室に通うこともなく、今、雅さんと一緒に帰っていることもなかったんだから。
――― 一緒に?
ちょっと待て。
どこまでだ?
確か、朝の電車で彼女を見かけたことがあるけど……。
「み……、雅さんて、家はどこだっけ?」
僕の質問に、雅さんがまた傘の横から僕を見上げた。
何度やられても、そのあまりの可憐さに心臓をハンマーで殴られた気がする。
「あの、鷹野山駅……。」
鷹野山っていうと……。
「え? 山上線の?」
県内でもかなりローカルな?
「うん……。」
山上線は、ここの雀野駅から3つ目の烏が岡駅で浜山線に乗り換え、さらにその終点の境山駅から接続している路線だ。
鷹野山駅はそこから山側に2つ目の駅だったはず。
僕の家は浜山線の終点から2つ手前のつぐみ谷駅だから……。
「じゃっ、じゃあっ、同じ方向なんだねっ。」
声が裏返っちゃってるし!
なんて言ってる場合か?!
僕にとっては全行程が雅さんと一緒ってことじゃないか!
つぐみ谷駅まで約一時間半……。
(う、れ、し、い。)
……けど、無理な気がする!!
でも、途中で用事を作るのはわざとらしいし……やっぱり惜しい!
こんな機会は二度とないかも知れないんだから!
いや、だけど僕のことだから、何かとんでもない失敗をして、自分にトドメを刺すことになるかも……。
「うん……、知ってるよ。朝、見かけるから……。」
傘の縁から雅さんの微笑みが。
(ああ……もう、何が起こったっていいや!)
決めた。
僕も男だ。
最後の思い出になるとしても、目の前にあるチャンスを自分から捨てたりするものか!
向風 駿介、一世一代のチャレンジだ!