1 5月8日(水) (1)
「沖島。」
ゴールデンウィークが明けた週の昼休み、借りた本を返すために図書室に向かっていた。
少し離れた所から呼び止める声に振り向くと、バスケ部の永岡くんが、廊下を急ぎ足でやって来るのが見えた。
すらりと背が高くて爽やかな笑顔の永岡くんは、女子に人気のある男の子。
今だって、みんなと同じワイシャツに紺のネクタイとズボンなのに、行き交う生徒の間でひときわ目立つ。
そんな人に昼休みの廊下で呼び止められるなんて。
心臓がドキンと鳴って、恥ずかしさと誇らしさが交錯する。
去年は同じクラスだったけど、2年生になって離れてしまった今では、わざわざ呼び止めるほどの繋がりなんてないはず。
(いったいどんな用事で ――― ?)
期待と不安でどんな顔をしたらいいのかわからないままのわたしの前に来て、爽やかな笑顔の彼が口を開く。
「悪いな、忙しそうなのに。」
「ううん。どうしたの?」
精一杯の何でもない表情のつもり。
ちょっと気取り過ぎかも。
本を抱えたポーズ、わざとらしくないかな?
「あのさあ、裕司のことなんだけど。」
裕司……。
ストーンと気分が落下する。
そんなところにあったんだ、わたしと永岡くんとの繋がり。
「沖島って、裕司と家が近いんだったよな?」
そうだよね。
永岡くんが、わたしなんかに特別な用事があるわけない。
裕司と同じバスケ部の永岡くんと、裕司の近所に住んでいるわたし。
それだけ。
「うん……。そうだけど。」
がっかりした顔なんかしてないよね?
ほんの少しでも期待したなんて気付かれたらみっともない。
我が家と裕司の家は、住宅街のあまり広くない道路を挟んで斜めに向かい合っている。
高校に入ったとき、わたしはそのことを隠しておきたかった。
けれどそれは、入学してすぐに知れ渡ってしまった。
新入学の時期に欠かせない出身中学の話題に関係のある情報だから、仕方がないことだけど。
「最近あいつ、何か変わったことない?」
頭の中の苦い思いには気付かない様子で、永岡くんが尋ねる。
裕司に変わったこと……?
「変わったって……どんな?」
「いや、その……、よく分からないけど、忙しいのかな、と思って。」
「忙しい……?」
裕司が?
「うん。ここのところ、部活も休みがちなんだよ。」
「そうなの? 気付かなかったけど……。近所って言っても、めったに顔合わせないし……。」
「あ……、そうなのか?」
「うん。学校の行き帰りも会わないよ。お休みの日だって、部活があるんじゃないの?」
そう。
自転車で約20分の登下校で、今までに裕司と会ったのはほんの数えるほど。
帰宅部のわたしとバスケ部所属の裕司では生活パターンが全然違うし、付き合っている友人のグループも違う。
わたしと裕司には接点がないのだ。
「いや、それがさ、この前の試合には来なかったんだよ。」
え?
「まあ、まだ3年生がいるから俺たち2年は出番がないのは当然なんだけど……。でも、あいつ、今まで試合に来なかったことなんてなかったのに。」
それは前にも聞いたことがあるな。
去年、教室でよく話していたし。
大きな声で、先輩の技はすごいんだ、試合を見ているだけでも楽しいって。
「連休中も、練習に来たのは一日だけで。いつも遊びに行く連中も断られたって言うし、もしかしたら、バイトでも始めたのかと思って……。」
バイト……?
「本人には訊いたの?」
それが一番手っ取り早いでしょう?
「訊いたけど、『ちょっと用事があるから』って言うだけなんだ。俺たちの誰も、それがどんな用事なのか知らないんだよ。」
「……そう。変だね。」
「だろ?」
「だけど、そんなに心配しなくてもいいんじゃない? 本人が言わないなら、そんなに深刻じゃないんだよ、きっと。」
実は今、ピンときたものがある。
でもそれは、わたしが勝手に他人には言えない。
いくらなんでも裕司の名誉にかかわることだし、本当かどうかも分からないから。
「そうかなあ。」
「そうだよ。」
軽く請け合うわたしの言葉に、永岡くんが小さなため息をついた。
こんなにいい人に心配をかけるなんて、裕司はまったく……。
「もうすぐ3年が引退するだろ? そのときにはレギュラーになりたいってずっと言ってたのに、今、こんなふうに休んでたらそれも無理になっちゃうからさあ……。」
永岡くんの整った顔にがっかりした表情が浮かぶ。
それを見たら、なんだか申し訳ない気分になってしまった。
「ごめんね、役に立たなくて。」
「いや、いいよ。じゃあな。」
くるりと背を向けて歩いて行く永岡くんが本当に気の毒だ。
裕司のことなんかで、あんなに心配して。
図書室へと歩き出しながら、今の話について考えてみる。
繰り返し繰り返し考えても、わたしの思考の行き着く先は、さっき浮かんできた結論ばかり。
(裕司のやつ、飽きちゃったんだ。)
そう。 “飽きた” 。
それ以外、考えられない。
あいつは昔から飽きっぽかったから。
(昔から……か。)
そうなのだ。
裕司は近所に住んでいるだけではなく、幼馴染みだ。
もともとは両親が同じマンションの隣同士に住んでいた。
そこで同じ時期に妊娠した母親たちが仲良くなって、わたしたちが生まれてからも助け合いながら子育てをしてきた。
つまり、わたしと裕司はお母さんのお腹の中にいるときから一緒ってこと。
赤ん坊のころの写真は、裕司と一緒に写っているものが半分以上あると思う。
ご両親が働いていた裕司は保育園に預けられていたけれど、おじさんもおばさんも遅くなる日はうちの母親が迎えに行って、夜まで一緒にすごしていたと聞いている。
4歳のときに裕司の弟が生まれ、もともと近くに住んでいたお父さん方の祖父母と同居することになって、裕司一家は引っ越した。
それでもほんの10分足らずの距離だったので、わたしも裕司も(裕司の弟も)相変わらずお互いの家を行ったり来たりして、一緒に遊んでいた。
そして、わたしが小学校に入るとき、我が家はその斜向かいに家を買って引っ越した。
裕司のお母さんもうちの母親も、実家が遠いという共通の淋しさもあってか、今でも仲が良い。
わたしと裕司は、今ではほとんど話すことがないけれど。
裕司は小さいころから、一つのことを長く続けることが苦手だった。
おばさんが「本当に飽きっぽいんだから。」と困っていた顔が、今でもはっきりと目に浮かぶ。
小学校の高学年になったころはそこまで酷くはなかったけれど、昼休みや放課後に夢中になる遊びはころころ変わったし、何かを集め始めてもすぐにやめてしまっていた。
中学では3年間、陸上部で高跳びをやっていた。
けれど、裕司が続けられたのは、人数が足りなめだった陸上部では、一人で何種目かにエントリーできたからだ。
適度に色々な種目にチャレンジできた陸上部は、裕司にはピッタリだったと思う。
だから、高校に入って、あいつがバスケ部に入部したと聞いたときには驚いた。
バスケ部にはバスケットボールしかないのにって。
その一方で、やっぱりね、とも思った。
陸上は飽きちゃったんだなって。
続くのかと冷やかに観察していたけれど、去年一年間、裕司はサボらずにやってきたようだった。
バスケ部は経験者が多くて裕司は出遅れていたはずなのに、泣きごとを言っているようでもなかった。
だから、少しは大人になったのかと思っていたけど……やっぱり無理だったんだ。
一つのことしかできないバスケ部は、一年が限度だったってことだろう。
でも、だからと言って、わたしが永岡くんに「裕司は飽きちゃったんだよ。」なんて言えない。
高校生にもなればプライドだってあるだろうから。
クラスの教室がある横に長いA棟を2階まで降りて、その真ん中あたりから縦に延びているB棟へと曲がる。
曲がってすぐ右側にトイレと階段があり、この階段を降りると昇降口、降りずに進むと図書室だ。
図書室には入り口が三つある。
手前の一つは本棚に囲まれた場所で、これはいつも閉まっていて、緊急時にしか使わない。
あとは本棚と机のスペースとの境目あたり、そしてカウンター前。この二つは、4月になってからいつも開いている。
返す本があるのでカウンター前の入り口から入って、いつもの習慣で図書室内を見回してみる。
相変わらず人の少ない図書室だ。
机にも、本棚の前にも、ポツリポツリとしか生徒がいない。
でも、新学期になって来たときは、模様替えがしてあってびっくりした。
新しく来た男の司書さん ―― 今も本棚の間をもっさりと歩きまわっている ―― が、図書室を生徒が来やすいように変えようとしたらしい。
…… “もっさり” は失礼かな。まだ若いみたいだし。
太めで背が高い司書さんは、近くに立つととても大きい感じがする。
でも、表情が優しい人なので、パンダとかラッコのような癒し系のキャラクターの雰囲気がある。
黒くて長いエプロンを掛けた姿は、本屋さんというよりも、ケーキ屋かパン屋、あるいは洋食屋……要するに食べ物を作る人に見える。
「味見しすぎですよー。」みたいな。
この人が、春休みの間に図書室の模様替えをしたらしい。
以前は、縦長の図書室が本棚のスペース、机のスペース、カウンターと新聞や雑誌のスペース、の三つに区切られていた。
それが、本棚はそのままだけれど、机が勉強用と休憩用(自由席と呼ばれている)に分けられて、勉強用が窓側に壁まで並び、自由席が廊下側に8席配置された。
勉強席と自由席の間には本棚とカウンターをつなぐ通路ができ、自由席の横の本棚には文庫本が移動してきていた。雑誌もその近くの通路に。
出入り口の戸が開けっ放しになったのも新学期から。
そして……、今日も新しいものが。
入り口を入って正面にある新刊が並んでいた机の横に、新しいコーナーができている。
あとで見てみよう。
カウンターで本を返して、小説の本棚に向かう。
通路を進みながら何気なく、ずらりと縦に並んでいる本棚をながめていたら、信じられない光景が ――― 。
本棚の間で、裕司が本を読んでいた……。
この短編集では『児玉さん。俺、頑張ります!』と時期を重ねて設定してあります。
こちらだけでも楽しんでいただけるように書いておりますが、合わせてお読みいただくと、裏話的な楽しさも味わっていただけるのではないかと思います。