逃れ得ぬ青
朦朧とする意識の中で目が覚めた。身体が焼けるように熱くて、頭がボーッとする。ロクに回らない頭を無理矢理回し、僕は自分の現在の状況を確認もとい、思い出す。
そうだ。夏風邪をこじらせて、寝ていたんだった。
状況を思い出した途端に今度は喉が渇いてきた。確か冷蔵庫にジュースがあった筈だ。
鉛のように重い身体をゆっくりと起こすと、白くて細い、僕のものではない手が、そっと僕を制止する。綺麗な黒髪の女の子がそこにいた。
「まだ起きちゃダメよ。熱が下がってないもん」
彼女は口元を柔らかく綻ばせ、優しい手つきで僕を布団に横たえると、さっきまで僕の頭にのせられていた濡れタオルを交換し、冷蔵庫からポカリスウェットを持ってきてくれた。僕は買った記憶がないので、恐らく夏風邪を拗らせた僕の為に彼女が用意してくれたのだろう。
「待ってて。今お粥作るから」
「……うん、ありがとう」
微笑む彼女に取り敢えず礼を言う。どうやらずっと看病してくれていたらしい。
部屋をぐるりと見渡す。いつもと違うニオイ。彼女がいるからだろうか?
ふと、身体を見ると、汗がしっかりとぬぐわれ、清潔な寝間着に変わっていた。
「ごめんね? 汗凄かったから、勝手に着替えさせちゃった」
ワンルームだからキッチンにいる彼女の姿は布団からでも確認出来る。
特にやることもなく、ぼんやりと彼女を見つめていると、此方の視線に気づいたのか、彼女は少しだけはにかんだ。
「それと、ゴミ……結構貯まってたから纏めちゃったよ? 全く……ちゃんと捨てなきゃダメだよ〜?」
怒ってます。というように腰に手を当てながら彼女は頬を膨らませる。
何だかわからないが色々してくれていたらしい。
「うん、えっと……ありがとう」
部屋のすみに置かれたゴミ袋三つを一瞥しながら、僕は頬を掻く。そんな僕を見た彼女は再び笑みを浮かべると、台所に戻り作業を続行する。
沈黙が流れる中、僕は彼女から目を離さずに何とか頭を正常に戻し、現状を把握せんとする。
嗚呼、ダメだ。予想以上に症状が酷い。頭は相変わらずズキズキ痛むし、目がチカチカする。寒気までしてきた。
一方彼女は鍋にお湯を入れ、火をかけている。スカートからスラリと伸びるニーソックスに包まれた脚が少し扇情的だが、生憎それを楽しむ余裕は僕には無かった。
「そういえば、大丈夫なの?」
「……何が?」
不意に彼女が台所に向かったまま僕に話しかけてくる。
大丈夫とは身体の事か、それとも別の事か。要領を得ない質問に僕は首を傾げる。
「酷く魘されていたよ?」
心配そうな彼女の声に僕はああ……と、ようやく質問の意図が分かって頷く。
今も熱に魘されているが、どうやら僕は寝ながらにしても魘されていたらしい。もっとも、理由に心当たりが無い訳ではない。
「悪夢を……見たんだ」
「悪夢?」
「そう。悪夢。夢だったら良かったんだけど、生憎それは最近起こった現実の出来事だった。だからフラッシュバックって言った方がいいのかな?」
自嘲気味に僕は笑い、天井を見る。見慣れた天井の筈なのにまるで知らない天井のように見えるのは何故だろうか?
「何が……あったの?悪夢って?」
包丁を動かしながら彼女が問いかける。
僕はそっと目を閉じ、少しだけ身震いをする。
「事の始まりはね。手紙だったんだ」
「手紙?」
「うん。ある日突然ね、僕の部屋の郵便受けに手紙が入っていたんだ。『ずっと見てました。好きです』ってね」
「へぇ……ラブレターかぁ……ロマンチックね」
少しうっとりした声の彼女とは対象的に僕の声色は沈んでいく。
「ただのラブレターならまだ良かったんだ。差出人の名前しか書いてなくて、しかもその名前は全然知らない名前だったから返事も出来ない。そもそも僕は彼女いるから断るつもりだったんだけどさ……」
「因みに、何て名前だったの?」
「メアリ。全く聞き覚えが無い名前で、逆に不気味だったよ」
鍋がグツグツと音を立て、ほこほこと湯気を上げる。お粥なのに妙なニオイがするが大丈夫だろうか?
「で、暫く放置してたら手紙がまた来てね……それからもかなりの頻度で、ほぼ毎日来るようになった」
僕はテーブルの方を見る。テーブルには可愛らしい便箋が十通以上置いてある。
「内容はというと、『ワタシは貴方と一緒にいたい。貴方の傍にいるだけでいい』『こんなワタシでも人を愛することが出来た、幸せ』『貴方がいたからワタシの世界は変わった。だから今日も明日も明後日も明明後日もずっとずっと先も貴方の傍に……』と、まぁこの辺はまだ、大丈夫だったんだ。」
すでに少し危ない感じもあるけどね。と肩を竦めながら僕は手を伸ばし、別の便箋を手に取る。
『今日はタリーズコーヒーの窓側の席にいましたね。ワタシもそこに座りました。キレイな女の人が一緒でしたね。オトモダチですか?』
僕はもう一つの便箋を取る。
『夜の公園で女の人とキスしてた。この間と同じ、茶髪の長い髪で、ウェーブのかかった人。どうして? 貴方の部屋に一緒に入っていった。どうして? どうして? 結局、部屋から出てこなかった。どうして? どうして? どうして? 出てきたのは次の日の朝でした。どうして?どうして? どうして? ど う し て ?』
僕は今度は一際分厚い便箋の束を取り出す。
『大学でもあの女と一緒でしたね。一緒にご飯食べてました。ワタシ、貴方のすぐ後ろで見てました』
『あの女、愛しそうな顔で、目で、貴方を見ます。抉ってやりたい』
『いやらしい手つきで貴方に触れます。削ぎ落としてやりたい』
『あの唇が貴方に重なったんですね。ズタズタにしてやりたい』
『……どうしていつも貴方の傍にいるの?あのゴミ女……(字が塗り潰されている。)テヤリタイ』
全て読み終えた僕はふぅと溜め息をつく。
「……流石に危ないと思ったんだ。相手は女性だし、万が一荒事になっても大丈夫だと思った僕は、手紙が入る瞬間を抑えてもう止めてくれって告げようと思ってね。その日は部屋のドアの前でメアリを待ち伏せしていたんだ」
僕の家はドアポストなので、外に出ずとも家の中で郵便物を確認できる。ドアの前で待っていれば手紙が来たときに音で分かるという訳だ。
「今までメアリの手紙は僕が朝起きたり、出掛けて帰って来たときに入っている事が多かった。十中八九、僕を監視しているのが分かったからね。部屋の灯りは全て消して、もう就寝したと見せかけて、玄関だけ電気を付けて待っていたんだ」
「なるほど、手紙を出した瞬間ならメアリの姿を見られるって事ね」
彼女は時折鍋をかき回しながら相槌を打つ。
「案の定、手紙は来たよ。僕はその瞬間、ドアの覗き窓から外を覗いたんだ。手紙が出されて五秒もしない時間だったと思う。でもね、メアリの姿を見つける事は出来なかった。見えたのは青だった」
「……青?」
僕の言葉に彼女は不思議そうな声を出す。
その反応に僕は思わず笑いそうになる。
「最初はね、覗き窓が壊れているのかと思ったよ。何せ今までで使ったことすら無かったからね。ともかく、それならばと、僕は手紙を読むことにしたんだ。何とその日は二通も来ていたんだ。ご丁寧に番号まで振られてね」
そう言って僕はまたもう一通の便箋を手に取る。
『ワタシの事を今日は教えようと思います。歳は多分アナタと同じくらい。黒くて長い綺麗な髪が自慢なの。濡羽色って表現してくれた人もいたからこれだけはワタシが自分の事で誇れる唯一の事。だから貴方にプレゼントします。親の関係で、目は青。この色のせいで昔は苛められたりしたけど、この目があるから貴方を見つめていられるなら色なんて関係ないよね。知っていますか?外国の一部では青い目は呪いの魔眼だったり、魔法使いや魔女の目だったり、色々と逸話があるんですよ?この目で貴方を虜に出来たらよかったのに……』
僕は少し震えた手でもう片方の2と番号が振られた便箋を取る。
「もう一通の中身は短い手紙と……大量の黒くて長い髪の毛だった。『ワタシの自慢をプレゼントします。ずっと貴方を見てるよ…………今も』その瞬間、僕は気づいたんだ。覗き窓が壊れたんじゃない、あの青はメアリの……覗かれていたのは、姿を見られていたのは僕の方だったんだ。そう確信した時、インターフォンが鳴ったんだ」
当時の状況が鮮明に頭に思い浮かび、僕は無意識に身体が震えていくのを感じた。
「ピンポーン……ピンポーン……って具合に何度も何度も鳴るんだ。深夜だよ? そのうちコンコン……コンコン……ってノックの音に変わってね。そして最後にはドンドン! ドンドン! って……殆ど殴打するような音になった。もう一度覗き窓を覗く勇気は……無かったよ」
番号が振られた二通の便箋をテーブルに戻し、僕は再び彼女に目を向ける。
鍋は煮えたぎり、凄いニオイを発している。
「……参考までに、何作ってるの?」
「卵粥よ。ちょっと具と調味料もアレンジしてみたの。楽しみにしててね」
クスクスと笑い声を漏らす彼女が眩しくて、でも何故か凄くおぞましいものにも見えたのは僕の気のせいでは無い筈だ。
女子の手料理はいいものだが、風邪が悪化しない事を祈ろう。
「そうこうしているうちにピタリとノックが止んでね。諦めたかな? って僕がそう思った瞬間、コトン……って音と共にまた何かがポストに入れられたんだ」
僕は再び、入れられた手紙を取り出す。
そこには真ん中に青いボールペンでシンプルに三文字。
『あけろ』
「僕がそれを見た瞬間、ドアノブがガチャガチャ動かされてさ。ああ、これは異常だって思った僕はすぐさま携帯を取り出して、警察に電話した……」
「大変だったのね……その人は捕まったの?」
鍋からどんぶりにお粥を移し変えながら彼女が問いかける。
「いや、警察が到着した時は、人影はどこにも無かったそうだよ。多分察して逃げたんだろうね」
彼女がお粥を運んで来たので、僕は毛布から這い出すと、彼女の方へ向き直る。
「その日以来、手紙はパタリと来なくなったんだ。諦めてくれたのか、警察を呼んだことに驚いたのかはわからないけどね。ストーカーなんて怒鳴れば大丈夫……だなんて思ってたけど、実際に遭うと全然違う。怖くて何もできなくなるんだ」
「でも、よかったわ……無事で。本当に」
彼女はどんぶりとレンゲ、包丁の乗ったお盆を床に置き、お粥を一口掬うと僕の方へ差し出す。 一口食べると、それはそれは酷い味だった。
僕がお粥の租借に悪戦苦闘していると、彼女は器用に包丁で林檎の皮を剥き始める。
頭痛が酷い。
僕はゴクリとお粥の残りを飲みこむ。
「でも、悪夢は終わらなくてさ。あれ以来ね。ドアノブがガチャガチャなる幻聴が聞こえたり、僕と彼女が殺される夢を見たり……青い目に見つめられる夢を見たり……あの出来事から一ヶ月以上経つのに結構トラウマになってしまってさ……ハハッ、我ながら情けないよ」
「……そんなことないわ」
彼女は林檎を剥き終えると再び僕の口へお粥を運ぶ。卵と鶏肉が具とは思えない味だ。。これ以上は食べられそうもないので、「食欲ない」と、ジェスチャーをすると彼女は黙ってレンゲ置き、剥いた林檎を今度は擦り下ろしていく。その様子をぼんやり見ながら、僕はずっと飲み込んできた言葉を口にすることにした。
「……一つ聞いてもいいかい?」
「……なぁに?」
「君は……誰だ?」
僕の一言に彼女の肩がピクリと動く。
僕は両手に滲む汗を振りきるように握りこむと再び彼女を見る。
「どうして……どうやって僕の部屋に入ってきた? ここの合鍵は彼女……“僕の彼女”しか持っていない筈だ」
僕の言葉に彼女は俯く。黒くて長い髪は常に目元を隠し、喜怒哀楽を察するには口元を見るしかない。その口元は今はまるで感情を見せないように固く結ばれている。
やがて、彼女の肩がフルフルと震え始めた。
「……ヒヒッ……ヒヒヒヒッ……」
口元が三日月の形になる。サラサラとした黒髪が一瞬揺れたかと思った瞬間、僕は布団の上に押し倒され、包丁を突き付けられていた。
「…………よ」
「……え?」
彼女がブツブツと何かを言い、僕はその言葉を聞き返す。
「今……邪魔なあの女はいないの。この部屋はこれから……ワタシと貴方の愛の巣になるの」
「……ッ!」
身体が重い。やっぱり嫌な予感は当たるものだ。
目を覚まして、目の前に見慣れぬ黒髪の女がいて……。
何となく確信はあったが、口には出せなかった。
この部屋には弱った身体の自分とこの女だけ。下手に刺激したらどうなるか想像もつかなかったのだ。目元を隠していた髪が僕を押し倒した拍子に乱れ、隠れていた相貌を露にする。濡羽色の髪の間からはいつかの覗き窓で見たものと同じ色……青い瞳が狂喜の光を帯びたまま、こちらを見据えていた。
「君が……君がメアリなのか?」
僕の問いかけに彼女はただただ笑うばかり。
包丁は僕の喉を捉えつつブルブル震え、ハァ……ハァッ……といった浅い呼吸の音だけが部屋に満ちる。
どうやらまともな返事を得ることは難しそうだ。そもそもこんな弱った身体ではこの華奢な女の子一人を撥ねのける力がないことが一番の問題だ。
「フーッ……フーッ……フーッ……!」
メアリの荒い呼吸を聞きながら僕は何とかして気持ちを落ち着けようと腐心する。
いつまでも放置してはいられない。もうすぐ彼女がここに来る時間なのだ。それまでに何とかこの女には外に出てもらわねばならない。
「ワタシのモノ……ワタシのモノ……」
「それは無理だ。僕はあの子が好きなんだ。君の気持ちには……」
瞬間、僕の発言を掻き消すかのような不気味な声が部屋に響く。それがメアリから発せられたものだと気づくのに数秒を要した。
「……何が可笑しい?」
メアリは答えない。ただただ笑い続ける。笑いすぎて口の両側から泡が吹き出している。明らかな嘲笑に思わず僕はメアリをキッと睨む。
「何だ! 何がそんなに可笑しいんだ!」
いつの間にか僕は怒鳴り声を上げていた。
メアリは両手で顔を覆いながらゆっくりと話しはじめる。
「無理……だって……貴方がいくら好きでもあの女は貴方に会えないもの」
メアリの発言に僕はバットで殴られたかのような感覚に陥る。今何と言った? もう会えない? 何故?
自問自答するように僕は唇をワナワナと震わせる。
メアリは黙って部屋の隅のゴミ袋を指差す。
よく見ようとしなかった。いや、今思えば気づかないようにしていたと言うべきか、気づきたくなかったと言うべきか……
三つに別けられたゴミ箱には大量の新聞紙。
「ゴミ……纏めておいたよ。大変だったの」
いつの間にか僕の真上からゴミ袋の所まで移動し、メアリは無機質な笑みを浮かべたまま袋の口を開く。
「あ……ああ……あ……!」
無意識に涙が流れる。
ああ、そうだ。“いつもと違うニオイ”がしたんだ。
なんてことはない。アレは彼女の死臭だったのだ。
袋の中には僕がかつて愛した女性の無惨な残骸が詰められていた。
ガクンと膝を付く僕の前にメアリがユラリと立つ。
ゾッとするような笑顔を浮かべ、メアリは僕を見下ろす。
「君が……あの子を……?」
消え入りそうな僕の声を彼女は首を振ることで否定すると、ゆっくりと僕を指差し、静かに口を開く。よく耳をすまさねば聞こえないくらい小さな声だったが、僕にはそれが不思議と鮮明に、はっきりと耳に届いていた。
「ア・ナ・タ・モ……?」
首を傾げる僕に彼女は微笑んだまま、ゆっくりと僕の唇、歯、喉、最後にお腹へとその白い指を這わせる。その指が意図する意味を察し、僕は自分の中の何かが音を立てて崩れて行くのを感じた。
歯にまだ残る肉の感触……。
喉につっかえるような酸っぱさを感じ、僕は口元を抑える。
僕は……彼女を……よりにもよって……。
「どんな……味だった?」
青い瞳が淫靡な光をたたえたまま僕を射ぬく。
瞬間、僕は気を失った。
※
以上が在学時代に僕が体験したトラウマと言っても差し支えない出来事。
だが実はこれで終わりではなく、もう少し続きがある。
メアリによって自宅……それも自分自身の部屋に監禁された僕は、異臭に不審を持った近隣の住民達と、彼らが呼び出した警官によって保護されるまで、実に二週間弱もの間、地獄のような日々を送る事となる。
僕が保護されるのと同時に犯行が露呈したメアリは、すぐさま警察に連行され、一方僕はというと念のため検査入院することとなった。その後は事情聴衆や田舎の両親が駆け付けたりなど色々な出来事が重なり、僕が事件そのものから解放されるのには一ヶ月少々の時間を要した。
その間メアリのことについて事件の事情以外は警察も詳しく聞いてこなかったし、僕も知りたいとは思わなかった。知りたくもなかった。
全てが終わった後、再び僕の部屋の郵便受けにメアリからの手紙が届くまでは。
どうやって留置場から脱走したのか、今となっては確かめる術はない。
ともかくそんなことがあったものだから、僕は大学を辞め、すぐさま遠方へ引っ越した。このままでは気が狂ってしまいそうだったのだ。何処にいてもあの青い瞳が僕を捉えて逃がさないような……。
そんな気がして……。
新天地での僕の生活は時折僕の脳裏に現れるメアリの幻影に苦しむこと以外は、取り敢えず順調だった。
大学中退の身分でしかも少しだけ情緒不安定……これでは働き口がないかと不安にもなったが、たまたま知り合って事情を聞いたある企業の社長が僕を雇ってくれた。
本当に、社長には感謝してもしきれないくらい良くしてもらえた。
仕事に慣れなくて悩む僕を飲みに誘ってくれたり、新天地で僕に友人が出来たことをまるで自分のことのように喜んでくれた。女性の幻影に苦しむ僕に自分の娘を紹介し、僕のトラウマの克服を真剣に考えてくれた。
社長の娘さんもとても優しく、トラウマに苦しむ僕をありのままに受け入れてくれた。
女性の綺麗な黒髪を見るだけで緊張が走っていた僕にとって、彼女の負けないくらい綺麗な鳶色の髪は濡羽色の髪の悪夢から僕が逃げ出せる唯一の居場所だった。
僕を見つめる優しい鳶色の瞳は青い光に怯える僕を癒してくれた。
僕は軈て彼女に惹かれ、そして更に数年後、僕達は夫婦として手を取り合った。
色々と遠回りしたが、僕は漸く、幸せというのを手にした気がする。そう気づいた時、メアリの幻影は、いつしか僕の頭から消えていたのだ……。
※
「……そう、そういうことがあったんだね……」
仕事が終わり、寝室で妻の髪を櫛で解かしながら僕は話を締めくくった。トラウマについては妻も知っているが、誰かにここまで詳しく話したのは初めてだ。
トラウマでしかない出来事を語ることが出来たのも、他ならぬ相手が妻だからこそだ。僕を支えてくれた彼女だからこそ……。
「僕がありのままでいられるのはね。君がいてくれたからこそなんだ。」
そう言って微笑む僕に対して、妻もまた恥ずかしげに俯く。
この初々しい反応が堪らなく愛しくて、僕は櫛を置いてそのまま妻を後ろから抱き締めた。
鳶色の髪に顔を埋めると妻はくすぐったそうに身を捩ると、そっと寝室に置かれた化粧台の方へ逃れる。悪戯っぽい表情で微笑みながら妻は此方を振り向くと、化粧台の引き出しから何かを取り出した。
「じゃあ……私も貴方の前でなら、ありのままの“ワタシ”でいたいな……」
唐突にそう言った彼女は目元に手を当てたかと思うと、そっと手を離す。
指先には鳶色の小さな丸い物体が二つ。それを妻は引き出しから出した物の中に入れていく。普段の日常生活において馴染みはなくても、僕には一目でそれが何なのかが 分かってしまった。
コンタクトレンズのケースだった。
「あ……あ……!!」
声にならない叫びをあげながら僕は唐突にメアリからの最後の手紙を思い出した。文面には青いボールペンでこう書かれていた。
『逃がさない』と……。
妻の瞳はあの時と同じ。
血が凍り付くほどに美しい……青だった。




