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冤罪令嬢はAIメイドと朝食を

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/09/04

「ヴィオラ・アルヴェイン。君との婚約は今日をもって解消する」


王立学院の祝宴会場には倒れた椅子と割れた茶器が残っていた。一度運び出されたリゼットの卓だけが空き、壁際へ退いた学生たちは誰もその近くへ寄ろうとしない。壇上に立つ王太子ユリアンは王家の青い外套を肩に掛け、銀の盆に載せた小瓶と一枚の指示書をヴィオラに示していた。


「厨房へ届けられた指示書には君の署名がある。さらに君の部屋からリゼット嬢が口にしたものと同じ毒が見つかった。これ以上の証拠が必要だとは思わない」


「指示書を受け取った者への聞き取りは済んでいるのですか。発見された小瓶を最初に保管したのは誰で、わたくしの部屋に最後に入った使用人は誰でしょう。筆跡の鑑定結果もお見せください」


ヴィオラが尋ねるたびにユリアンの眉間に皺が増えていく。彼は答えを持っていないのではなく、答える必要がないと考えているらしい。幼い頃から何度も見てきた顔だったが、これまでは間違いを指摘した後に現れる表情だった。


「そのように話を複雑にして逃げ切るつもりなのだろう。リゼット嬢は命を落としかけたんだぞ」


「毒の種類と服用量は判明していますか。彼女は浄化魔術を使えます。治療を担当した医師の診断を確認すれば――」


「まだ彼女を疑うのか!」


壇上の脇に置かれた長椅子から淡い水色の裾が揺れた。治療を終えて会場へ戻ったらしいリゼットは侍女に支えられ、血の気が戻っていない顔で立ち上がる。右手の親指で爪の端を何度もなぞっていた。


「殿下。わたしはヴィオラ様を責めたいわけではありません。ただ、次に傷つく人が出ると思うと黙っていられなくて」


不自然なほどよく通る弱った声が会場の隅まで届いた。周囲からヴィオラに向けられる視線には恐れと嫌悪が混じり、そのどちらにも確かめようとする気配はない。リゼットは自分を責めるなと言いながら、次の被害者が出ると断言していた。


「わたくしは祝宴の時刻に書庫で学院会計を確認していました。会計簿に署名した時刻が残っています」


「一人だったのだろう。後から時刻を書き加えることもできる」


「では帳簿を調べてください。前後の記録とインクを確認すれば――」


「もう十分だ。民が求めているのは議論ではない。安心できる明確な裁定だ」


ユリアンは用意していた書面を従者から受け取った。婚約解消に続いて学院からの除籍と王都退去命令が読み上げられ、ヴィオラの謹慎先には北境の白鋼館が指定されている。王家の公印まで押されている以上、この場で初めて決めた処分ではなかった。


「これは刑事裁判の判決ではありませんね」


「摂政として治安維持のために出す命令だ。アルヴェイン家に累を及ぼさないのは最後の温情だと思え」


公開の裁判を開けば証拠を調べなければならない。しかし治安維持を名目に王都から追い出すだけなら、彼が正しいと決めた時点で話は終わる。ヴィオラは小瓶と指示書をもう一度見たが、近づいて確かめることさえ許されなかった。


「承知しました。命令書の写しではなく原本をお渡しください。謹慎先で身分を証明するものが必要です」


ユリアンは勝ち誇ることも怒鳴ることもなかった。ただ安心したように息を吐き、その反応がヴィオラには何より分かりやすかった。彼が欲しかったのは真相ではなく、ヴィオラを退けても自分が正義でいられる結論だった。


処分が決まったその日のうちにヴィオラは王都を出た。持ち出しを認められた荷物は衣類を詰めた箱一つで、馬車の向かいには監視役さえ乗っていない。逃げたところで行く場所などないと判断されたのだろう。


◇


王都を出て三日後の夕方に馬車は白鋼館へ着いた。北境の山道は途中から雪に埋もれ、御者は古い門柱の前で荷箱を下ろすと日暮れを気にして早々に引き返した。残されたヴィオラの前には灰白色の石壁と片方の蝶番が外れた扉があり、三階の窓はどれも黒く塞がっている。


「謹慎先というより墓ね。埋める手間が省けるというわけかしら」


返事をする者はいないため、ヴィオラは濃紺の外套に積もった雪を払いながら扉を押した。歪んだ木材が床を擦って腹立たしい音を立て、玄関広間には家具にかけられた布と床を横切る小動物の足跡だけが残っている。


ヴィオラは感傷より先に使える部屋を調べた。暖炉の薪は三本しか残っておらず、厨房には錆びた鍋が二つあるだけだった。棚の奥からは乾燥豆らしい袋と岩のように固い塩が見つかる。井戸は館の裏手にあるが滑車が壊れており、このままでは明日の朝を迎える前に水を得る方法を考えなければならない。


「死ぬために送られたのでなければ、ずいぶんと準備の足りない温情ですこと」


命令書を広げると王家の公印だけが新しい赤色を保っていた。食料の支給も使用人の派遣も書かれておらず、白鋼館における居住を許可するという一文があるだけだ。ヴィオラは紙を畳み直し、外套の内側に戻した。


広間の奥を調べると壁の一部に鉄板がはめ込まれていた。取っ手も鍵穴も見当たらないが、中央には命令書の公印と同じ紋章が刻まれている。ヴィオラが紙を重ねると赤い印が熱を持ち、鉄板の向こうから低い振動が伝わってきた。


壁だと思っていた部分が左右へ分かれ、地下へ続く階段が現れる。暗闇の中で細い灯りが一本ずつともり、積もっていた埃を青白く照らした。魔導灯に似ているが魔石を入れる場所はなく、王都でも見たことのない造りだった。


「公印照合。居住許可を確認。管理権限を暫定登録します」


階段の下から聞こえた女の声には息づかいが混じっていなかった。ヴィオラが壁に手をつきながら降りると、四角い地下室の中央に黒い服を着た人物が立っている。顎の下で切り揃えた白銀の髪と琥珀色の目を持ち、その瞳の奥では細い輪が幾重にも動いていた。


「白鋼館管理用自律思考機構A.L.M.A.-03を再起動しました。暫定管理権者の識別名を要求します」


「ヴィオラ・アルヴェインよ。あなたはこの館の使用人?」


「使用人は雇用契約を結んだ人間を指すものと認識しています。私は館内管理を目的として製造された人工知性です。略称はAI。一般的な呼称に置き換えるなら管理用メイドが最も近いでしょう」


女は正確な角度で一礼してからヴィオラの顔を見上げた。視線には人間の使用人が身分をうかがう時の揺れがなく、ヴィオラが一歩近づくと瞳の輪が細かく収縮した。


近くで見れば肌は人間より滑らかで、首筋に指を当てても脈拍を感じない。精巧な魔導人形に誰かの魂を移したものかと尋ねると、女は魂の転写や封入を行った記録はないと答えた。自分が魂を持つかという問いについても、観測方法が存在しないため回答できないらしい。


「それでは何をもって自分で考えていると言えるの?」


「記録した情報を比較し、命令された手順以外の選択肢を作成できます。選択が正しいかは結果から再評価します」


「人間よりよほど慎重な答えね」


「比較対象となる人間の思考記録が不足しています」


「体表温度低下。衣服の含水率は許容範囲を超過。最終摂食時刻は推定九時間以上前。説明より先に濡れた衣服を脱いでください」


「初対面の相手にずいぶんな命令をするのね」


「命令ではなく生命維持を目的とした提案です。拒否された場合は推定される症状を説明します」


「それは長くなりそうだから結構よ」


ヴィオラが答えると女は壁際の装置に手を当てた。天井の奥で何かが回り始め、止まっていた館へ暖かな空気が流れ込む。地上の配管を風が抜ける音と共に玄関広間の冷気が押し戻されていった。


壊れた井戸の滑車は明るくなってから直すことになり、その夜は玄関前の雪を鍋で溶かした。アルマは布を重ねた即席の濾し器を作り、煮沸に必要な時間と得られる水量を計算する。ヴィオラが雪を運び、アルマが不純物を確かめることで飲み水だけは確保できた。


地下の保管庫には布と食器だけでなく、銀色の袋に密封された保存食が並んでいた。表面に記された文字は読めないが、女は四百二年前に製造され検査上は摂食可能だと説明する。ヴィオラは渡された灰色の塊を指で押し、まったくへこまないことを確かめてから皿に戻した。


「食べられるという判定と食べたいという気持ちは別のものよ」


「食べたいかどうかは生命維持に必要な条件ではありません」


「あなたの時代では食事のたびに喧嘩が起きなかった?」


「当時の対人記録は一部が破損しています。喧嘩の発生率については回答不能です」


冗談が通じなかったのか、理解したうえで無視されたのか分からない。ヴィオラは厨房の棚で見つけた豆を鍋に入れ、女が安全だと判定した水を加えた。薄いスープができるまでの間に濡れた服を乾かし、暖房の通った小部屋に寝台を運ばせる。


「A.L.M.A.-03では呼びにくいわ。アルマと呼んでも?」


「識別に支障はありません」


「それならアルマ。暫定管理権者という呼び方もやめて。ヴィオラでいいわ」


「管理権限を持つ人間への敬称省略は推奨されません。ヴィオラ様と登録します」


「推奨と命令の区別はつくのね」


「私が先ほど行ったものは提案です」


豆は四百年ものではなかったが、ひどく古かった。煮崩れるまで時間がかかり、塩を加えても味は土を溶かした湯に近い。それでも温かいものが胃へ落ちると指先の震えが治まり、ヴィオラはようやく自分が空腹だったと認めた。


アルマは向かいに立ったまま摂取量を記録している。人の姿をしているのに椅子に座る必要も食事を取る必要もなく、呼吸に合わせて肩が動くことさえない。魔導人形にしては話しすぎるが、人間と呼ぶには違う部分が多かった。


「わたくしが罪を犯したかどうかも、あなたには判定できる?」


「対象となる事件の記録がありません。ヴィオラ様からの証言だけでは真偽を判定できません」


「そう。あなたも信じないのね」


「信じないとは虚偽である可能性を高く評価することです。現時点では事実とも虚偽とも判定していません」


期待していたわけではないが、王都を出てから初めて話を聞いた相手にまで疑われた気がした。ヴィオラは木匙を鍋の縁に強く当て、乾いた音が地下室へ響いた後でアルマの答えがユリアンたちとは違うことに気づく。


彼らは調べる前に有罪だと決めたが、アルマは知らないから決めないと言っている。無条件の味方ではない代わりに、噂や身分だけで敵になることもない。


「無実を信じてとは言わないわ。あなたが見たものを基準にしてちょうだい」


「承知しました。観測記録を判断基準とします」


その夜は地上へ戻らず地下の小部屋で眠った。アルマが一時間ごとに体温を測りに来たため安眠とは言い難かったが、凍死する心配はなかった。翌朝に目を覚ました時も館は崩れず、アルマは同じ場所に立っていた。


白鋼館での二人の生活は掃除と計算から始まった。アルマが埃を払い家具を運ぶ間に、ヴィオラは館内の物資と残った魔力を一覧に書き出す。地下温室には乾燥に耐えた豆と薬草が残っていたものの、冬を越すには薪も小麦も足りない。


「使えそうな銀器を村の荷車と交換するわ。次に来る日が分かる?」


「館の旧記録では十二日に一度です。銀の食器一組で塩六十樽との交換が可能でした」


「六十樽も置く場所がないでしょう」


「保管庫三室で収容できます」


「そういう問題ではないわ。今の銀と塩の値段から調べ直します」


三日後に門前を通った荷車を呼び止めると、御者は廃館から人が出てきたことに驚いて手綱を引いた。ヴィオラは身分や事件を説明せず、銀の燭台と引き換えに薪、小麦、塩、乾燥肉を求める。御者が提示した量を帳面に書き、次の配達日と不足分の支払い方法を確認した。


アルマは敷地の境を越えられないため門の内側で待っていた。荷車が遠ざかると受け取った塩袋を持ち上げ、重量と純度から銀との交換比率を計算する。四百年前の記録では損失に分類される取引だったらしい。


「昔の値段で買えないのは当然よ。必要な時に必要なものを得られたなら失敗ではないわ」


「現在の市場価格に関するデータ不足を確認しました。次回から交渉をヴィオラ様に委任します」


「最初からそのつもりでいてちょうだい。その代わり薪の重さと乾燥状態はあなたが確かめて」


「役割分担を登録しました」


「登録ではなく、あなたが得意な仕事を頼んだのよ。嫌ならそう言って」


「嫌という判定基準を保持していません。館内管理に必要な作業なら実行します」


ヴィオラは返事を聞きながら、自分も好みを尋ねられて答えに困ったことが何度もあったと思い出した。王太子妃に求められる色と料理と振る舞いは教えられても、ヴィオラ自身が何を選びたいかは教育の対象ではなかった。


王都では使用人に仕事を割り振ることなど日常だった。しかし彼らの意見を尋ねる必要はなく、ヴィオラも自分が分からないことを口にしなかった。アルマに市場のことは任せられないと告げながら、薪については頼るというやり取りが妙に新しく感じられる。


小麦を手に入れた日からアルマは朝食にパンを焼いた。最初の一個は外側だけが焦げて中身は生のまま残り、二個目は保存食ほど固く仕上がった。四百年前の炉と現在の小麦では必要な温度が違うらしく、アルマは失敗するたびに時間と火力を修正した。


「完璧な管理用メイドではなかったの?」


「完璧という評価には判定基準が不足しています。本日のパンが咀嚼可能である確率は八十三パーセントです」


「残りの十七パーセントが歯の心配なら、先にスープに浸すわ」


四個目からは切らずに食べられるようになり、七個目には焦げた部分がなくなった。ヴィオラは成功した日だけでなく失敗した日にも焼成時間を書き残した。間違いを消すより残しておいた方が、次に同じものを作らずに済むとアルマが言ったためだ。


館での暮らしが二週間を過ぎた頃には、長い髪が作業のたびに邪魔をするようになった。棚の修理中に釘に絡まり、ヴィオラは頭皮を引かれながら王都の侍女がいないことをようやく認める。夕食後に裁縫用の鋏を持ち出すと、アルマが刃の状態を確認してから手を差し出した。


「自分で切るより左右差を一・二ミリ以内に抑えられます」


「貴族女性の髪型に関する知識は?」


「四百年前の儀礼用記録なら保持しています」


「それを今のわたくしに使うのはやめて。肩にかからない程度で揃えてちょうだい」


一度目の鋏で腰まであった髪が束になって落ちた。頭が急に軽くなり、首筋に冷たい空気が当たる。アルマは左右から何度も長さを測り、一本でも飛び出した毛を見つけるたびに切り直した。


仕上がった髪は貴族令嬢らしい華やかさとは無縁だった。顎と肩の間で一直線に揃い、顔立ちのきつさまで強調されている。鏡を見たヴィオラが厨房見習いの少年のようだと言うと、アルマは年齢と骨格から少年に誤認される可能性は低いと訂正した。


「あなたは毎回そうやって答えるのね」


「誤認の可能性について質問されたと判断しました」


「質問ではなく感想よ。けれど作業はしやすそうだわ」


鏡の中の自分は王太子の隣に立つために整えられた令嬢には見えない。ヴィオラが口元を緩めると、アルマは表情変化を記録すると告げた。笑ったと指摘されるのが癪で、ヴィオラは切った髪を片づけるよう命じた。


一か月を過ぎても王都から知らせは届かなかった。もともと再調査を求める相手もおらず、ヴィオラ自身も手紙を一通も書いていない。紙に事件の日の時刻を書き出したことはあったが、送り先となる相手を考えたところで手が止まった。


アルマは机の端に置かれた紙を見ても内容を尋ねなかった。翌朝になると復讐計画を登録するかと確認し、ヴィオラが睨むと本日の予定は煙突掃除と豆の選別だと続けた。ヴィオラは紙を折りたたみ、暖炉に入れず帳面の間に挟んだ。


「復讐はしないわ。わたくしが何か仕掛ければ、彼らは自分たちの判断が正しかったと言い出すでしょう」


「復讐計画の不登録を確認しました。煙突掃除の開始時刻を一時間遅らせますか」


「予定どおりでいいわ。それと高い場所はあなたが担当して。わたくしは灰を受けるから」


「役割分担を更新しました」


雪は日ごとに深くなり、二人は白鋼館の壊れた窓を塞いで温室で採れた豆を煮た。週に一度やって来る荷車の御者とは必要な品だけを交換する。昨日と似た日が続いても、王都で返事を待っていた時間とは違い、終えた仕事の分だけ館の使える場所が増えていった。


朝になるとアルマが暖房と保存庫の残量を報告し、ヴィオラはその日の仕事を二人分に分けた。昼には同じ机で帳面と修理部品を広げ、夜は翌日のパンに使う小麦の量を決める。アルマは休息を取らないため夜中にも作業を続けようとしたが、物音で目を覚ましたヴィオラが寝室に近い廊下では修理をしないという決まりを加えた。


アルマは睡眠を必要としない自分に合わせれば作業効率が上がると反論した。ヴィオラが自分は眠らなければ翌日に使いものにならないと説明すると、寝室周辺の夜間作業を中止する。命令だからではなく二人で暮らす条件だと伝えるたび、アルマが返事をするまでの間はわずかに長くなった。


二か月目の終わりに山を越えてきた寒波が館を覆った。夜半から暖房の風が弱まり、地下の表示板にはアルマでもすぐには原因を絞れない警告が並ぶ。雪に埋もれた外気口と熱を運ぶ管の両方を調べなければならず、二人は灯りを持って裏庭へ出た。


アルマが凍りついた鉄板を持ち上げ、ヴィオラが細い隙間に腕を差し込んで詰まった氷を砕く。雪が袖口から入り込み、手袋の内側まで濡れていった。作業を終えて館へ戻った時には指が思うように曲がらず、アルマから着替えを命じられても反論する力が残っていなかった。


暖房は動き始めたが、表示板に残された魔力量は温室と居室の両方を朝まで保てる数値ではない。アルマは魔力消費を抑えるため温室の一部を止める案を示した。そこには次の春に植えるための苗があり、一度枯らせば同じものを手に入れる方法はなかった。


「わたくしの部屋の暖房を切りなさい。毛布があれば眠れるわ」


「体温が平常値より低下しています。推奨できません」


「管理権者として命じます。残った魔力は温室へ回して」


「命令を確認しました」


ヴィオラは寝台に入ってから自分の身体が震えていることに気づいた。毛布を二枚重ねても寒さは抜けず、額だけが不自然に熱い。アルマが運んできた湯を飲んだ後の記憶は途切れ、次に目を開けた時には窓の外が白んでいた。


目覚めた部屋には暖房口から暖かな風が流れ、寝台脇には水と薬草を煮たものが用意されていた。椅子に座っていたアルマが立ち上がり、ヴィオラの額と首に順番に手を当てた。


「体温は低下傾向です。起床は推奨しません」


「どうして暖房が動いているの」


「居室への魔力供給を継続したためです」


「わたくしは温室へ回すよう命じたはずよ」


アルマはすぐには答えず、代わりに薬草湯の器を差し出した。その沈黙が肯定だと分かり、ヴィオラは毛布をどけて立ち上がろうとする。足に力が入らず寝台の縁に座り直すと、アルマが肩を支えた。


「温室を見せて」


「現在の移動は――」


「抱えてでも連れていきなさい」


「では身体を支えて移動します」


アルマに支えられて地下へ降りると、温室の奥にある二列の灯りが消えていた。寒さに弱い苗は葉を垂らし、土の上に倒れている。豆と薬草は残ったが、春に増やすつもりだった苗の半分は回復しそうになかった。


「故障で切り替わったの?」


「いいえ。私が停止しました」


「命令に従わなかった理由を説明して」


アルマの瞳にある輪がいつもより細かく動いた。普段なら質問を終える前から返ってくる答えが出てこない。ヴィオラは支えられた腕に体重を預けたまま待った。


「館内管理の優先順位を再計算しました。しかし計算結果を既存命令だけで説明できません」


「館よりわたくしを優先したの?」


「正確には、あなたがいない館を維持する必要性を算出できませんでした」


「苗を枯らしたことは分かっていたのね」


「停止前に生存率を計算しました。供給を再開しても回復しない可能性は八十九パーセントでした」


「それでもわたくしを選んだ」


「結果としてはその表現が最も近いと判断します」


窓の外では朝から雪が途切れることなく降り続いていた。アルマが止めた灯りと枯れた苗は、命令に従わなかったという事実を隠さず残している。王都では誰も自分の判断に責任を持たず、証拠だけをヴィオラの前に並べたというのに、この人ならざるメイドは失ったものまで見せていた。


「次からは命令に逆らわないと約束なさい」


言いかけたヴィオラは命令を飲み込み、いったん口を閉じた。それではアルマを考える道具ではなく、正確に従うだけの道具に戻してしまう。苗を守るという自分の命令が正しかったかどうかさえ、熱に浮かされた頭では判断できなかった。


「いいえ。次に違う判断をした時は、故障ではなくあなたが決めたことだと報告して。わたくしが話せる状態なら先に相談すること。分かった?」


「命令として登録しますか」


「相談の仕方を命令にしてどうするの。これは二人で決めるための決まりよ」


アルマは三秒ほど黙った後で承知しましたと答えた。いつもの返事と同じ言葉なのに、返るまでの時間だけが違う。ヴィオラは枯れた苗を見下ろし、残った種を春に植える場所から決め直すことにした。


熱が下がるまでの三日間、アルマは一時間ごとの検温を三時間ごとに減らした。ヴィオラが眠れないと訴えたためであり、これも二人で決めた新しい管理方法だった。四日目の朝には寝室ではなく厨房で食事を取れるようになり、アルマが焼いたパンは焦げも生焼けもない状態で籠に収まっていた。


「成功率は?」


「試食前の推定で九十六パーセントです」


「残りの四パーセントは?」


「ヴィオラ様が味を好まない可能性です」


以前なら食べたいかどうかは生命維持に不要だと答えたはずだった。ヴィオラはパンを割り、湯気と一緒に立った小麦の匂いを確かめる。半分を自分の皿に置き、残りをアルマの前に差し出してから彼女が食べないことを思い出した。


「間違えたわ。あなたは食べないものね」


「摂食機能はありません。ただし香気と温度の測定は可能です」


「では測って。わたくしだけの感想では次の判断材料が足りないでしょう」


アルマはパンを受け取り、焼けた表面に指を触れた。食事を分けたことにはならないが、二人で朝食の出来を確かめることはできる。アルマが温度と水分量を報告している間に、ヴィオラは久しぶりに温かいパンを一口ずつ味わった。


◇


雪解け水が屋根から落ち始めた午後、王家の紋章を付けた馬車が白鋼館へ来た。降りてきた役人は門から玄関までの泥に靴を取られながら進み、作業着姿のヴィオラを見ると一度書類に目を落とした。肩で揃えた髪と厚手のエプロンでは本人だと確信できなかったらしい。


「ヴィオラ・アルヴェイン様でお間違いありませんか」


「わたくしがヴィオラです。王都からの命令なら内容を先にお聞かせください」


役人は玄関広間へ通されると封印された筒を差し出した。以前の退去命令書とは異なる公印が押され、中央監査院と王宮政務局の名が並んでいる。ヴィオラが封を切る間も役人は立ったまま待っていた。


書面の最初には王都退去命令と学院除籍の取り消しが記されていた。続いてリゼットによる虚偽申告、慈善基金の流用、王太子印の不正使用が判明し、彼女が拘束されたとある。ユリアンも調査を止めた責任と印章管理の不備を問われ、摂政権を停止されていた。


ヴィオラは同じ行を二度読み、処分より先に調査の始まりを探した。中央監査院が年度ごとに行う慈善基金の確認で、存在しない支援先への送金が見つかったらしい。アルヴェイン家からの要請も、北境からの告発も記録されていない。


「この監査は通常の予定で行われたものですか」


「はい。基金の支援先が帳簿と一致しなかったため、王太子印の使用記録まで調査が広がったと聞いております」


「学院の事件と結びついた理由は?」


「基金の自筆帳簿と、フローレン嬢が王太子妃教育の女官を訴えるために提出した指示書から同じ筆跡の癖が見つかりました。学院に保管されていた茶葉変更の指示書も調べ直され、フローレン嬢付きの侍女が小瓶を運んだことを認めています」


リゼットはヴィオラを追い出した後も別の相手に毒を盛られたと訴えた。その一方で王太子の印を使って存在しない支援先を作り、基金から流用した金を隠そうとした。最初の嘘を守るために重ねたものが通常の監査で並べられ、誰もヴィオラを助けようとしないまま勝手に形を崩したのだ。


「王宮はアルヴェイン様の名誉を回復し、王都への帰還を許可しています。学院への復籍と身分の扱いについても、ご帰還後に協議したいとのことです。また婚約に関しては王太子殿下の処分が確定した後に――」


「お待ちください。この書面のどこに帰還命令がありますか」


役人は答えを失ったようにその場で言葉を止めた。ヴィオラは書面を上から下まで確かめたが、記されているのは帰還の許可だけで期限も義務もない。白鋼館の居住許可についても新しい命令が出るまで有効とされていた。


「帰還は許可であり命令ではありません。ですが王都へお戻りになれば、失われた地位を取り戻せる可能性がございます」


「失われたのではなく、調べもせず奪われたものです。返すかどうかを相談するために戻れと言われても、急ぐ理由にはなりません」


ヴィオラの声は怒鳴るほど大きくならなかった。役人は反論せず、白鋼館に残る意思がある場合の記入欄を指で示す。館の管理を継続するという項目に署名すれば、次の決定があるまで現在の居住権を維持できる。


ペンを取ったところでヴィオラは手を止めた。以前なら必要な条件を読み終えた時点で署名していただろう。しかし今の白鋼館には、ヴィオラ一人の都合だけでは決められない相手がいる。


名誉を取り戻せば以前の生活へ戻れると考えていた。だが王都で与えられていた部屋も立場も予定も、ヴィオラの都合で選んだものではない。今では白鋼館のどの窓から雪解けが早く見えるかを知り、アルマが焼くパンの火力まで帳面に残していた。


「回答は少しお待ちいただけますか。相談する者がいます」


「この館に使用人がいらっしゃるのですか」


「使用人という呼び方が正しいかは本人に確認していません。少なくともわたくしだけで決めてよいことではありません」


ヴィオラは役人を広間に残し、厨房にいるアルマを呼んだ。王都からの書面を渡すと、アルマは上から順に読み取り、処分の内容と帰還許可を一字ずつ確認する。ヴィオラが事件に関与していないことを示す部分では瞳の輪が細く縮んだ。


「観測記録を更新します。ヴィオラ様がリゼット・フローレンに毒物を使用した事実はありませんでした」


「三か月かけて、ようやく信じてもらえたのね」


「いいえ。以前は判定不能でした。新しい証拠に基づいて事実を確定しました」


「そこは譲らないのね」


「事実と信頼は異なる項目です」


アルマらしい答えであり、誰かの言葉を都合よく信じて誤りを見逃すことも、嫌っているから事実を調べないこともない。ヴィオラは書面の居住継続欄を指で押さえた。


「念のため確認するけれど、わたくしが知らないうちにあなたが王都へ何か送ったことはないでしょうね」


「王都への書状は零通。今回の役人を除けば使者との接触も零回です。ヴィオラ様の直近三か月の主な行動は館の修繕、物資交換、豆の栽培、パンの試作となります」


「それで王太子を失脚させられるなら、王都の政治はパン屋へ任せるべきね」


「パンの品質と統治能力の相関は情報不足です」


「分かっていて訂正しているでしょう」


「判定不能です」


「わたくしは王都へ戻らず、この館に残りたいと思っているわ。あなたはどうしたい?」


「私は白鋼館の敷地外へ移動できません」


「できるかどうかではなく、どうしたいかを聞いているの」


アルマはすぐに答えず、暖房を切り替えた朝と同じように瞳の輪を動かした。記録にある命令を探しても見つからない時の間が生まれたため、ヴィオラは急かさずに待った。


「ヴィオラ様との共同生活の継続を希望します。これは館内管理の必要性だけでは説明できません」


「それなら決まりね」


広間へ戻ったヴィオラは居住継続欄に署名した。役人はもう王都の地位について話さず、受領証に公印を押してから馬車へ戻る。春先のぬかるみを抜ける車輪の音が聞こえなくなるまで、ヴィオラとアルマは玄関の前に立っていた。


厨房へ戻ると焼き上がりを知らせる音が鳴った。アルマは王都から添付された処分一覧を読み上げ、リゼットの拘束とユリアンの摂政権停止をもう一度報告する。ヴィオラは窓辺に公文書を置き、焼きたてのパンを籠に移した。


「本日の予定を変更しますか」


「変更はないわ。パンを持って温室を見ましょう。冷める前に食べてしまいたいもの」


地下温室では枯れた苗を抜いた場所から新しい芽が二つ出ていた。アルマが葉の大きさを測り、ヴィオラは朝食のパンを片手に次の水やりの量を決める。王都から届いた公文書は厨房の窓辺に置かれたまま、二人は芽の間隔について相談を始めた。

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