「回したのは俺だ」と婚約を切られましたが、職人が従うのはわたくしの手。上の商家へまいりますわ
「——あの商会を回したのは俺だ」
笑いが、銀杯の触れ合う音へ重なった。
セドリック・ハウエルは椅子の背へ片腕を預け、集まった客をゆっくり見回した。商談をまとめた夜の祝いである。磨かれた卓上には鴨の香草焼きと南方の葡萄酒が並び、彼の隣には婚約者であるエレノア・ベルクの席が用意されていた。
「ここ三年で売上は倍だ。職人も増え、取引先も王都の外へ広がった。古臭い親父どもを使いこなすには、誰が主人か分からせる必要がある」
「さすがは次代のハウエル商会主ですな」
取り巻きの一人が杯を掲げた。向かいに座るグレゴリー・ハウエルも、太い指で卓を二度叩いて頷く。
「商会は看板で回る。職人はその下で手を動かせばよい。セドリックには、とうにその器がある」
エレノアは杯を置いた。葡萄酒は一口も減っていなかったが、縁についた指の跡を布巾で拭った。
「エレノアもよく客の相手をしてくれた。婚約者が見目のよい女だと、先方も席には着いてくれるからな」
また笑いが起きた。セドリックの肘が、エレノアの椅子の背へ触れる。彼は三年間、一度も工房の始業前に顔を出したことがない。その肘だけは、ずいぶん広い場所を占めた。
「もっとも、その役目も今日までだ」
セドリックは懐から封書を出し、皿と皿の間へ滑らせた。封蝋にはハウエル家の印が押されている。
「婚約を解消する。商会がここまで大きくなれば、より釣り合う縁を選ぶべきだと父上とも決めた。君もベルク家へ戻るがいい」
グレゴリーは息子へ一度だけ頷いた。卓の端では、先ほど杯を掲げた男が隣の男と目を合わせ、口元を布で隠した。
エレノアは封を切らなかった。左手の指輪を抜き、封書の上へ置く。輪の跡だけが白く残った。
「承知いたしました」
「ずいぶん素直だな。もっと食い下がると思ったが」
「商会をお回しになったのがセドリック様でしたら、わたくしから申し上げることはございません」
セドリックの杯が止まり、それから高く掲げられた。
「ようやく分かったか」
「はい。明日からは、あなたのお望みどおりになさってくださいませ」
グレゴリーが鼻を鳴らす。
「台帳と鍵は置いていけ。ハウエル商会のものだ」
「もちろんでございます。今夜のうちに、すべてお返しいたします」
エレノアは椅子を引いた。裾が卓脚へ触れたが、皿も杯も揺れなかった。
「それでは、ハウエル様。三年間、お世話になりました」
セドリックは、なおも杯を掲げていた。
◇
夜半を過ぎても、ハウエル商会の帳場には灯が残っていた。エレノアの前には、麻糸で綴じた実務台帳が一冊、銅の錠前がついた金箱、工房と倉の鍵が並んでいる。
帳面の紙端は、何度もめくられて柔らかくなっていた。日付の横には品名と数量だけでなく、工房のどの台で仕上げるか、誰の検分を先に通すか、返答を待たせてよい相手と待たせてはならない相手が、細い書き込みで結ばれている。
明朝は給金日だった。
エレノアは十二人分の欄を開いた。定額で受ける者、出来高で受ける者、徒弟を二人まとめて預かる者。名の脇に置かれた小さな印は、工房で上がった品を見なければ数字にならない。
彼女の指が最初の行をなぞった。次の行、その次の行へ移り、十二人目で止まる。筆は硯の横に置いたまま、空欄へは何も書き入れなかった。
明日から差配する者が、明日の出来を確かめて記すべき数字である。別れた家の金を、別れた者の判断で動かすわけにはいかなかった。
約定の頁には、小さな紙片が三枚挟まっている。一枚目は朝一番に返答する染料商、二枚目は正午までに納期を定める金物問屋、三枚目は先方の返事を受けてから開く。順番を取り違えれば、押さえてある荷が別の工房へ回る。
倉の控えには、明朝届く銅板の荷が記されていた。荷車を待たせず、受入印を押し、工房の秤で厚みを確かめる。その後に炉へ火を入れれば、昼までに最初の板が切れる。
扉の外で靴底が鳴った。入ってきたバルドは帽子を胸へ押しつけ、台帳ではなく、空欄のままの給金欄を見た。
「お嬢さん。明日から来ないってのは、本当ですかい」
「はい。今夜で鍵をお返しします」
「給金は」
「わたくしが書くことではなくなりました。出来高の札も、検分前の品も、すべて工房にございます」
「若旦那は札の見方を知らん」
エレノアは綴じ紐の緩みを直した。抜けた紙はない。破った頁もない。三年間に書き足したものは、一行残らずハウエル商会へ置いていく。
「帳場の者が数を拾えば、金額は出せます。約定も日付どおりに返し、銅板を受け取れば、炉は動きます」
「それを誰から始めるかって話だ」
バルドの親指には、磨き粉が爪の際まで入り込んでいた。帽子を握る指が一度開き、また閉じる。
「職人は名前を並べれば動くものではございません。期日に給金を渡し、腕に合う仕事を置き、次の材料が切れる前に手配する。それだけです」
エレノアは給金の頁へ手を置いた。
「あの者たちを動かすのは、看板ではございません」
「なら、俺らの前に立ってくれ」
「バルド親方。わたくしは、皆さまを連れ出すために辞めるのではありません」
「連れ出されるんじゃねえ。どこで腕を使うかは、こっちで決める」
彼は帽子をかぶり直した。いつもなら「お嬢さん」と呼んで去る男が、扉のところでもう一度振り返る。
「俺たちは親方についていきます」
エレノアの指先が、給金欄の最後の行から離れた。彼女は帳面を閉じ、綴じ紐を結ぶ。台帳、金箱、工房の鍵、倉の鍵を机の中央へ揃えた。
自分の机から持ち出したものは、ベルク家から持ってきた筆入れ一つだった。中には短くなった筆が二本と、使い切りかけた墨が入っている。
◇
翌朝、帳場の前には十二人が並んだ。
先頭の職人は給金袋を入れる革鞄を脇へ挟み、二人目はまだ煤のついていない手を腰帯へ差している。普段なら一人ずつ名を呼ばれ、印を押し、受け取った袋を上着の内へしまってから工房へ向かう刻限だった。
「まだか」
バルドの問いに、帳場の若い書記は金箱の前で首を横へ振った。
「額が出ていません。若旦那が今、台帳を見ておられます」
奥の机では、セドリックが頁を前後へめくっていた。日付も数字も読める。だが出来高札のどれを今期へ含め、検分待ちの品を誰の給金へ算入し、徒弟分をどの親方へ預けるかは、頁の上だけでは決まらない。
こんな綴じ紐一冊、俺に読めないはずがない。
セドリックは工房から集めさせた札を机へ広げた。似た印が重なり、一枚が床へ落ちる。拾おうとした書記へ、彼は靴先を鳴らした。
「先に全員へ同じ額を渡せ。差額は来月に回せばいい」
「同じ額では、出来高の者が——」
「俺の命令が聞こえないのか」
列の先頭で、革鞄の口が閉じられた。後ろの職人たちも、誰一人として工房へは向かわない。
そこへグレゴリーが入ってきた。列を見るなり、杖の石突きで床を打つ。
「何をしている。始業の鐘は鳴ったぞ。給金など後だ。まず火を入れろ」
バルドは工房を見た。炉床には昨日の灰が薄く残り、薪は組まれていない。火箸も壁へ掛かったままだった。
「給金日です」
「商会主が後で払うと言っている」
「若旦那は同じ額を払うと言った」
「なら受け取れ。手間をかけさせるな」
誰も手を出さなかった。グレゴリーの声だけが、帳場と工房の間を往復する。
表で車輪の軋む音がした。銅板を積んだ荷車が二台、倉の前で止まっている。御者が受入札を持って帳場へ入り、帽子の庇を上げた。
「ハウエル商会さん。銅板十七束、約定どおりです。どなたが厚みを見ます」
「倉へ下ろせ」
セドリックが言うと、御者は受入札を持ったまま立っていた。
「検分と受入印を先にいただく約定ですが」
「俺が下ろせと言っている」
「荷違いがあれば、こちら持ちになりますんで」
セドリックは積荷を見た。十七束は同じ麻布で包まれ、外から厚みの違いは分からない。
「エレノアが書いた控えを見ろ。どこかにある」
「お嬢さんなら、荷が着く前に秤を空けてくれてましたがね」
御者は受入札を折らずに懐へ戻した。待っていた二台の向きが変わり、銅板を積んだまま通りへ戻っていく。
「待て! ハウエル商会の注文だぞ!」
「正午までに受入先を決めろと荷主から言われてます。次へ回します」
車輪の音が遠ざかった。工房では、まだ炉に火が入らない。
今度は取引先の使いが封書を持って現れた。昨夜、返答を待たせてはならないと確かめた相手である。
「本日分の留め具、正午の便へ載せられますか。返答をいただきたい」
「明日には出す」
「本日の便と申し上げました。間に合わないなら、別へ頼みます」
「一日くらい待てるだろう。うちはハウエル商会だ」
使いは封書を引っ込めた。
「では、別へ頼みます」
「俺が明日出すと言っている!」
返事はなかった。使いの靴音が戸口の外へ消える。
グレゴリーは工房へ向き直り、職人を一人ずつ指さした。
「お前は炉へ行け。お前は倉を開けろ。バルド、若い者を働かせろ。命令に従わぬ者はハウエル商会では使わんぞ」
バルドは腰から革手袋を外し、作業台へ置いた。隣の職人も槌を置き、その隣では鑢が布の上へ伏せられる。十二人分の道具が、順に持ち主の手を離れた。
「誰のおかげで食えてきたと思っている!」
グレゴリーの杖が、また床を打った。今度は石突きがわずかに滑った。
戸口にエレノアが立っていた。昨夜返した裏門の鍵の受領を確かめに来ただけで、外套も脱いでいない。彼女は受領票を帳場の盆から取り、空の金箱と、机いっぱいに広げられた出来高札を見た。
「エレノア、ちょうどいい」
セドリックが椅子を引いた。
「この札を計算しろ。それから銅板の荷を呼び戻せ。取引先にも、お前から明日まで待つよう言え」
「わたくしは、昨夜すべての任をお返しいたしました」
「婚約と仕事は別だ。商会が止まれば、お前が三年間してきたことも無駄になるぞ」
エレノアは給金を待つ列へ目を移した。革鞄も、煤のない手も、壁へ掛かった火箸も、朝の位置から動いていない。
バルドが彼女の前へ進んだ。
「親方。鍵は返しましたな」
「はい」
「なら、行きましょう」
彼が帽子を取ると、残る職人も道具箱を持ち上げた。「お嬢さん」と呼ぶ者は一人もいない。十二人がエレノアの側へ並び、火の入らない炉を背にした。
「お前たちは雇われ職人だ!」
セドリックの手が台帳を叩いた。
「誰に雇われるか、まだ決めちゃいません」
バルドは戸口を開けた。
「だが、誰の下じゃ働けんかは決まった」
◇
ローデン商会の応接間には、見本布も銘酒も置かれていなかった。卓上にあるのは、雇用条件を書いた紙が十二枚、未履行の取引を整理した紙が一枚、厚い革表紙の台帳が一冊だけだった。
テレーザ・ローデンは紙の端を揃え、エレノアへ向けた。灰色の髪を結い上げた彼女の袖口には、飾りの刺繍一つない。
「十二人を、本日付でローデン商会が雇います。給金は当家の金箱から出す。初回分は七日後、それまでの支度金は今日渡します」
「昨日までの未払い分は、ハウエル商会の債務として残してくださいませ」
「当然です。こちらが肩代わりすれば、あちらの帳面だけがきれいになる」
テレーザは次の紙を示した。取引先の名は三つだけで、品目の羅列はない。
「途切れた約定は、先方の同意が得られたものだけ当家で結び直します。材料も当家が買う。あなたには工房の差配を任せたい」
「職人の採否も、仕事順もでしょうか」
「給金額を変える時だけ、わたくしの署名を取ってください。それ以外はあなたが決める。使える腕を、使えない看板の下へ戻す趣味はありません」
エレノアの前へ、一冊の台帳が置かれた。まだ折り癖のない紙から、糊と革の匂いがする。最初の頁にはローデン商会の印だけが押され、あとは白かった。
「受けます」
「では、職人にも聞きましょう」
隣室の扉が開いた。十二人はすでに条件書を読み、給金日と支払場所へ印をつけている。バルドが代表して一枚をテレーザへ返した。
「この額で、この日に間違いないですな」
「間違いありません。遅れれば、わたくしへ直接言いなさい」
「なら働きます」
残る十一枚も卓へ置かれた。テレーザは一枚ずつ署名し、商会印を押す。最後の紙を乾かしてから、支度金の袋を十二人へ渡した。
午後には、朝の使いが留め具の見本を持ってローデン商会を訪れた。
「本日の便は逃しました。次の便へ載せる分を、こちらで頼めますか」
テレーザはエレノアを示した。
「納期は彼女と決めてください」
使いは見本をエレノアの前へ置いた。
「五日で百二十。間に合いますか」
エレノアは見本の留め具を指で返し、裏の削りを確かめた。工房ではバルドが炉を見ており、細工台には二人、仕上げ台には三人置ける。新しい銅板は翌朝、ローデン商会の倉へ届く。
「百二十なら五日目の朝に。検分を二度に分けてよろしければ、四日目に八十を先にお渡しできます」
「それでお願いします」
使いが約定書へ署名した。宛名はローデン商会、その下の窓口には、エレノア・ベルクと記された。
翌朝、銅板の荷車はローデン商会の倉で止まった。秤は空けられ、受入札には印が押され、厚みの違う束だけが別の台へ運ばれる。炉へ火が入り、バルドは最初の板を持ち上げてエレノアの指示を待った。
彼女は新しい台帳を開き、留め具を先、飾り金具を後へ置いた。腕の重い者には切り出しを、指先の速い者には仕上げを割り振る。鐘が二つ鳴る前に、槌の音が工房いっぱいへ揃った。
◇
三度目の給金日を前に、セドリックがローデン商会を訪れた。
以前なら従者に持たせていた外套を、自分の腕へ掛けている。受付の書記から面会の約定を問われると、彼はハウエル家の印章を机へ置いた。
「エレノアに会いに来た。俺の名を言えば分かる」
「ベルク差配役は工房におります。先約がございますので、こちらでお待ちください」
「俺を待たせるのか」
書記は返事をせず、面会簿へ時刻を書き入れた。
エレノアが応接間へ来たのは、鐘が一つ鳴った後だった。作業着ではないが、袖口には帳場用の黒い腕覆いをつけている。外す様子はなかった。
「ご用件を伺います、ハウエル様」
「戻ってこい」
セドリックは椅子にも座らず、卓へ両手をついた。
「職人は半分も戻らない。取引先は返事をよこさず、材料商まで前金を要求してきた。帳場の者を替えても同じだ。お前がいないと商会が回らない」
エレノアは面会簿の控えを卓へ置いた。次の約定まで、残り半刻だった。
「わたくしの任は、あの夜にお返しいたしました」
「だから、もう一度任せると言っている。給金も上げる。婚約のことも、父上は考え直してよいと——」
「必要ございません」
「意地を張るな。三年もいた商会だぞ。職人だって、ハウエルの名がなければ大きな仕事は取れない。お前から言えば戻るはずだ」
エレノアは一度だけ、工房へ続く扉を見た。向こうでは槌が二つ止まり、検分台へ品を運ぶ足音が近づいている。
「あの者たちを動かすのは、看板ではございません」
「まだそんなことを言うのか。ハウエル商会の看板があったから、あいつらは職人でいられたんだ。俺が頼めば——」
扉が開いた。
バルドを先頭に、職人たちが検分済みの留め具を箱へ収めて入ってくる。箱の蓋にはローデン商会の焼印があり、その下へ納品先と期日が記されていた。
セドリックが手を上げた。
「バルド。ちょうどいい。皆を連れて戻れ。今なら勝手に出ていったことは不問にしてやる」
バルドは箱を卓の端へ置いた。セドリックへは帽子の庇さえ上げず、エレノアへ向き直る。
「親方。次は飾り金具で?」
「はい。炉を落とす前に薄板を二枚だけ通してください。残りは明朝に」
「承知」
職人たちは箱を置くと、エレノアの後ろへ並んだ。誰もセドリックの上げた手を見なかった。
エレノアは腕覆いの留め具を直した。手を止めたのは、一度だけだった。
「どうぞ、あなたの看板でお回しになってくださいまし。職人衆、喜んで働きますでしょう」
セドリックの手が下がった。卓上の印章を取り損ね、金属が木の上で乾いた音を立てる。二度目で掴むと、彼は椅子を押し退けた。
「後悔するぞ」
「次の商談がございますので、失礼いたします」
扉を開けた書記が廊下を示した。セドリックは印章を握ったまま出ていき、受付の面会簿には退出の時刻だけが加わった。
工房へ戻ると、炉の火は落とされる前の明るさを保っていた。薄板が二枚、バルドの火箸で順に通される。仕上げ台には明朝の仕事が腕ごとに分けられ、納品箱には取引先の受領印を押す場所が空けてあった。
給金日には、十二人が新しい帳場の前へ並んだ。革鞄の口が開き、煤のついた手が一人ずつ印を押す。名を呼ばれるたび、ローデン商会の金箱から同じ重さではない袋が渡された。
最後の職人が袋をしまうまで、エレノアは帳場に立っていた。空になった盆を確かめてから、新しい台帳を開く。
最初の行を、指でひとなでした。
そこにはバルドの名があり、次の行、その次の行にも、工房で働く者の名が続いている。エレノアは筆へ墨を含ませ、給金の欄へ最初の一筆を入れた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




